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願い蝶  作者: ねこじゃ・じぇねこ
EPISODE 2 【影】
7/38

1.黒い病

〈1〉黒い病


 誰もいない森の道を、わたしはじっと見つめていた。

 さっきまでいた者達を思っているのか。ただ空しく目だけを沿わせているのか。わたし自身、よく分からなかったけれども、こうしていないと落ち込みそうだった。さっきまでのことをあまり考えたくない。考えたくないから、動く気にもならない。

「なあ、君?」

 そんな感じに耽っていると、樹の上の男の子がわたしに声をかけてきた。そもそもわたしがこんな気持ちになってしまったのも、この男の子のせいと言ってもいいはず。この子は悪くないのだろうけれども、この子が狐の仔を毛皮にしなければ、こんなことにはならなかった。わたしは無性に腹立たしくなって、にらむような眼つきで彼を見上げた。だが、男の子は気に留めなかったらしく、普通に訊ねてきた。

「君、願い蝶なの?」

 まさか、この子も願いがあるのだろうか。でも、見たでしょう? わたしの力で幸せになるとは限らない。いい結果になるとは限らないの。それなのに、願うつもりなの? それなのに、この子は、願うつもりなの?

「願い蝶じゃない」

 わたしは無愛想に答えた。

「でも、契った人でしょ?」

 樹の上の男の子はそう言うと、とん、と木の枝を蹴って、わたしの前に降りてきた。思ったよりも大きかった。わたしと同じくらいだろうか。それほど樹が大きいって事だろうけれど、もっと小さい男の子だと思っていたから少しびっくりした。

「僕の名前はエイプス」

 男の子の左目が、宝石のように輝いた。微風に靡く狐の毛皮が、何とも言えず、居た堪れない気持ちにさせる。わたしはエイプスと名乗った男の子から目を逸らし、樹を見上げた。さっさとこの場を終わらせたかった。

「願いは何なの?」

 叶えてやる気はあまりなかったのだが、取り敢えず訊いてみる事にした。

 エイプスは少し安堵したような表情を見せ、樹を指差した。わたしは彼の示す場所を反射的に見つめた。けれど、何も分からなかった。わたしの目に映るのは、神秘的な樹だけ。

「願いは、母さんのことさ」

 エイプスが妙に高い声で言った。

「母さんの病気のこと」

 母さん、とわたしは呟いた。この樹は、エイプスの母だというのだ。やはり、彼は樹の妖精なのだ。だが、最初に抱いたような、愛おしい気持ちなんてなかった。もう関わりたくない。彼とこれ以上関わると、わたしの中の罪の意識が重くなってしまう。

 マフィンを傷付けてしまった罪悪感が。

 わたしが答えないでいると、急にエイプスは不安そうな表情を見せた。窺う様にわたしを見つめ、慌てたように自分の肩にかける狐の毛皮を撫でた。

「もしかして、君もこの仔の事で怒ってるの? 僕の事を憎む程に」

 不安そうなエイプスに、わたしはどう答えるべきか迷った。わたしはメイプルの事で彼を憎んでいるわけではない。マフィンを傷つける結果になった事で苛立っているんだ。だから、彼に対して、距離を置きたくなっている。彼が悪くない事は分かってる。だからこそ、彼が憎い。悪いのは、わたしの様な気がするから。願わなければ、こんなこと、マフィンは知らないで済んだというのに。

「違うわ。もうその事は沢山」

 わたしはユアと同じ事を言った事に気付き、軽く咳払いをして、続けた。

「病気って、この樹が病気なの?」

 わたしが訊くと、エイプスは頷いて、樹の幹を擦った。

「まだ、生まれてない弟妹がいるんだ。母さん、自分が死んでもいいから、弟妹だけは生みたいって……でも、僕、母さんも助けたいんだ。……死んでほしくない」

 わたしは樹に触れてみた。

 何も分からない。

 普通の木と変わらない感触だった。違うのは、樹の醸し出す雰囲気。神々しい雰囲気だけで、とてもこの樹が病気にかかっているとは思えなかった。

(病気よ。よく御覧なさい)

 聞こえたのは、少女の様な声だった。一瞬、シュマかと思ったのだが、すぐに違うことに気付いた。マフィンの願いをかなえた時に聞こえた声と同じだ。

 願い蝶の声。

 わたしは彼女の声の通り、樹をもう一度見てみた。手で触りながら、葉の揺れ具合を見つめ、撫でていく。頬を寄せて、耳を傾け、樹の中の水の流れを感じながら、わたしは目を閉じた。

 黒い。

 黒い。

 樹の中に、黒い塊がある。

 何だろう、これは。

(石玉じゃないか)

 わたしの耳に、また声が響いた。今度は願い蝶じゃない。ヴィアの声だ。ずっと見ていたのだろうか。わたしと別れてから、ずっと。ケンタウロスのウィナから逃げた後も、ずっと。見守ってくれていたのだろうか。ともかく、今、ヴィアはなんて言った? イシダマ? 何それ。知らない名前だった。

(珍しい病だ。生き物を内部から石にしてしまう病気さ)

 内部から石に? どういう事?

(この病に罹ってしまった者は、普通の治療で治る見込みはない。極上の呪術師ならば、治せる者もいるかもしれないが、まず殆どは手が出せない病気だ。病を自覚するのは、体の一部が痺れてきた頃だろう。その頃には、体の四割ほどは病に侵されている。そして、次々に動かせない場所が増えていき、次第に動けなくなり、最後には――)

 石になってしまうのね?

 わたしは寒気を感じた。そんな病気があるなんて知らなかった。そして、この樹がそんな病に罹っているなんて。あの黒い塊が、その病の元なのだろうか。

「この病気は――」

 わたしは呟くように言った。

「此処で流行っているの?」

「分からない。でも、少なくはないらしいよ」

 エイプスは軽く俯くと、自分の母である樹に触れた。

「でも、母さんが罹るなんて思わなかった。母さんが罹る様な病気だったなんて、知らなかったんだ」

 エイプスはわたしを見上げて訴えてきた。

「お願い。母さんの病気を治して! じゃないと、母さんは……」

 如何すべきか、わたしは一瞬迷った。この小さな精霊の為に、母である樹を救うべきか。自分の為に、願いを断るか。

 わたしは樹を見上げてみた。大きくて、暖かい雰囲気の樹だった。枝は揺りかごのように揺れており、まだ生まれていないというエイプスの弟妹らをあやしているかのようだ。まさに、母親の樹。命を見守る母親の樹だった。壮大で、美しい、命の樹だった。

 この樹の中に、あの黒い塊がある。

 毎日蝕まれているのだ。

 救えるのなら、救いたい。

(お前、後悔しても……)

(叶えなさい。あなたが叶えたいのなら)

 ヴィアの忠告を遮って、可愛らしい声が響いた。願い蝶の声? 囁くように、わたしの耳に響いてくる。ふんわりとした甘い誘惑。

(折角授けたんだもの。使って、その力)

 そうだ。今使わなくて、何に使うのだ。

(おい、惑わされるな。願い蝶はお前のそれをもっと欲しいだけだ)

 わたしのそれ。わたしは、はっとした。願い蝶の声が聞こえるわけが少し分かったような気がした。願い蝶は、わたしの約束した物をしっかりと掴んで離さない。だから、体内に居るかの様に、声がするのだ。わたしが願えば願うほど、彼女の声は大きくなるのだろうか。

(蛇の言う事より、あたしの言う事を御聞きなさい)

 願い蝶が言った。さっきまで感じなかったのが嘘のように、彼女の手の温もりを、体の中に感じた。傍にいる。間違いない。見えないけれど、願い蝶はすぐそこにいる。

(あの樹はこの辺りの命の源。今、あの樹が死ねば、瞬く間に命は枯れるでしょう。後継者が育つまで、あの樹は生き続けなくてはいけない。それが自然の用意した定め。それなのに、それを壊そうとしている者がいる)

 ――どういう事? わたしがあの樹を救わなくてはいけないという事?

(それは自由よ。あなたの力だもの。でも、考えて。あの樹が死ねば、この辺りの命は枯れてしまう。動ける者は逃げられるけれど、動けない者は――)

 枯れる? この辺りが? こんなに澄んだ空気の森が? だめだ。いけない。これほどの命の重み。わたしには無下にすることなんて出来ない。だって、わたし自身だって、こんな森でないと生きていけないのだから。

「お願い、母さんを助けて!」

 エイプスの言葉が、わたしの背中を押した。

 願い蝶、いいわ。わたしの約束した物を、もっと持って行くといい。だから、この樹を助けて。エイプスの母さんを助けてあげて!

 その途端、樹に触れるわたしの手から、電流が走ったような気がした。気のせいではないだろう。とても熱かった。

(この馬鹿)

 ヴィアがそう呟いたような気がしたが、わたしにはちっとも堪えなかった。寧ろ、この樹とエイプスを放っておくほうが、後で悔やむ事になってしまう。退いてはわたしの為だ。わたしの為に、樹を救いたい。

(それでいいの。だからあなたと契ったのだもの)

 願い蝶のくすりと笑む声が響いた。少しだけ、その表情が見えた気までした。そんな筈はないのだが。

 と、熱さが途絶えた。

 樹とわたしとの間に、静寂が訪れた。如何なったのだろう? 樹は? 樹の様子は? わたしはまた、樹に触れてみた。目を軽く閉じ、さっきと同じように、感じてみる。樹の命の動きを。――黒い塊が見える。

 うそ? 消えなかった?

 だが、そう思った瞬間、その黒い塊が、泥団子のように崩れていき、水の方へと染み込み、導管を上がっていく。そして、次第に導管からすらも漏れていき、木の枝を通っていく。

 わたしは目を開けた。

 すると、ちょうどその時が見えた。木の枝より生える葉の間から、黒い粉の様なものが吹きだし、緑の間を一時黒く止める。だが、それも束の間、それら黒い粉は、黒い大気となって、風に乗って何処かへ飛んで行った。


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