5.掟
〈5〉掟
黒い馬体。白銀のたてがみ。マフィンは星空のように綺麗な一角獣だった。こんな生き物が、こんな森の中にいるなんて、と、わたしは驚いていた。だって、この森はもっと、ただ物騒なだけのものだと思っていたのだから……。
「マフィン、何処へ行っていたの?」
ユアが訊ねると、マフィンは、はっと息を飲んでユアから離れた。そして、両耳を下げて、項垂れた。その行動は、まるで、叱られた子どものようだった。誰も叱っていないし、マフィンを責めているわけでもないのに、わたしにはそう見えた。
「捜していたの。マフィンの友達を」
「マフィンの友達?」
ユアは首を傾げ、マフィンを覗き込んだ。
「それって一角獣なの?」
「ううん」とマフィンは首を振ると、耳をぴんと上げて、ユアを見上げた。大きく見開かれた目は、吸いこまれそうなほど深い色を浮かべている。軽く蹄を鳴らすと、マフィンは言った。
「メイプル。狐の子なの。とっても面白い友達で。でも……」
「でも?」
「でも、何日も前からいないの。何処に行っちゃったんだろう、って、捜していたんだ、そしたら、途中で狼にあってね。逃げてて迷っちゃってたの」
マフィンは寂しそうに呟くと、ちらりとわたしを見た。じっと見つめてくるマフィンの目。驚いているような、不思議がっているような、マフィンの目。わたしはまた、ある種の怖さを感じた。マフィンが何か願おうとしていないだろうか。マフィンはわたしの事に気付いてしまったのではないだろうか。今に言う。今に訊ねてくる。どうしたらいいだろう?
「願い蝶なの?」
思った通り、マフィンが言った。一角獣が気付かないわけがないのだ。
ユアが首を振り、訂正する。ただ、願い蝶じゃないことだけを示したのか、わたしを庇ってくれたのか、その真意は分からない。でも、どちらにせよ、マフィンの期待の眼差しは変わらなかった。
「でも、願える人でしょう?」
ユアがちらりと私を見つめてきた。わたしは観念して、頷いた。マフィンの表情が僅かに綻ぶ。そして、すぐに真剣な顔になり、マフィンは前足を上げて、わたしに訴えてきた。嘶くようなマフィンの心の叫びが、森にこだまする。
「お願い、マフィンの友達を探して! マフィン、メイプルに会いたいの。何処に居るのか気になるの!」
どうしよう。困っているのは、ユアも同じらしかった。ユアはどう思っているのだろう。狼がうろつくようなこの森で消えた、狐の仔。マフィンが知らない方がいいような結果に結びつくような気がする。
しかし、マフィンは引き下がらないだろう。本当の事を知るまでは。
「どうしてもその友達を探したいの?」
ユアの問いに、マフィンはしっかりと頷いた。
「マフィン、メイプルに謝りたいの。メイプルと喧嘩しちゃって、どうしても謝りたいの。だから、ずっとずっと必死に探してきたんだよ。でも、見つからないの。ねえお願い、力を貸して」
マフィンの目が潤んできた。
わたしは見ていて辛くなった。ただ謝りたいという一心。この小さな体で。この小さな蹄で。友達を必死に探し続ける一途な獣。狼に追われ、自分の命さえも危うくなってもなお、友達を見つけて謝りたいと願うこの心。
助けたい。
力になりたい。
マフィンの友達の狐。メイプル。何処に居るのだろう。その狐の仔は何処にいるのだろう。今、何をしているのだろう。メイプル何処に居るの? 願い蝶、聞いて。メイプルを探して、お願い。
(ありがとう、あなたの贈り物。あなたの願い)
その時、わたしは、夢で聞いた願い蝶の声を聞いた気がした。すぐ傍に居るような声だった。包み込んでいるような、体の中にいるような――。
(すぐに叶えてあげる)
ふと、わたしの脳裏に、何かが浮かんだ。
「メイプル?」
マフィンがはっと一方を見つめ、言った。
「メイプルの匂いがするよ」
わたしは走りだした。ほぼ同時にマフィンも走りだす。ユアがやや遅れて付いてきた。
「待ってよ。二人とも!」
待てない。マフィンの友達が其処に居る。早く行かなければ、見失ってしまう。わたしとマフィンは走った。ユアは必死についてきていた。
こっちだ。と、わたしが思った瞬間、マフィンが飛び出していった。
「メイプル!」
飛び出すマフィンを慌てて追いかける、わたしとユア。マフィンは猛進していく。ユアでさえも、なかなか追いつけない。マフィンには目に見えるぐらい分かるのだろうか。メイプルの残り香が。
「メイプル!」
マフィンが叫びかけ、はっと口を噤んだ。どうしたのだろう、と思ったのも束の間、わたしもユアも気付いた。
マフィンの辿り着いた先。其処には、大きな樹があった。その樹は、前に立つのも恐ろしい程に大きく、威圧的で、そして神秘的だった。明らかに、其処ら辺にいる木とは何かが違う。生きている年数? いや、それよりも、もっと根本的な何か。
「誰? 何しに来たの?」
そんな声がした。
わたしは樹を見渡した。明らかに、樹から声がしたのだ。何処だろう。何処に居るのだろう。見渡して、私は目を止めた。樹の素晴らしい程に広がっている枝の間で、光輝く翠の目と目があったからだ。明るい茶色とオレンジがかった前髪が、右目を隠している。わたしが見ているのは、左の目だ。緑の衣で身を包み、頭には鳥の羽根を二、三枚刺している。小さな男の子のようだ。如何見ても、人間で、如何見ても、人間ではなかった。
樹の、妖精?
人間に近いヒトざるもの。わたしと似たような生き物であることは、確かだった。
「……あ……あああっ――」
マフィンが途切れ途切れに悲鳴を上げ、嘶く様な格好でその男の子を見上げた。余りの驚愕に、呼吸が乱れている。小刻みに震え、何度も、何度も、地面を叩きながら樹の上の男の子を見上げていた。
わたしは、まさか、と思った。
嫌な考えが過ったからだ。
何故なら、その男の子は、肩から――。
「メイプル! メイプルだね! メイプルなんだね!」
マフィンが錯乱したように叫び、そして、わっと泣きだした。喉が壊れてしまうのではと心配する程に、泣き喚き、蹄をどんどんと地面に叩きつけている。
「酷い、酷いよ、何で、メイプル、メイプル――ッ! うわあああああッ!」
マフィンの様子で、分かった。
わたしの嫌な考えは、当たっていたらしい。頭のなかが真っ白になった。こんな事になるなんて、思いもしなかった。願えばいい結果に結びつくと思っていたのに。元気なメイプルとマフィンが再会できるものとばかり――。
途端、わたしは後悔した。なんで、当たってしまったのだろう。否、その前に、なんで、こんな事になってしまったのだろう。なんで、わたしは、マフィンを此処に連れて来てしまったのだろう。なんで、わたしは――。
ユアがマフィンを抱きかかえ、睨むように樹の上の男の子を見つめた。
わたしも、もう一度、男の子を見上げた。狐の仔の毛皮を体に巻いている、小さな男の子を。
「いやだなあ」
男の子がうんざりしたように言った。
「この狐の事でしょう? 仕方無いじゃない。僕だって、こうしないと生きていけないんだもの。これから寒くなる。こうしないと枯れちゃうんだ。だから仕方ないだろう? この仔の運が悪かっただけ。僕は悪くない」
男の子の言葉に、わたしは口籠った。ああ、どうして、わたしはマフィンの願いを叶えてしまったのだろう。願いを叶えなければ、知らずに済んだのに。放っておけば、知らずに済んだのに。
「鬼! 悪魔! メイプルを返して、返しよッ!」
マフィンが叫び続けるのを、わたしは見守るしかなかった。ユアも何も言えないところを見れば、無下にあの男の子を責められない立場に居るのだろう。
男の子の方は、更に顔を顰めて、言った。
「出来ないよ。だって、これを脱いだら僕は凍えて死んでしまうもの。僕が生きる為に、この毛皮は必要だったのさ。仕方無いじゃない! 君だって、草を食べるでしょう? その度に、沢山の草の仲間が嘆いているのが聞こえるかい?」
マフィンはもっと泣き喚いた。
その声はわたしの中に痛いほど響いてくる。ごめんね、マフィン。願いなんて叶えなければ良かったのに。
そしてわたしは男の子を見た。機嫌悪そうに、泣きじゃくるマフィンを見つめる男の子。そして、その男の子を睨むユア。彼らが分かり合えるわけがない。どちらも悪者ではないし、どちらにも非はない。男の子を責めることなんて、わたしには出来なかった。でも、マフィンがそれを理解できるはずもない。
もうマフィンはここに居ない方がいいのではないか、とわたしは思った。それは、ユアも同じだったらしくって、ユアは軽くわたしに目配せすると、ちらりと樹の上の男の子を見上げた。
「もういい。もう沢山だ。お願いだから黙ってて!」
樹の上の男の子に言うと、ユアはマフィンを撫でて静かに語りかけた。
「マフィン、おいで、彼の代わりにはならないかも知れないけれど、俺がいる。ね、だから、戻ろう。もうここにはいない方がいい。俺が話を聞くよ。だから、ね、行こう」
「メイプル……」
泣き喚きながら去っていくマフィンと、それを支えるユアを、わたしは黙って見送った。わたしが願いを叶えなければ良かったのだ。どうして叶えてしまったのだろう。あんなに小さな生き物を傷付けて、何の為の力だろう。
わたしは項垂れた。
もうあの二人に会う事もないだろう。あの二人はもしかしたら、残酷な現実を見せてしまったわたしを憎むかも知れない。樹の上の男の子以上に、わたしの事を。ああ、何て事をしてしまったのだろう。まさか、こんな真実が舞っていたなんて。
ちらりとユアが振り返った。微かに目を細め、また前を向いた。
その二人の様子が、わたしの目と心の底に深く刻み込まれた。