3.ケンタウロスの男
〈3〉ケンタウロスの男
歩く地面はじめじめしていて、取り囲む木々は黒い影のようだった。わたしはその中を、何も考えず、とにかく先に進んだ。ケンタウロスがいるという領域。ケンタウロス。実は、身近に出会ったことはない。男が多いという事しか知らない。逞しい馬や牛の肢体に、ヒトの上半身であることしか知らない。野蛮なのだろうか。この時期。いったい、ヴィアは、何を気にしていたのだろう。
わたしはふと、来た道を振り返ってみた。
もうとっくに、ヴィアもシュマもいなかった。きっと帰ってしまったのだろう。いつまでも手を振るシュマの手を引いて帰っていくヴィアの姿が目に見えた。あの可愛らしい精霊が、もう二度と倒れ木の下敷きにならなりませんように。ああ、いけない、願ってはいけないのだった。
わたしは溜め息を吐くと、歩き続けた。
日が暮れているのか、暮れていないのか、全く分からない。アプリコットはどうしているのだろう。もう家に帰りついただろうか。それとも、まだ外出中で、わたしが帰って来ていないなどとは思っていないのだろうか。そう思うと、切なくなった。わたしは何のために急いでいるんだろう。アプリコットが待っているわけではない。自分が怖いから? ただそれだけのため?
その時だった。
わたしの目に、ちらほらと茶色いものが映った。それは尾を振り上げながらこちらへと突っ込んでくる。何だろう、と考えるまでもなかった。ケンタウロスだ。大きく、雄々しいケンタウロスの男がこちらに猛進している。わたしは焦った。その気配が、ここで迷いはじめた時からわたしを不安に陥れるような気配ではなかったにしろ、自分に突進してくる者を見て、焦らないわけがない。ヴィアは何と言ったっけ。そう思っているうちに、こちらに来てしまった。
ケンタウロスの男がわたしの前に立ちはだかった。じっくりとわたしの身形を確認すると、彼は持っている杖を勢いよく地面に指し、前足の蹄を軽く鳴らした。牛の肢体は、筋肉が盛り上がっている。いかにも強そうな男だった。
「貴女は、願い蝶ではないな。だが、人間でもないようだ」
男が鼻息を吐いた。
わたしは何も言えないまま、男を見上げた。牛の体と同じ色の焦げ茶の髪と目。逞しく生える胸毛はライオンの鬣にも似ていた。初めて直に見るケンタウロスは、そのまま彫刻になりそうな者だった。
「俺はウィナ。遠くからお前の気配を感じていた。貴女は何者だ? 願い蝶と契った者なのか?」
ウィナと名乗る彼に聞かれ、わたしは戸惑った。ヴィアの忠告が頭をかすめていく。願い蝶のこと。他の誰にも言ってはいけないこと。そこには何かよくない理由があるに違いない。だから、わたしは首を横に振った。
「何を仰っているか分からないわ。わたしは只の人間の女の子よ。今から帰る所なの。願い蝶って何のこと?」
「人間だと? 惚けたって無駄だ。俺には願いの力の匂いが分かる。それに、貴女には願いの力が宿っているはずだ。そして、それは一回使われている」
ウィナはわたしから目を逸らし、わたしが来た道をじっと見つめた。
「大方、向こう側の魔女に吹き込まれたのだろう。願いの力を独占しようという魂胆だ。あの女に騙されるな」
「知らないったら。早く帰りたいの。道を開けて」
「いや駄目だ。ここから先は我々ケンタウロスの領域。俺は願い蝶が現れるのをずっと待っていた。みすみす帰すわけにはいかない」
ウィナは全く道を譲る気配がなかった。「でも」と、わたしが言い返そうとすると、彼は嘶く様な格好で前足で力強く地面を叩き、わたしを威嚇した。
「黙れ。俺の人生がかかっているんだ。一つ願いをくれるだけでいい。そうすればすぐにでも道を譲ってやる」
隠し通せない。これ以上刺激すれば、怪我どころじゃすまないかもしれない。わたしは溜め息を吐いた。
「願いは何なの?」
わたしが観念して問うと、ウィナはほっと一息吐いて軽く土を掻いて、尾をぴしゃりと動かした。
「新しいケンタウロスの頭領の死だ」
「え?」
「二度も言わせるな。新しい頭領を死なせて欲しいのだ」
わたしはびっくりした。見ず知らずの者の命を奪うなど、考えられなかった。それも、ここを通るか通らないかだけでとは。どうしても考えられなかった。
「そんなの……出来ないよ」
「うるさい。俺が願えと言っているんだ」
ウィナは食い下がってくる。わたしは困り果てた。そんな願いで誰かの命を奪って、わたしに課せられた何かの期日が短くなってしまうのも嫌だ。どうしたらいいのだろう、アプリコット。ここにアプリコットがいたら、きっと知恵を貸してくれたのに。アプリコットの口はこういう時にだけ俊敏なのだ。
わたしはちらりと周りを見渡すと、ウィナに言った。
「どうして、ボスの死を願うの?」
すると、ウィナはわたしをじっと見つめ、やがて目を逸らして答えた。
「以前は俺が頭領だったからだ。それなのに、奴は俺を罠にはめて頭領の座から引きずり降ろした。すっかり群れの信用をなくして、連れ合いも奪われて、俺は独りで放浪している。だが、奴に復讐したい。俺の人生をめちゃくちゃにしてくれた奴に復讐したいんだ」
なるほど。それでこんなに荒々しいのか。だがわたしは、承諾は出来なかった。自分の力で取り返せないのだろうか。彼だけの我がままの為に、どうしてわたしが力を使わなくちゃならないんだ。でも、そんな事を言ったらこの場で踏み潰されるかもしれない。どうしたら彼を宥められるのだろう。
ああ、アプリコット、どうしたらいい?
わたしが悩んでいると、いきなり、わたしとウィナの間に突風が吹いた。突き刺すような冷たい風に、わたしもウィナも一瞬怯んでしまった。
(汚らわしいケンタウロスめ、その娘に手を出すな。その娘はお前のような悪しき心を持つケンタウロスごときが触れられるような者ではない)
ヴィアの声だった。しかし、さっきわたしが聞いたような声ではなく、体の芯まで凍ってしまうほど恐ろしい声だった。
ウィナはその声を聞くとふっと笑み、風に向かって言った。
「魔女だな。お前の様な忌蛇に言われたくない。お前こそ、使役している精霊を解放してやったらどうだ?」
(うるさい。彼女が私を選んだのだ。お前に言われる筋合いはない)
「どうだか。案外、この娘も新しい召人にしようと思っていたりしてなあ、魔女よ」
ケンタウロスのいやらしい笑みに、ヴィアの機嫌が悪くなるのが雰囲気だけで分かった。
わたしはどうしたらいいか分からなくなり、ただ二人の会話を聞いていた。体も動かなかった。それを知ってか、ウィナは余裕でヴィアの相手をしていた。
ヴィアはここにいないが、気配だけはここにいる。彼女がどう動けるかは分からない。だから、ウィナも彼女から目が離せないのだろう。逃げるなら今なのだ。でも、わたしは動けなかった。動くタイミングが掴めなかったのだと思う。
だが、その混乱の最中で、わたしの耳に無邪気な声が入ってきた。
(ヴィアが動いたら、まっすぐ行ったらいいの)
シュマだった。
わたしはウィナとヴィアの様子を見つめた。風は宙に留まり、ウィナを見下ろしている。あの風が動いたら、だ。そう思いつつ、体の緊張を解していく。転びませんように。……これは願いじゃなくて、自分への注意だ。誰かにそう訂正して、わたしはタイミングを待った。
(今)
シュマの声と共に、ヴィアの風がウィナに向かって吹き荒れた。わたしは誰かに押されたように走りだした。大股で五歩。ウィナはわたしが動き出したのに気付くのが遅れた。このまま。このまま。逃げ切れるかも知れない。ウィナが追いかけてくる。しかし、ヴィアやシュマの風が彼を妨害した。このまま真っ直ぐ。彼女達の作ってくれた機会を逃すわけにはいかない。
わたしは逃げ続けた。
やがて、同じような光景が続く中で、わたしは遥か後ろの方から、我武者羅に吠えて地面を踏み鳴らすような声と音を聞いた。その音を聞いてからも、わたしはとにかく逃げ続けた。追って来ているかも、追って来ていないかも分からない。怖くて仕方なかった。怖くて、怖くて、足が止まらなかった。振り返りたくても振り返れない。
初めて会ったケンタウロス。その恐ろしさが、走れば走るほど、わたしの体に沁み通っていった。頭領の死? 復讐? ケンタウロスはどういう生き物なのだろう。あの男が荒々しいのか、全てがそうなのか。恐怖で混乱しつつも、わたしは考えていた。
――あれでは《彼ら》と同じだ。