2.蛇の魔女
〈2〉蛇の魔女
「誰か、いませんか?」
生き物の気配はする。
わたしは声をかけた。誰かしらが気付くはずだ。誰かが来たら道を訊ねてすぐに帰ろう。果物なら、明日でもいい。きっと、入ってくる場所を間違えたのだ。今日は帰ってゆっくりしよう。こんな事、今までなかったのに。きっと、疲れているんだ。疲れていて、うっかりしてしまったんだ。そう信じたい。それ以外の理由なんて考えたくなかった。今日も、明日も、明後日も、同じ平凡な日が続くと信じているのに。
「誰か……」
「ここにいるよ」
女の声がした。すぐ目の前の黒い木だった為、わたしは驚いて声を上げた。黄色く光る眼がわたしを見つめている。わたしは彼女を見て、さらに驚いてしまった。彼女は、蛇だった。鮮やかな紫と紺と緑の斑点のある蛇。一目見て分かった。この辺りの魔女だ。
わたしは固まってしまった。
目の前の蛇――魔女は、舌をちょろちょろと出して、わたしを覗き込んでいる。
「何かお困りかい?」
彼女が言った。大きな鎌首をもたげ、わたしを覗き込む。とても大きな蛇だった。わたしの体よりもずっと長く、わたしの胴よりもずっと太い。彼女はわたしの顔を見つめると、ふと目を光らせた。彼女に瞼があれば、細められていただろう。
「おや、珍しいお客さんだね。こんな辺境に何用だい? どんな理由であれ、不用心だよ。早くお帰り」
彼女は諌めるようにわたしに言った。わたしは恐々、覗き込んでくる彼女に言った。
「道に迷ったんです。木々のトンネルへ抜けるにはどちらに行ったらいいですか?」
すると彼女は舌をちょろりと出して、わたしを長い体で包み込んだ。頭が真上にあって、見上げるために、わたしは首が痛くなった。
「なるほど、道に迷ったのかい。それは可哀想にね。最初に会ったのが私でよかった。お前は運がいい」
彼女が言った。
「道を教えてやってもいいけれど、その前に、ちょっと私の頼みも聞いてくれるかい?」
わたしは少し怖くなった。此処で聞かなければ、彼女はわたしを食べてしまうのではないだろうかと思ったのだ。わたしには、彼女が只の魔女には見えなかった。もっと違う何者かが、魔女に変身しているように見えた。だからこそわたしは小さく頷いた。
「よかった。お前にしか出来ない事だったからねえ」
彼女はくつくつと笑うと、わたしを体で縛った。わたしは身を竦ませた。何をするつもりだろう。何で縛る必要があるのだろう。まさか、まさか、彼女は――。
「大丈夫、喰いはしないよ。ただ、このまま私に掴まってついて来て貰いたくてね」
彼女がそう言うので、わたしは彼女の胴を掴んだ。とても冷たかった。
「じゃあ、行くよ」
そう言って彼女は動きだした。何処に行くつもりなのだろう。分からないが、彼女は結構な速さで木々を抜け、真っ直ぐと何処かに向かう。わたしはぶつかってくる小枝を我慢しながら、彼女にしがみ付き続けた。時折、何かが木の間からわたし達を見ているような気がして、わたしは竦んだ。これから先、私ひとりで歩くのは怖いかもしれない。
「さあ、着いたよ」
彼女の声に目を開けると、其処は、倒れ木の封鎖する開かれた森だった。わたしがきょとんとしていると、彼女は大きな頭でわたしの背を押し、倒れ木の傍らへと突いた。見れば、倒れ木の下に、白い綺麗な蛇がぐったりとしていた。蛇のように見えたけれども、よく見ればそれは、若い娘のようだった。大きさはよく確認できないけれど、わたしを連れてきた蛇よりも小さかった。それでも、普通の蛇とは比べ物にならないほど大きいのだが。
「二日前に下敷きになった私の連れだよ。お前の力で救ってやって欲しい。私にはどうすることも出来ないのさ」
「でも」とわたしは口籠った。この大きな倒れ木をどう動かせと言うのだろうか。わたしに出来るのだろうか。押しても引いても木は動かないし、白い蛇を傷付けてしまうかもしれない。わたしでは、力不足だ。いや、わたしというより、わたしみたいな種族に頼むなんて、どうかしている。やっぱり、なんだかんだ言って油断させて食べる気なのではないだろうか。
すると、大きな蛇の彼女はわたしを見つめ、舌をちょろちょろと動かした。
「何、簡単な事さ。お前が願えばいいんだ。お前は願い蝶と契った者だろう? 簡単なはずだ。さあ」
大きな眼に促され、わたしは戸惑った。願い蝶? 契った? 一体何の話をしているのだろう。そう思ったが、次の瞬間、ふと昨日の夢を思い出した。そう言えば、蝶々の夢を見た。願い蝶? あれの事なのだろうか。でも、どうしてそれが分かったのだろう?
「さあ、何をしている」
蛇の口先が、わたしのうなじに当たった。とてもいやな雰囲気だ。何もしないという言葉が逆に怖い。四の五の言っている暇はない。このままだと本当に食べられてしまうかもしれない。だが、どうしたらいいのだろう。願う事? 願えばいいのだろうか。
わたしは願ってみた。
――どうか、この白くて綺麗な蛇が助かりますように。
別にお世辞なんかじゃない。本当に綺麗な白蛇なのだ。ともかく、これでいいのだろうか。何が起こると言うのだろう。
その時、急に地震が起きた。
わたしがうろたえていると、その地震はさらに酷くなった。地面から力が押し上げてくるような揺れ。一、二、三、と、倒れ木が揺れた。四、五、六、七と数えるうちに、倒れ木は転がり、白い蛇の全く反対へと落ちていく。白い蛇が解放された。でも、手放しに喜べない。生きているだろうか。まさか、木を退かした事で逆に血管が詰まって死んでしまったりしていないだろうか。そう言う話はよく聞く。前に居た土地でも、同じように木が倒れて下敷きになった獣の話を聞いたことがあるのだ。
しかし、わたしの心配を余所に、白い蛇の目に生が宿り、ふっと顔を上げた。わたしと同じくらい、それか、少し大きいくらいの蛇だった。
「シュマ!」
わたしを案内した大きな蛇が、茫然としている白い蛇に巻きついた。手足があったら抱き締めていたのだろう。その途端、私には一瞬だけ、彼女達がヒトの姿になったような気がした。今のわたしの姿によく似ている姿。わたしが今さっき思ったように、長く黒っぽい髪の女が、きょとんとしている白銀の髪の娘をぐっと抱き締めている。一瞬だった。何だったのだろう。今のわたしには、もう彼女達は蛇にしか見えない。シュマと呼ばれた白い蛇は、ぼんやりとしつつも大きな蛇を見つめ、首を傾げた。
「ヴィア?」
「シュマ、生きてて良かった」
ヴィアと呼ばれた大きな蛇は、開かれた目からほんの少し涙を流すと、わたしをじっと見つめた。起きたばかりのシュマも、わたしをじっと見つめていた。
「お陰で私は掛け替えのない人を失わずに済んだ。礼をしたいからぜひ、私達の住まいにおいで」
ヴィアの目は万華鏡のように輝いていた。シュマが生きていてくれて、嬉しかったのだろう。わたしは悪い気持ちはしなかったが、しかし、首を振った。
「帰らなきゃ。帰り道を教えて」
ヴィアはわたしを覗き込むと、小さく息を漏らした。
「そうかい。残念だ。さあ、私の体に掴まって。送ってあげよう」
すぐ横のヴィアの体に、わたしは掴まった。隣でヴィアの上に絡みついているシュマがすぐにわたしの顔をのぞき込み、青のような赤のような不思議な色の目でわたしを見つめた。
「ありがとう。助けてくれて。あたしはシュマ。あなたは何て言うの?」
シュマは無邪気に笑み、わたしに問いかけてきた。
わたしはすぐに答えようとして、すぐに口を噤んだ。そう言えば、わたしは何ていう名前だっただろう。アプリコットがたまに呼んでくれるわたしの名は。友達への手紙に書いたサインは、何て名前だったか。友達からくる手紙の宛名は、何て名前だっただろう。
思い出せなかった。
どうしてなのだろう。おかしい。わたしは何て名前だった? どうして思い出せないの?
考えれば考える程、わたしは自分の名前を思い出せなくなった。幾ら頭をひねっても、見つめてくる無邪気な彼女に教える名前は浮かんでこない。
「……分からない」
わたしはそう言うしかなかった。わたしの名前は何だろう、アプリコット、わたしの名前は何だった? どうして出てこないの?
「分からないの?」
シュマが驚いた顔で覗き込んできた。わたしはその顔を何気なく見つめ、はっと息を飲んだ。娘だ。蛇の娘ではない。今のわたしと同じような姿の娘。さっき一瞬だけ見た白銀の髪を靡かせたヒトの姿。シュマは蛇の時と変わらない不思議な色の目でわたしを覗きこみ、そっとわたしの頬を拭った。わたしは泣いていた。でも、何故、泣いているのだろう?
「帰り道は分かる?」
わたしは頷いた。そうだ。アプリコットの待っているあの家に帰らなくては。しかし、わたしの涙は止まらなかった。何の涙だろう。もどかしさからの涙。情けなさからの涙。苦しさからの涙。……名前を失った涙。
「お前、願い蝶に何を渡したんだい?」
わたしとシュマを乗せているヴィアが怪訝そうに訊ねてきた。紫の体をうねらせ、紺と緑の斑点を光らせて、黄色い目をちらりとわたしに向けた。
願い蝶。きっと、夢の中の蝶の事で間違いない。彼女はわたしに何と言っただろうか。わたしは必死に思い出した。だが、なかなか思い出せない。彼女は何かを要求した。そうだ。何かを要求したのは確かだ。しかし、それは何だっただろう。思い出せない。
ヴィアは無言のわたしを見て、何かを感じたように口を開いた。
「そうかい。お前は願い蝶に気に入られたね。悪い事は言わない。私達の住まいにおいで。でないと、お前、後悔する事になるよ」
しかし、わたしは首を振った。早く帰らなくては。洗濯もしていないし、今日はもうゆっくりと寝たい。アプリコットだって心配するだろう。それに、この森には、わたしが出来るだけ会いたくない種族の者が住んでいる。
「帰りたいの。帰り道を教えて」
「帰れなくなってしまうかもしれない話だよ?」
ヴィアがやや速度を緩めてわたしを振り返った。シュマも心配そうにわたしを見ている。帰れなくなってしまうかもしれない話? 一体何のことだろうか。
「あなたの願う力、きっと他にも求める人がいるかもね」
シュマが言った。
「助けてもらって言うのもなんだけど、あなた、そんなに人がいいと、この森を抜けられないまま願いを使い果たすかも知れないの」
「どういうこと?」
わたしはシュマを振り返り、首を傾げた。シュマは、完全に女の子にしか見えなかった。わたしよりも少し年上くらいの、若い女の子。銀色の髪と、不思議な目が印象的な、ヒトでないヒトの姿。一瞬だけ、わたしはシュマに見惚れていた。
ヴィアが低めの声で言った。
「期日がくるのさ。願いの力は果て、願い蝶が約束の物を引き取りに来る。今、その日が少し狭まったのさ。私達の所為でね」
シュマが少し肩を竦めた。
「だから、あたし達は責任があるの。後の願いは自分の為に取っておいたほうがいいよ? あなたが何を約束したかはっきりとは知らないけれど、願い蝶はあなたを迎えに来る。どんな花の蜜よりも、あなたとの約束を優先するの。契った以上、あなたにもその責任がある。もちろん、あなたに頼んだあたし達も。あなたを利用する者がいそうだったら、あたし達はあなたを守らなくてはならないの」
「名前を忘れたのは、きっと願い蝶の所為だ。お前が約束しているものと何か関係があるのさ。いくつ願えるかも分からない。だから、願いの力は大切に使うんだよ。今後、私達のような奴等がいても、易々と願ってはいけない。分かったね?」
ヴィアの目線に、わたしはびくりとしつつも頷いた。願い蝶との契り。あの不思議な夢の中の事なのだろう。願えば願うほど、期日は迫り、約束のものは願い蝶の手に渡る。だけど、わたしは一体何を約束したのだろう。願い蝶は、何と言っただろう。思い出せない。何も思いつかない。でも、わたしは落ちついていた。その事に関して、あまり、恐怖を感じなかった。きっと大丈夫だ。願わなければいいのだから。この人達が心配するようなことではない。
「さあ、そろそろ抜け道だ。悪いけれどここから先は、私は乗せられない。ケンタウロスの領域だからね。お気をつけなさい。ケンタウロスは血の気の多い者ばかりだよ」
ヴィアが立ち止り、わたしはヴィアの体を降りた。人間の姿のシュマが手を伸ばしてきたので、わたしはその手を軽く握った。少し冷たかった。シュマが微笑んでわたしの手を離し、ヴィアの体から飛び降りた後、わたしはふとヴィアの姿の変化に気付いた。ヒトの姿だ。わたしやシュマを乗せていたあの蛇姿ではない。黒に近い紫の髪をした、美しい女だった。わたしやシュマよりもいくらか年上の、スレンダーな女性。ヴィアはシュマを抱き寄せると、共にわたしを見つめてきた。
ヴィアが言った。
「本当はこの時期にお前のような者を帰したくないのだけれどね。仕方無いよ。お前は蛇でも魔女でもないからね。私に従う必要はない。ただ、心配しているんだ。ケンタウロスと、お前も気を付けているだろうが、彼らにだけは捕まらないように。そして、他の者と出会っても、願い蝶と契った事を知られないように。お気をつけなさい、このまま真っ直ぐだよ」
ヒト姿のヴィアが、やや黄色い目を細めた。
「ありがとう、さようなら、どうかご無事で。また会えるといいね、妖精さん」
シュマが無邪気に手を振った。
ヴィアは真剣な顔で、続けた。
「遠くに居ても私達が付いてる。今日の事は忘れない。私達はお前の味方だよ。安心して、進みなさい」
わたしは二人の蛇を見つめると、軽く頷いて先へ進んだ。