3.歪んでいる世界
〈3〉歪んでいる世界
闇の中に紛れながら、わたしは気配だけ感じていた。振り返っては駄目だ。振り返ってはいけない。確かに、後ろに、あの妖精喰いの二人がいる。声は聞えない。声は聞えないけれども、わたしに語りかけてくる。
(こっちをご覧)
レダか、ラグか、そんな事は分からない。分かるのは、あの二人がわたしに語りかけてくることだけ。
(こっちをご覧)
駄目だ。わたしはもう歩けない。進めない。もう自分が振り返らないように意識をたもつ事しか、わたしには出来ない。
「おい、しっかりしろ!」
座り込んだわたしをグロウリーが叱咤した。でも、動けない。後ろに引っ張られているような感覚。いや、それだけではなく、力というものが全て吸い取られてしまっているかのような感覚。わたしの活力を支える全ての力が吸い取られ、ぽっかりと空になった其処から生まれるのは、非常に残酷な絶望だけ。体中を掻きむしられているかのようで、気持ちが悪い。
わたしの頭の中で、悲鳴が聞こえた。夢の中と同じ悲鳴。ウィスの悲鳴。蜘蛛の巣から逃げようと足掻いている願い蝶の悲鳴。そして、それをじっと見つめる蜘蛛の目線。ウィスの前に立ちはだかる、エアルファの、絶大な魔力。
「どうにか気を保て。私が追い払ってみよう」
すぐ近くでヴィアの声がした。
「お前は今、妖精喰いからもエアルファからも圧力を受けている。気を保つだけで良い。だから、絶対に振り返るな」
ヴィアに言われて、わたしは何度も何度も頷いた。声で返事するのも億劫だったのだ。すぐにグロウリーやアプリコット、アランシアも駆けて来て、わたしの傍に付き添ってくれた。少しだけ目を開けると、大蛇がわたしの目の前にて鎌首をもたげ、わたしの後ろ、つまり、妖精喰いのいる方向を、ぎらぎらした目で見つめていた。
「お前たち。本当に懲りないのだな」
ヴィアの威嚇の声が響くと、くすりと愛らしく笑む声が聞こえてきた。
「だって、今が狩り時じゃない」
レダだ。わたしの背中に痛いほど視線を当てている。振り向かせようと念じているのが分かった。駄目、振り返っては駄目。わたしは頭を抱えてうずくまった。そうでもしていないと、自分が振り返りそうなのだ。
「まさか願い蝶が蜘蛛の巣にかかるなんてね」
レダが言った。わたしは目を見開いた。
「可哀そうに、あの命も時間の問題だわ。綺麗な翅を震わせて、宝石の様な瞳を潤ませても、あの蜘蛛は自分の事しか考えていない。願い蝶への同情なんて、これっぽっちもなかったわ」
見てきたの? そう問おうとして動いたわたしは、アプリコットに阻まれて、自分が振り返ろうとしていた事に気付き、慌ててもう一度うずくまった。
それを見て、レダは再び笑った。
「私の妖精と契った蝶ですもの。姿をよく見ていたくてね。とても美しい光景だったわ。少しずつ力を溶かされて、蜘蛛に啜られる蝶の悲鳴が心地よかった。ねえ、彼女の痛みが伝わっているのでしょう? だから、ちょっとした私のちょっかいにこんなにも反応してしまうのでしょう?」
レダが問いかけてくる。
ヴィアがやや首をもたげた。今のわたしには人間みたいな姿に見える。目を細め、レダの様子を見ているようだった。
「御宅はたくさんだ。どうせ読もうと思えば読めるのだからね。さて、隠れている男の方にも出て来て貰おうか」
ヴィアの言葉に、レダの気配がきつくなった。
「蛇め、お前もさっさと《無》の所有物になればいいのに。あの蜘蛛よりも弱いくせに、何より恋人を奪われたくせに、よくもまあのうのうと」
「今度は減らず口か。どうせ男のかける奇襲とやらの時間稼ぎだろうがね。私を甘く見るな」
ヴィアがそう言った直後、わたしの左。グロウリーの立っている方向に、何かが突っ込んできた。わたしはぐっと自分を押さえて、それすらも振り向かないように堪えた。気配が教えてくれる。潜んでいた妖精喰い、ラグだ。しかし彼の攻撃は、誰ひとり傷つけることなく、わたしにも触れられずに、阻まれた。ヴィアの力だ。ヴィアが何かをした。ラグを阻むのは、見えない壁の様なものだ。ガラスを叩くような音で分かった。
暫くその何かに攻撃していたラグだが、やがてすっと気配を消した。
「何度来ようと同じだ。私にはお前達の動きが読める」
流石にレダの雰囲気が変わった。わたしの背中に当たる視線も、さっきよりもずっと薄くなっている。ほとんどその視線は、ヴィアに奪われているようだ。
「さて、私の使い魔にされたくなかったら、さっさと去るがいい」
「お前の使い魔だと?」
何処からともなくラグの声がした。
「我々を使い魔にするというのか?」
嘲笑するようなラグの声に、ヴィアは薄らと笑った。
「妖精や精霊を使い魔にするのが魔女だ。お前達は忘れているようだが、私も魔女なのだよ。お前達の魂を私の中に縛りつけることなど簡単にできる」
ヴィアの堂々とした言葉に、ラグもレダも少々怯んだらしい。それもそうだ。ヴィアは力ある魔女。本気を出さずとも、妖精喰いなんて簡単に使い魔に出来る。それは、幾らこの二人の様に力ある妖精喰いであっても、同じだろう。寧ろ、彼らほど力があるならば、ヴィアにとっても都合がいい筈だ。
「選ぶがいい。私に使い魔にされるか、此処を去るか」
二人の妖精喰いは汗を浮かべながら互いに見つめあった。使い魔にされるか、されないか。そんなことよりも、寧ろ、自分たちがもし囚われ、ヴィアの思い通りにされてしまったら、どうなってしまうのかという事を考えているようだった。
ヴィアが急かす様に叫んだ。
「私は待つのが嫌いだ。早く決めないと、片方ずつ虜にするぞ」
苛立つように叫ぶ声に、二人がちらりとこちらを見やった。わたしは目を合わせないように咄嗟に地面を向いた。……その時だった。
ぐらりと世界が歪んだ。体中の力が空っぽになってしまったかのような感覚。耳の奥にて響く、呻き声。もはや悲鳴すら上げられない、ウィスの声。翅を力無く揺らし、四肢をだらりと下げ、やつれていても綺麗に輝く瞳で、自分を捕らえている魔女を見上げる。
わたしははっとした。
ウィスとエアルファ。
彼らが目の前にいる。絶対的支配力のある魔女と、その獲物。少しずつ力を喰われ、弱っていく獲物。もう残されている時間は少ない。彼女にも、わたしにも。
朦朧とする意識の中で、わたしはウィスの視線を感じた。わたしが見えるのだろうか。彼女の唇が、微かに動いている。何か音を刻もうとしている、その唇。何か必死に伝えようとしている、その唇。わたしは読み取らなくてはいけない。しかし、わたしに読み取れるぐらいの言葉を刻む力は、ウィスには残されていなかった。ウィスは静かに目を閉じ、涙を流す。ますます美しくなっていくエアルファに無抵抗に頬を撫でられながら、わたしに伝えるのを、諦めた。
願い蝶が、希望を捨てた。
「ウィス!」
わたしは思わず叫んだ。
ウィスは静かに目を開き、青白い顔で唇を結ぶ。緊張した面持ちで、わたしに静かに首を振る。しかし、構わずにわたしは叫んだ。
「ウィス、待っていて!」
そしてわたしはウィスの囚われている蜘蛛の巣に向かって、走って行った。
ゆらりと振り向く蜘蛛の視線にも構わずに。