2.無事を願う
〈2〉無事を願う
(お願い、ヴィアを止めて)
そんな声が聞こえてきたのは、寝ている時。夢か現かの狭間での事だった。暫くその声はわたしの頭の中を反響し、少しずつではあるけれども、曖昧な夢の中に囚われるわたしの意識を呼び覚ましていった。聞き覚えのある声。透明に澄んだ声。
(このままだと、あいつの思うつぼなの。お願い、ヴィアを止めて)
「シュマ?」
そう問うと、いきなり目の前に光が集まった。辺りは暗闇、目の前には光。とても眩しかったけれども、わたしはじっとその光を見つめていた。光はどんどんと集まっていき、銀色の綺麗な蛇の形へと変わっていく。
(お願い、ヴィアを守って。あたしは大丈夫。大丈夫だから、ヴィアを止めて)
シュマの声は途切れ途切れだった。わたしはすごく心配になった。シュマを象った光は、今にも消えそうだ。少し風が吹いたら、攫われていってしまいそうなほど、繊細な印象だった。憔悴している、そう直感で思うほど。
「シュマ、でも、どうしたらいいの?」
わたしは不安だった。ヴィアのあの目。《無》に対する憎悪の目。自分からシュマを奪ったことから生まれた憎悪の目。魔力が荒んでいくその引き金の目。たった一瞬しか見ていないのに、目について離れないあの目。
(願い蝶ならヴィアに、自分の中の怒りに負けない程の力を与えられる。願い蝶の魔力だったら……。あなたに契らせた、あの願い蝶が力を貸してくれれば……)
「願い蝶……」
わたしは絶望した。ウィスのことだ。ウィスが協力してくれれば、ヴィアを落ち着かせられる。しかし、ウィスはいない。エアルファに捕らえられたままだ。捕まって無かったにしても、あのウィスがそう簡単に協力してくれたかは置いといて、わたし達にはウィスが必要だ。
「わたしの力じゃ駄目なの?」
わたしは訊ねた。
「願い蝶と契ったわたしの力じゃ……」
(願い蝶が弱っている限り、あなたは力を使えない。生まれ付きの力しか使えないわ。それに、契っただけの力じゃ足りないほど、ヴィアの怒りは強いの)
わたしはがっくりと肩を落とした。これじゃあまりに無力だ。願い蝶と契っただけで、わたしは世界の広さを見下していた。やっぱり世界って、狭いけれど広いし、大きい。わたしはいつまでも小さな存在でしかないんだ。でもシュマは、そんな小さなわたしに、あの偉大な魔女を止めて欲しいと願っている。
(お願い、ヴィアを守って。このままじゃ、《無》に捕まってしまう。このままじゃ、自分の生み出した怒りに溺れてしまって、《無》の好みの魔女になってしまうわ。ヴィアが自分の魔力で自分のこころを傷つける前に、お願い)
「でもシュマ、願い蝶はいないの。助けださないといけない。ウィスを捕まえているのは、ヴィアよりも強い魔女なの。無事に助け出すなんていつになるか分からない。それまでヴィアを止められると思う? それまでどうしたらいいの?」
(あなたなら出来るわ)
シュマがしっかりとした口調で言った。
(願い蝶を呼んだあなたなら、願い蝶に選ばれたあなたなら、ヴィアを支えることができる。力なんてなくても、こころで支えることができる)
「こころ?」
(お願い……お願い……ヴィアを守って……お願い……)
シュマの声がか細くなっていった。待って、そう言いかけながら伸ばすわたしの手の先で、シュマを象った銀色の蛇の光は、塵のように消え去ってしまった。それと同時に、わたしを包み込んでいた世界がぐらりと揺れた。目が覚めるんじゃない。違う夢だ。そう思ったのとほぼ同時に、突然、わたしの周りを森が包み込んでいった。ああ、これは、ここ最近見る、いつもの夢じゃないか。もがくウィスをがっちりと押さえるエアルファ。ウィスの魔力を美味しそうに啜る紫髪の魔女。ウィスが悲鳴を上げた。助けてと叫んでいる。でも、わたしには何も出来ない。何故なら、ウィスが動けない時点で、わたしも動けないのだから。
「おいで……わたしの……ちから……」
エアルファが言った。
「おいで……わたしの……」
声が重なる。
「わたしの……獲物」
妖精喰い。わたしははっとした。わたしの腕に、がっちりと爪が食い込んでいる。突き刺すような妖精喰いの気配。何だろう、誰だろう、これは、この気配は、この妖精喰いの気配は。
「おいで」
鋭い声。目を見てはいけない。わたしは顔をあげずに、爪を振り払おうともがいた。でも、爪はしっかりと喰い込んでいて、逃げられない。こっちをじっと見つめる目。鋭い目。鋭いレダの目。
「こっちを見なさい」
レダの声が響いた。
いや。いやだ。見たらいけない。見たら大変な事になる。食べられてしまう。妖精喰いに心まで捕らわれた妖精の末路は決まっている。もちろん知っている、あの日、あの時、妖精喰いに攫われていった友達がどうなったかも、どうなるかも。わたしはなりたくない。わたしはああはなりたくない。だから、見ない。レダの目なんて……――。
「目を開けなさい、目を開けなさい、……――」
命令口調の最後に続いた、ひと握りの文字列。わたしはその列に、はっと目を開いた。その言葉、もう一度言って欲しい。もう一度、言って欲しい。見上げる先には、誰もいない。ただ、「目を開けなさい」と呼んだ声だけが響き渡っている。お願い、その後に続いた言葉を言って。わたしがいくらそう願っても、その言葉は二度と繰り返されなかった。お願い。お願い、その言葉、もしかしたら、もしかすると――……。
「ねえ、起きて」
アランシアの声を聞きながら、わたしはぼんやりと夜空を見上げていた。あれ、どうして、夜空を見上げているのだろう。
「ねえ、アイミ、起きてよ」
アランシアの声。はっとわたしは起き上がっていた。夢を見ていたんだ。そして、今、起きたんだ。アランシアに起こされたんだ。わたしはすぐにアランシアの方を向いた。すると、アランシアは顎で別の方向を示した。
「なにが――」
と問いかけたわたしを黙らせたのは、その場に漂う雰囲気と、ヴィアの鋭い眼光だった。
「あいつらが来た」
ヴィアの低い声に、わたしはびくりとした。あいつらがラグとレダであることはすぐに分かった。あの夢は予知夢だったのだろうか。それとも、夢を介してレダがわたしの意識に潜り込もうとしていたのだろうか。何にせよ、わたしは余り辺りを見渡してはいけないみたいだ。見渡したい気持ちを必死に押さえて、わたしはヴィアとアランシアだけを見ていた。アプリコットとグロウリーは、すぐ傍で別の方向を見ているらしかった。彼らの見る先に、妖精喰いがいるらしい。
「やっぱり、あいつらなの?」
わたしの問いに、ヴィアはゆっくり頷いた。
「どうやらあいつら、妖精喰いの中ではそこそこの上位者らしいな。他の妖精喰いが寄りつかないみたいだ」
「どうしよう……」
わたしの声は、自分で思っているよりもずっと、頼りなく震えていた。ヴィアは表情を変えず、わたしの手をぎゅっと握った。
「このまま闇夜に紛れて逃げる。追ってくるとは思うが、下手にぶつかったりして《嘆き》や《無》を呼ぶ訳にはいかない。いいね」
ヴィアの言葉に、わたしだけでなく、アランシア、アプリコット、グロウリーも頷いた。