1.木枯らしとの恋
〈1〉木枯らしとの恋
断片的に光景が見える。張り巡らされた蜘蛛の巣。光を反射させる露。ぎらついた眼差し。その目に震える瞳。嬉しそうな蜘蛛。苦しそうな蝶。怯えるウィスの顔。ぐったりとした、その様子。
「相手も魔女だ」
突如声がした。ヴィアの声だ。わたしの隣にヴィアがいる。隣に居るだけじゃない。わたしの手を握っている。ヴィアの熱い手。汗ばんでいる手。その様子から、彼女の見る先にいる者が、ただ者ではないと伝わってくる。
ウィスがちらりとこちらを見た。その視線に釣られて、ウィスを愛でる蜘蛛の女も、ゆらりとこちらを見つめてきた。彼女達からも、わたし達の事が見えているのだろうか。ヴィアの手にぎゅっと力が籠る。
「撤退する」
短くそう言い、もう片方のわたしの手も握り締めた。
それと同時に、わたしの視界が真っ暗になった。
再び周囲が明るくなった時、真っ先に、アランシアが見えた。目を爛々と輝かせて、猫の瞳を丸くして、わたしを覗き込んでいた。
「頭痛くない?」
アランシアは開口一番そう訊ねてきた。
わたしは、平気、と答えようとしたが、答える前に、ずんと頭が重くなった。
「あんまり動くなよ。体に負担がかかっているんだ」
ヴィアの声がして、わたしは動くのをやめた。ヴィアの息使いが荒い。まるで、大怪我でも負ったかのような雰囲気。
「僅かだが、眼光を浴びてしまった。私も少し、体がつらい」
ヴィアは荒い息を整えると、声を低めに続けた。
「あの蜘蛛は、名高い魔女だ。私とは比べ物にならない程の……。本気でぶつかり合っても、うまくいって相討ちか、私だけ殺されるか……。とにかく、厄介な存在だ。かつて、《狩人》のエアルファと呼ばれていた」
「知っているの?」
アランシアの問いに、グロウリーが気持ち暗めに唸った。
「俺も聞いたことがある。蜘蛛の大魔女エアルファだ。《木枯らし》の精霊の心を手にいれ、増幅した力で森を守る美しき魔女。そう言えば、少し前から、あまり噂を聞かなくなっていたのだが……」
「いま見たエアルファは正気じゃなかった」
ヴィアが言った。
「まるで、自我を失ってしまったかのような……」
ヴィアの言葉に、その場の空気が締め付けられた。ヴィアが語る大魔女の話。正気を失った大魔女。自我を失った大魔女。願い蝶を捕らえ、ただひたすら何かを求める大きな存在。そこに何があったのか。何が彼女をそうさせたのか。ヴィアの話を聞いているうちに、わたしの思考は、悪い方へと傾いていった。
「エアルファは温厚な魔女だった」
ヴィアが茫然と言った。
「特に、《木枯らし》の娘、ヴィティを手に入れてから、彼女は愛に満ち足りた優しい陽だまりのような存在へと変わっていった」
まるで、ヴィアとシュマのようだ。そうわたしは思った。
「エアルファはヴィティを愛し、ヴィティもエアルファを慕い、互いに支え合い、森を守っていった。……――素晴らしい魔女だった。《春風》を手に入れた私でさえも敵わない程の、大いなる魔女……しかし、驕らない温厚な魔女」
「彼女、ウィスを傷めつけていた……」
わたしはそう呟いた。脳裏によみがえるのは、毎夜見せつけられる夢。先ほどヴィアと共に見た、幻想。ウィスを絡め取り、欲望のままに支配する、その姿。静かに満悦する、その表情。ぞっとするような目の光。温厚とは程遠い、残忍な姿だった。あれは、本当に、現実だったのだろうか。
「願い蝶の見せる幻想はいつも本物だ」
まるでわたしの思考を読み取ったかのように、ヴィアがそう言った。
「間違いなく、エアルファは願い蝶を手に入れた。どうやら、エアルファは願い蝶を願い蝶として見てはいない。だが、同じく、獲物としても見てはいない。ただ、そのしなやかな肢体に満ち溢れる願いの力を啜り、快楽を得ているだけだった。――昔じゃ考えられない。あんな残忍な女じゃなかった……」
「そこに《木枯らし(ヴィティ)》はいたのか?」
久々に聞いた声がした。忘れがちなアプリコットの声だと分かるのに、一分近くかかった。さすがのアプリコットも、訊かずにはいられなかったのだろう。
「その、エアルファの恋人は……」
アプリコットのやや不安を含んだ声は、そのままヴィアに伝染した。そして、わたしにも、しっかりとうつった。エアルファの恋人だった木枯らしの蝶々。その行く末が、丸々シュマの行く末となっている気がしてならなかった。
「いなかった」
ヴィアは答えた。
「いたのは願い蝶と、エアルファだけだ」
わたしはウィスの見せた夢を思いだした。ウィスは何と言っていただろうか。何と言って、エアルファの目を覚まさせようとしただろうか。エアルファの恋人は、何処へいってしまったのだろうか。
「そうだ。彼女は……虜にされている」
ヴィアが力無く言った。
「《無》が絡んでいるんだな?」
グロウリーの鋭い問いに、ヴィアはしっかりと頷いた。
「あの、エアルファが……。あの、エアルファでさえも……《無》に囚われてしまった。《無》の言いなりに、永遠の虜囚に……」
ヴィアはそこまで言うと、咽込んでしまった。このヴィアでさえも恐れる、《木枯らし》を捕まえた大いなる魔女。その魔女を根本から手に入れた《無》は、いったいどこまで膨らんでしまっているのだろうか。そんな《無》が、今度はヴィアに目を付けている。わたしの目の前に居る、この大蛇に目を付けている。ヴィアに圧し掛かるおどろおどろしい魔力は、あまりに大きく、あまりに毒々しかった。
エアルファは、どうして《無》に捕まってしまったのだろうか。エアルファの恋人である《木枯らし(ヴィティ)》は、何処へ行ってしまったのだろうか。
ただ、今の状況を読んだヴィアの嘆きだけが、わたしの耳に響いた。
「シュマ……」
痛々しい声だった。
でも、わたしは気付いた。悲痛な声をあげるヴィアの目に、気付いてしまった。冷たい炎を燃やしたかの様な、鋭い気迫に気付いてしまった。
ヴィアの心の中で、何かが破裂した。その瞬間に。