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願い蝶  作者: ねこじゃ・じぇねこ
EPISODE 1 【願い】
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1.いつもの朝


〈1〉いつもの朝


 体がずっしりと重たい。目が覚める合図だ。心地よい夢の中から引き戻される、そんな合図だ。

 目が覚めると、普通の朝だった。でも、決して普通ではない事はよく分かった。綺麗な夢を見たからだ。醒めてしまうのが惜しい程の、綺麗な夢。その夢の中で星の埃にまみれた、幻想的な夢の中で微笑む彼女。美しい目の女の人。優しい顔をした女の人。わたしと同じくらいか、少し上くらいの。

 蝶々の翅と触覚の生えている――。

 可憐な小鳥の声に、わたしは起き上がった。普通の朝に聞こえる小鳥の声。この時期の小鳥の声。名前は知らない。そう言えば、知ろうとしていなかった。今度調べてみよう。そう思いつつ、わたしは目を擦る。

 ベッドを降りると、柔らかいぬいぐるみを踏んでしまった。あれ、家にはぬいぐるみなんてあまりないはず。あるとしても、戸棚の上にきちんと並べられている。違った、踏んでしまったのは、猫だった。この家に一緒に住んでいるアプリコットだ。白くてふわふわの可愛げのない顔をする猫。クールな彼はわたしが踏んでも動じたりせず、くわっと大きく欠伸をしてのっそりと立ち上がった。

 これも普通の事。わたしが踏みつけてしまったこと以外は、いつもと変わらない事。彼にとっても、わたしにとっても、今日も平凡な一日が始まるみたいだ。もっとも、アプリコットはちょっと出だしの悪い一日かもしれない。ごめんね、アプリコット。返事だろうか、彼の尾が少し動いた。

 ひと言も喋らずに先に歩きだしたアプリコットを追って、わたしは一階に下りて行った。

 一階は、リビング。岩の机があって、明かりが一つと台所。台所は食べ物をしまってあるだけ。此処からかなり遠くにある友達の家みたいに火なんて点かないし、水道もない。水道なんて無くても、すぐ外に小川があるから大丈夫。それに、わたしが食べるのは果物だけで十分だ。だから火なんて必要ない。人間だったらこうもいかないんだろうね。人間じゃなくて、よかった。火なんて燃えるし危ないもの。まあ、少し寒いけれど。それは我慢できる範囲だし大丈夫。

 アプリコットが椅子に座り、わたしをじっと見ていた。朝のお茶もないのかね、とでも言っているかのように、不満そうな目をしている――アプリコットは無口な猫だ。でも、これも何時もの事なので、わたしは動じない。

「お水なら外。ご飯なら獲ってらっしゃい、アプリコット」

 そうわたしが言うと、アプリコットはむすっと唇を結び、ひげをぴんと伸ばして椅子を降りた。わたしは目を擦りながらリビングを抜け、家の扉を開けた。

 と、わたしは立ち止まってしまった。

「なにこれ」

 立ち止ったわたしの足元で、アプリコットが寄り添う様に立っている。アプリコットはわたしを見上げて言った。

「埃だ」

 やっと発した本日の彼の第一声は、わたしを小馬鹿にしたような調子だった。埃くらい見たら分かる。だが、わたしは、そんな彼に不満の一言を告げる暇もなかった。わたしはただ、目の前に広がる外の風景を覗くばかりだった。そこは、いつもの風景ではなかったのだ。いつもならば広がっているのは、翠と霧の景色。薄らと湿った空気がわたしの喉を潤してくれるのだ。

 しかし、今日は違う。

 色も違えば、空気も違った。

 目の前が真っ白なのだ。アプリコットよりも白い。こうしてみると、アプリコットって銀色なんだ、と気付けるほど、外の世界が白い。

 何だろうこれは、埃ではなくて、雪だろうか。いや、違う。違うだろう。そうだとしたら、寒いはずだ。思わず火嫌いのわたしが火をおこしたくなるほど寒いはずだ。でも、寒くはない。秋のような涼しい気候でしかない。それに、わたしが生まれてこの方、雪なんて見た事がない。こんなに降り積もるなんて事は、たぶん、一生ないだろう。それとも、知らなかったけれど、雪って寒くないのだろうか。

 埃? アプリコットは迷わず埃と言った。確かに、真っ白に輝くそれは、埃だ。間違いなく埃だ。わたしの目も、最初に見た時に、ああ、埃ね、と納得した。でも、その心が揺らぐ理由がひとつある。綺麗なのだ。本当に綺麗なのだ。なんて綺麗なんだろう。こんな綺麗な埃は見た事がない。

 それこそ、夢のようだ。

 夢のよう?

 そう思いながらわたしは恐る恐る足を踏み入れた。すると、白い地面の中に、わたしの足はふわりと落ちていき、やがて本来の土の上に着地した。

 やっぱり埃みたいだ。

「埃?」

 わたしは首を傾げた。何かを思い出す。夢だっただろうか。そうだ、夢だった。あの綺麗な蝶々に出会った夢の中で、たくさん降っていた星の埃に似ている。と言う事は、これは星の埃だろうか。

 アプリコットが駆けて行った。白い地面の中を、ふわふわもこもこ走っていく。喉が渇いたのだろうか。わたしもすぐに追った。アプリコットはすでに、小川の前に居た。その白い体には白い埃が付いており、ただでさえ太って見えた体が更に太って見えた。可哀そうに。アプリコットは、でも、わたしの心配を余所に美味しそうに水を飲んでいる。きっと、今日も飲み終わったら何処かに行ってしまうんだろう。いつものように。

「ねえ、今日は何処か行くの?」

 念のため、わたしはアプリコットに訊いてみた。

 すると、彼は飲んでいた口を止め、面倒臭そうに私を見上げた。

「ああ」

 渋くて短い返答だった。

 わたしは小川の前に屈み、顔を洗った。知らないうちについて来ていた白い埃が、わたしの足や腕に付いていた。構いはしない。星の埃だもの。悪い物では決してないのだから。汚いだなんて思いもしない。わたしは顔を洗って、水を一口飲むと、周りを見渡した。

「ねえ、アプリコット?」

 呼びかけたわたしの声が空しく響く。

 もういなくなっている。ついさっきまですぐ横に居たのに。やはり、こんなに普通じゃない外の世界の中でも、アプリコットはいつも通りなのだ。きっと今日も遅くなるだろう。昨日だって、彼は夕食まで帰って来なかった。わたしは溜め息を吐きながら、家に戻った。

 アプリコットのいない家はがらんとしていて、わたし一人には広すぎる。もちろん、わたしみたいな大きさの者が二人だと小さすぎるけれど、わたし一人だと広すぎて仕方がない。それに、暇すぎる。やる事といっても、果物を食べて、水を汲んで、本を読んで、手紙を書いて、果物を探しに散歩することぐらいしかない。あとは、洗濯ぐらいだろうか。誰も来なければ、誰の所にもいかない。友達は皆遠くに居るし、訪問者が居ても、出ない方がいい事の場合が多いからだ。

 手紙が来ていないかだけが、わたしの楽しみだった。もしくは、渡り売りの本屋ぐらいだろうか。だが、それも、今日の所予定はない。

 不幸ではないけれど、何処か物足りない生活だった。

 果物を食べて、冷たい水を飲んで、わたしは手紙を書いた。明後日以降の楽しみのためにだ。あとはこれを出すために外に出て散歩をして、果物を取って、それだけだ。洗濯以外には何もやる事がない。

 前の土地に住んでいる時は楽しかった。友達もたくさんいたし、こんな隠遁生活を送らずに済んだ。此処よりも百倍は美しくて、果物も水も美味しくて、まさに楽園だった。それなのに、如何してこんな所に居なくてはならないんだろう。

「まあ、それもわたしが決めたことなんだけどね」

 わたしは溜め息混じりに机に突っ伏した。何か面白い事があればいいのに。そう思いつつ書いた手紙は、いつもと変わらない文面だった。これを送り、いつもと変わらない返信がくるが、でも、わたしはそれをいつも楽しみにしている。でも、返信にはたまに、前に居た土地での馴染みの行事などが書かれていて、更にわたしの望郷心を掻きたてる。でもそれは、決して不快な事では無くて、むしろ、わたしは求めていた。友達が変わらずに楽しく過ごしている様子。かつてのわたしの居場所が、変わらずに平和であること。それを確認するために、手紙を書いているというのもあった。

 手紙の最後にサインをして、わたしは立ち上がった。

 扉を開けると、やはり目がちかちかした。外は本当に埃で真っ白だ。星の埃に満ちた外界。とても綺麗だった。唯一いつもと違う風景。此処だけは、前に居た土地よりも素敵かもしれない。わたしはその中を歩いた。手紙を出すために。いつものように歩いた。白い地面は湖の様に広がって居て、後ろの方でわたしの家が小さくなってもずっと続いていた。

 でも、そんな白い地面も、しばらく歩いて行くとついに途切れる時が来た。代わって、木々のトンネルに入ったのだ。木漏れ日のさす涼しげなトンネル。少しだけ長く続くそこを抜ければすぐに、ポストがある。この道は、いつも綺麗な空気に包まれていて、わたしはここしか通らない。

 ポストがあるのは花畑の隣で、その花畑にはいつも若いハチドリがいる。おしゃべりが好きで、人当たりのいい彼が、わたしは好きだった。今日もいたらいいのに、そう思った。少しは退屈も紛れるというものだ。

 トンネルを抜けた。

 期待していたわけではないが、白い地面ではなかった。わたしの家の周りとは違って、いつもと同じ赤茶色の土の地面が広がって居て、正面にはいつも見慣れた木のポストがある。わたしは素早くポストに寄って、手紙を投函した。ことり、と軽い音が響き、わたしは溜め息を吐く。一つ、やる事が終わってしまった。

 さり気無く花畑の方向を見つめ、ハチドリを探した。しかし、ハチドリはいなかった。いるのは、わたしとは話の合わなさそうな高飛車な花たちばかり。関わることはやめておこう。わたしは少しがっかりして、更に花畑を見渡した。目についたのは、蝶々や蜂、カマキリやバッタもいるかもしれない。妖精の類もたまに居るらしいのだが、彼らもまた、わたしとは気が合わないだろう。どうせ、彼らにとってわたしは余所者だ。彼らに嫌われてしまったら、わたしは住処を失うかもしれない。

 ふと、一匹のモンシロチョウの少女と目があった。羽化したばかりと言った感じの、初々しい乙女。その円らな瞳が、わたしをじっと見ていた。

 蝶々。そう言えば、あの夢の中の蝶々はどんな蝶々だっただろうか。翅があったのは確かだが、どんな色の翅をしていただろうか。どんな髪の色をしていただろうか。

 なかなか思い出せない。

 ただ、とても綺麗な女の人だったのは確かだ。綺麗で、優しそうな女の人だった。あの少女よりも、年上だったような気がする。わたしと同じくらいか、それよりも上だろうか。

 ふと、わたしが花畑を去ろうとした時、ぴんと弦を弾くような音がした。振り返って周りを確認してみたが、何もいない。何だろう。気のせいだろうか。

 ――うん、きっと気のせいだ。

 わたしはそう思って、そのまま花畑を後にした。

 果物を取りに行かなければ。今日は何の果物を取ろうか。何でもいい。果物が生っていれば取ってしまおう。そう思いつつ、木々のトンネルから脇道へとそれる。鬱蒼と茂る木々を抜けて行けば、季節それぞれの果物が生るひっそりとした果物畑がある。此処を知るのは、この付近に住む生き物達だけだろう。わたしが知っているのはアプリコットにも秘密なのだ。切り株が見えてくると、もうそろそろその場所につく。今日もいつものように沢山の果物をかごに詰めて、家に帰ってゆっくりしよう。そう思いながら、わたしは歩き続けた。

 虫の声がして、小鳥の声がした。獣の声もする。風が暗い道を揺らし、辺りの世界を曖昧にしていく。

 おかしい。もうそろそろ切り株が見えてもいいはずだ。もう少し先だっただろうか。そう思い、進み続ける。だが、いくら前に進んでも、切り株は見えなかった。誰かに抜かれてしまったのだろうか。いや、それならそれで、もう果物畑が見えてくる頃だ。なのに、入口すら見えてこない。どうしてだろうか。

 わたしは段々怖くなった。

 もしかしてわたしは、知らず知らずのうちに脇へそれてしまったのだろうか。つまり、道に迷ってしまった? わたしは立ち止まった。先へ行くべきか、後へ引くべきか、分からなくなった。どうしたらいいのだろう。

 全然分からない。

 わたしの行くべき道が、全然見えてこない。

 途方に暮れつつも、時間は過ぎていった。


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