3.失ったもの
〈3〉失ったもの
妖精喰いの気配が消え去った後、わたし達は茂みに身をひそめ、少しだけ休息をとっていた。さっきまでレダと目を合わせていたわたしは、自分でも情けないくらい相変わらずぼんやりとしていたし、ラグと戦ったアランシアが、地面に身体をぶつけて怪我をしていたので、あまり動けないだろうとグロウリーが提案したのだ。見張りは任せろという彼にすっかり甘えたわたしは、気付けばまた、夢を見ていた。
頬を凍らせる冷たい風。背筋を震わせる鋭い気配。汗が噴き出してくる緊張。それらがわたしの中で渦を巻いていた。夢の中では当たり前のように空を飛んでいて、木と木の間、花と花の間を飛び回っていた。わたしは蝶になっている。蛾ではなかったと思う。たしか、夢の中で蝶になるのは初めてではなかった。前も蝶になって飛べた。これは何回目かだ。だから、当たり前のように飛べる。蝶になったわたしはたくさん飛んだ。花はわたしに笑いかけてくれたし、風は優しくわたしを運んでくれる。わたしはたくさん愛されながら空を飛んで、花がくれる蜜を味わう。また、花が誘っている。わたしに蜜をくれるんだ。わたしは花に誘われるままに滑空した。今度の蜜は濃い味がしそう。わたしはわくわくして下降していく。美味しい蜜がわたしを待っている。そう、その思いでいっぱいだった。だから、わたしは、翅がひっかかって先に進めなくなるまで、その膜に全然気付かなかった。
嫌だ。こんな夢見たくない。体中の血が凍ったように冷たくなった。わたしを見つめてくる視線に、わたしは動けなくなった。怖い。怖いという感覚が、わたしの全身を震わせている。助けて。助けて。何百回も反芻して、やっと声に出せた。
「誰か、助けてッ!」
その声は、わたしの声じゃない。一体、誰の声? 誰の声? 聞き覚えはある。誰の声だっただろう? 思い出せない。
「アイミ……」
アランシアの声で、わたしは目を覚ました。
「どうしたの? 大丈夫?」
覗き込んでくるその目を、わたしはぼんやりと見つめた。ああ、わたし、叫んだんだ。あの時、夢で叫んだように、今ここで叫んでしまったんだ。
「顔色が悪いな」
そう言ったのはアランシアではなく、ヴィアだった。彼女も起きていたらしい。ヴィアは目を鋭く光らせてわたしの顔を見つめると、眉をひそめた。
「悪夢を見たんだね?」
ヴィアの問いに、わたしは頷く。悪夢だった。それだけは肯定出来た。それで、どんな夢だっただろう、とわたしは思い出した。
「夢の中で……わたしは……」
ヴィアが無言の促しているような気がして、わたしは話し出した。
「わたしは、蝶になっていた」
そうだ。蝶になっていた。しかも、初めてじゃなかった。前にも蝶になって飛んだ事があったから、自由に飛びまわれた。
「蝶になって自由に飛び回ってた」
「蝶……」
ヴィアが目を暗く光らせた。
「それは確かに《お前》だったのか?」
ヴィアの確認するような問いが、わたしの心にひっかかった。確かに、自分だったのか。確かに自分だっただろうか。本当に、あれは、自分だったのだろうか。
わたしは、わたしの体で、わたしの声で、わたしの目で、あの夢の中をさまよっていただろうか。
「違った……」
わたしは考えるより先に、答えを言った。
「あれは、《わたし》じゃなかった」
あれは……誰?
アランシアは心配そうに、わたしを覗き込んでいる。わたしはその頭をそっと撫でて、ヴィアを真っ直ぐ見つめた。
「違った。わたしじゃない。わたしは、夢の中で、わたしじゃない蝶々になってた」
ヴィアは表情を変えずにわたしの目を見た。暫く何かを探るように瞳を揺らし、じっと、じっと見据えてくる。そして、夜風がその黒い髪をそっと揺らすと、ヴィアはふうと大きく息を吐き、腕を組んで余所を睨んだ。
「それは願い蝶だ。願い蝶の見たものだろう」
ヴィアの断定的な言葉に、わたしは戸惑った。
願い蝶――ウィスの見たもの?
どれはどういう事なのだろう。
「願い蝶がお前に助けを求めている。お前はやはり願い過ぎた。ここまで期限が迫っていると、私にもどうにも出来ない……」
わたしはふと心配した。わたしの身のことではない。ウィスの事だ。彼女がどうしたというのだろう。そういえば、ずっと話しかけてこない。あんなに願わせようと唆していたのに、長く声を聞いていない。
……そう。そうだ。
あの夢の中でわたしは、願い蝶の……ウィスの声で喋っていた。
わたしはヴィアに訊ねた。
「願い蝶がどうしたっていうの?」
すると、ヴィアは怪訝そうにわたしを見つめ、わたしに訊ね返した。
「お前は、自分の身が可愛くないのか? 願い蝶の夢を見る事がどういう事か、よく分かっているのだろう?」
「そんなことどうでもいい! 願い蝶に何があったの? 教えて、ヴィア!」
噛みつくように質問するわたしを、ヴィアも、アランシアも、驚いたように見つめていた。しかし、ヴィアだけはすぐに気を取りなおし、わたしの質問に答えた。
「私にはちゃんとは分からない。ただ、その夢の内容が、そのまま願い蝶に起こったのだとしたら、お前も危険だ。今のお前は願い蝶と契っている。願い蝶に何かあれば、少なからずお前にも影響するだろうさ」
ヴィアはそう言うと、軽く目を伏せ、俯いた。
「恐らくは、《嘆き》が絡んでいるだろう。きっとその後ろの《無》もね」
「《無》?」
アランシアが訊ねた。
ヴィアは俯いたまま、頷き、続けた。
「《無》は恐ろしい存在だ。あらゆる魔力を吸収し、あらゆる僕を集め、世界の半分近くを支配しようとしている。何人もの魔女が、《無》に囚われ、虜にされているんだ。そうやって魔女を手に入れた《無》は更に増幅し、沢山の《嘆き》を食べる。食べた後で反芻すると、すぐに解き放つ。そうして《嘆き》を増幅させると、また食べてしまう。これを繰り返して大きくなっていき、世界を包み込もうとしているんだ」
「《無》に包みこまれるとどうなっちゃうの?」
わたしの問いに、ヴィアは答える。
「何もなくなる。存在というものが無くなる。この世は空間と時間、そして、《無》だけになるだろう。すべての命は生まれず、新しいものは一切現れない。空間は固まり、時間は止まる。そして、やがて、《無》もなくなる」
「あたい達は?」
アランシアが心配そうに言った。
「あたい達はどうなるの?」
「なくなる」
ヴィアがか細い声で呟いた。
「存在が、なくなる」
わたしは茫然とした。
存在が無くなる。全く予想も出来ない事だ。苦しいのか、悲しいのか、全く分からない。恐らくは、死と同じようなものだろう。だけど、それがどんなものなのか、全然分からない。ただ、怖さは感じだ。不気味さは感じだ。
「《無》はこのままじゃ自分も消えちゃうって知らないの?」
アランシアの声は震えていた。
ヴィアはちらりとわたし達を見つめ、首を傾けた。
「《無》が何を考えているのかなんて分からない。だが、《無》が《嘆き》をこの森に解き放ち、力ある魔女を次々に捕らえているのは確かだ」
わたしは急に不安になった。力ある魔女。それは、今、わたしの目の前にいる。ヴィアだってそうでないわけがない。ケンタウロスだって、グロウリーだって、彼女の力を恐れていたのだから。なんてったって、《春風》を捕らえたと言われる魔女なのだから、と前にアランシアも小声で言っていた。
――春風……?
わたしは彼女に、一つの疑問をぶつけてみた。関係があるかもしれない、一つの疑問。
「シュマは……どうしたの?」
ヴィアの顔が一層暗くなった。