2.聞こえない
〈2〉聞こえない
あの夢はいったい何だったのだろう。
グロウリーとアプリコット、アランシアと一緒に歩みを進めながら、わたしはずっと考えていた。グロウリー達は、昨日とは打って変わって、息を潜めながらひっそりと歩いていた。わたしも無言で彼らに続き、流れる汗を拭いながらそれに続いた。
それにしても、あの夢は、本当に何だったのだろう。まるで、夢の中のわたしは、わたしでない誰かになっているようだった。でも、どんな夢だっただろう。ちゃんと思い出せない。
わたしは緑の中を歩きながら、ずっと考えていた。
確か、わたしは蜘蛛に出会った。蜘蛛に出会って、何か言われた。いや、待って。その前に、わたしは何かに成っていた。今のわたしじゃなくて。今の地を這う事しか出来ないような存在じゃなくて、もっと違う何かになっていた。
何だったろう?
わたしは考えに、考え続けた。でも、浮かんでこない。一体、何だっただろう。どうしても、思い出せない。何だっただろう。
わたしは歩きながら、ふと横の茂みを見つめた。草の間に、蜘蛛の巣が張っている。蜘蛛の巣。その巣には、獲物がかかっている。小さな羽虫。蝿。蛾。そして、羽化したばかりの紋白蝶。巣の主の蜘蛛は、満足げにその獲物達を見つめていた。
食べるのね? 生きるために。
ごく当たり前の、自然な行為。妖精喰いがわたしを追ってくるのと、同じ。グロウリーが、どこかで食事を済ませてくるのと、同じ。
「どうしたの? やっぱり疲れてるの?」
ふと気付くと、アプリコットが心配してわたしを見上げていた。わたしははっと首を振り、「なんでもないよ」とアプリコットに笑いかけた。と、その時、辺りを貫くような気配を感じて、わたしの体が震えた。
(皆、逃げろ! 《嘆き》だ!)
ヴィアの声に、わたし達は火がついたように逃げだした。恐ろしい気配がじわじわと後ろを侵食していく。わたし達を追っていた妖精喰い達の気配も、《嘆き》とは交わらない方向へと避難している。
「油断するな! これを利用して待ち伏せしているかも知れない!」
グロウリーの声に、わたしの胸がぐっと重くなった。
嫌な所だ。早く家に帰りたい。《嘆き》なんて、無くなってしまえばいいのに。
はっとわたしは息を飲んだ。そうだ。《嘆き》を無くせばいいじゃないか。願いの力なら、皆を救えるかもしれない。
わたしはちらりと後ろを睨み、そして、念じた。願い蝶に向けて。わたしの約束したものが何であれ、くれてやる。だから、《嘆き》を無くしてしまって!
(この馬鹿、何を願ってるんだ!)
ヴィアの怒号で、グロウリー達が気付いた。けれど、もう遅い。わたしはもう願ってしまった。願い蝶が。ウィスがすぐに叶えてくれる。今すぐに、《嘆き》の気配が消えるはず。わたしは走りながら、振り返った。《嘆き》は追ってくる。周りの者を侵食しながら、追ってくる。おかしい。どうして。どうして《嘆き》は消えないのだろう。わたしは待った。逃げながら待った。待ちながら逃げた。だが、やはり《嘆き》は消えなかった。
ウィス? どうして?
「埒が明かない。どうしたらいいんだ……」
グロウリーが顔を顰めた。
わたしは《嘆き》が早く消えないか、待ち続けた。でも、やっぱり駄目。《嘆き》は追い続けている。何ともない。
(おかしい。願い蝶が反応しない……)
ヴィアが鋭く呟いた。
(ヴィア、あたしに任せて)
シュマの声が聞こえたと思えば、突風がわたしやグロウリー達の後ろへと吹きぬけていった。突風は真っ直ぐ《嘆き》へとぶつかっていったらしい。暫く経つと、身の毛も弥立つような悲鳴が上がり、《嘆き》の気配が消えた。
「消えた」
(やった)
シュマが無邪気に喜んだのも束の間、《嘆き》の消えた方向から、何か別の気配が生まれた。その気配は、見つめるわたし達を無視して、真っ直ぐ空へと上がっていく。真っ黒な服に、仮面を付けた女の様な姿の風。その風は、一方向をくるりと向くと、無表情にしばし見つめ、そして、不意にそちらへと消えていった。
「まずいな」
アプリコットが短く言った。
「何がまずいの?」
アランシアの問いに、空を見上げたままのグロウリーが答えた。
「魔女たちの居場所がばれたかもしれん」
グロウリーの言葉に、わたしとアランシアが慌てて見上げた時、その風はもう姿形さえなかった。
茫然と見上げるわたし達。あの風は、一体何者であり、本当にヴィア達の居場所に気付いたのだろうか。そんな事を考えていると、ヴィアの鋭い声が上がった。
(妖精喰いがまた動き出した! そっちに行くぞ! こっちの事はいいから早く逃げろ!)
しかし、そんなヴィアの言葉も虚しく、動きだそうとしたわたし達の進行方向に、一つの影が現れた。わたしはそれを見るなり、酷い寒気を感じた。
「あらあら、随分とお急ぎみたいね。折角《嘆き》も去ったんだし、ゆっくりしていったらどうなの?」
美しい顔を微笑ます女、レダ。妖精喰いの女、レダだ。
こちらを見つめてくる目。
その目に、わたしは如何かなりそうだった。
「おい、こっちだ」
焦ったグロウリーの声に、わたしの体は動かなかった。
「どうした、死にたいのか!」
「そうみたいね」
レダが代わりに返事する。わたしの目は、レダの目に釘付けにされたまま。そこから動きそうにもない。わたしだけの力では、どうしようもない。でも、どうしてだろう。何でだろう。
「アイミはキスされちゃったんだよ!」
アランシアがグロウリーに叫んだ。
「あいつがいる限り、アイミは自由に動けない!」
グロウリーは顔を歪め、レダを睨みつけた。レダはわたしから目を離さずに、笑みを深めた。
「随分勝手に遠出をしたものね。さあ、帰ってきなさい。私が笑っているうちに」
レダの伸ばされた手を、わたしはじっと見つめた。何故だろう、今にもわたしは足を踏み出してしまいそうだった。真っ直ぐとレダの元へ行き、その手を握ってしまいそうだった。レダの元へ帰る為に。――帰る?
「……違う……帰るんじゃない……わたしの帰る場所は……」
震えるわたしの口からは、上手く言葉が出なかった。
抵抗しても、抵抗しても、レダから目を離す事が出来ない。
そんなわたしの様子に耐えかねたグロウリーが、飛びだしていった。華麗な身のこなしで、レダへと牙を剥く。しかし、その白い牙が食らいついたのは、レダではなかった。グロウリーの攻撃は獲物を逃し、そして、いきなり現れた新たな敵によって、封じられた。
ラグだ。
わたしはびくりと身を震わせた。
「大変だ!」
アランシアとアプリコットが、グロウリーに助太刀する。ラグとグロウリーは揉み合っている。否、グロウリーを、軽くラグがあしらっている。そんな状況の中で、アランシアとアプリコットが飛びかかると、ラグはグロウリーを突き飛ばし、自分もそちらへと身をかわした。そして、彼らを追ったアランシアとアプリコットの姿が、わたしの視界から消えてしまった。
「ばかな猫達。わざわざ私に譲ってくれたのかしら?」
レダはそう言うと、ゆっくりとわたしへと近づいてくる。駄目。逃げなくては。でも、レダからは目が離せない。足もがくがくして動かない。どうしたらいいの? どうしたら、逃げられるの?
そんなわたしの考えも纏まらないうちに、レダの手がわたしの頬に触れた。
「おかえり」
レダの手の温もりが、わたしの瞼を閉じさせようとする。どうしてだろう。もう起きている事が出来なさそうだ。立っているだけでも疲れてくる。レダの手が離れると同時に、わたしは土の湿った感触を頬に感じた。ああ、倒れたんだ。そう思うと、地面にぶつけた身体が疼いた。
「逃げるなんて酷いじゃない。糧の癖に生意気ね」
抱え上げてくる温もりと共に、そんな声がわたしの耳に入り込んできた。駄目だ。立てない。どうしても立てない。わたしはただじっと、レダの触れる温もりを感じていることしか出来ない。
「アイミ!」
アランシアの悲鳴が聞こえた。
だけど、もう駄目。アランシアも間に合わない。
また、連れて行かれる。
今度はもう、生きて戻れないかも……。
わたしの目の前が、真っ白になってきた。くらくらする。自分がいなくなる。
その時、レダが呆れたように大きな溜め息を吐いた。わたしの頬に爪を立てて、ぎろりと後ろを振り返る。何を見ているのだろう。わたしには見えない。見えなくなってきていた。
「ああ、やっぱりそう簡単にはいかないのね」
レダは後ろを睨みつけながらそう言った。
何だろう。誰だろう。この感覚。この気配は、あれ?
「捨て身で来たというわけ? 大事なものから離れてもいいの?」
「その娘を離せ」
その声。低くて、威勢が良くて、いつもわたしを叱咤するあの声。
レダがくすくす笑いながら、その声の主を嘲るように吐き捨てた。
「蛇め。恋人を奪われるがいいわ。あの哀れな蜘蛛のように、自分を無くすがいいわ」
「妖精喰い。偽りの美しさで着飾った醜い悪魔よ。離さないというのなら、本気でいかせてもらうよ」
ヴィアだ。この気配、ヴィアに間違いない。虚ろな感覚の中で、ヴィアの気配だけが強くわたしに迫ってくる。いや、迫られているのは、レダの方。強い風がわたしを突きぬけていく。わたしの体は急に支えている存在を失って、また、ぐらりと地面に落ちた。だけど、叩きつけられるより前に、ヴィアが抱きとめてくれた。そこでやっと、わたしの頭がはっきりとしてきた。不思議なくらい周囲がよく見える。
「ふうん、本気で来たんだ」
そう言ったのは、アプリコット達を相手にしていたラグだった。いつの間にかアプリコット達から離れて、ヴィアに襲われかけたレダを庇う様に寄り添っている。レダは恐ろしい形相でこちらを見ている。
その二人を、ヴィアは嘲る様に眺めていた。
「さて、ここからが楽しい時間だ。お二人さん?」
ヴィアの声に、妖精喰いの二人はやや退っていく。きっと、力差を感じているのだろう。二人のヴィアに対して見せる姿は、わたしがあの二人に対してみせる姿にも似ていた。
「逃げる、というわけか?」
圧倒的なヴィアの言葉にも、レダとラグは言い返す事も出来ず、ただ表情を歪ませただけで、風に紛れ始めた。
「逃げるのも手だからね」
風と交わりながら、やっと余裕の生まれたラグが、悠々と口を開いた。
「それに、あなただって心から有利なわけじゃない」
ヴィアの表情がやや歪んだ。わたしはそれを見逃さなかった。ヴィアも十分余裕な位置にいるわけではなさそうだ。
「せいぜい、《嘆き》に飲まれないように頑張ればいいさ」
ラグの言葉を最後に、二人の姿は風と共に消えた。二人の消えた方向を見つめるヴィアは、二人の妖精喰いに対して、完全に勝っていたことに違いないはずなのに、その顔は、心成しか、青ざめているようにも思えた。