1.夢繋ぎ
〈1〉夢繋ぎ
妖精喰いの気配は、ある地点にたどり着いた時、不気味な程に消え去った。わたしはほっとしたけれども、グロウリーは逆にそれを不審がっていた。それだけでなく、ヴィアも時折不吉だ、と呟く。でも、わたしは走り通し、歩き通しで疲れてきたので、もう何もかもどうでもよくなっていて、さっさと休みたいということばかり考えていた。
「それもいいが、目が覚めたら妖精喰いの胃袋の中だって事もあり得るだろう?」
グロウリーのさらりとした言葉に、アランシアが「うわあ」とあからさまに嫌な顔をした。嫌な顔をしたいのはわたしの方なのだけど。ああ、妖精喰いから追われているってことがどんなに危険なのか、皆よりもずっと分かっているつもりだ。でも、この疲れはどうしようもない。もう何もかもがどうでもよくなるほど、疲れていた。アランシアに急かされても、グロウリーに急かされても、ヴィアに怖い事を囁かれても、わたしの肉体に奇跡は起こらなかった。本当に空気読んで欲しいって自分でも思う。
「うーん、みんな、もうわたしの事は見捨てて」
わたしが目を擦りながら気だるそうに言っても、皆はどうにかわたしを動かそうとしてくれた。良かった。ではお言葉に甘えて、とか言われなくて。とても有難いことだった。
すると、アプリコットがひょいと木に登って、重たそうな口を開いた。
「洞があるみたいだ。今夜はそこに泊ればいいんじゃないか?」
あまり喋らない彼の言葉は、妙に説得力を含んでいたらしく、アランシアもグロウリーもあっさりと「それがいい」と同意した。わたしは安心した。これで気兼ねなく休める。わたしだけじゃない。グロウリーだって、アランシアだって、それに、アプリコットだって疲れている。皆の表情を見れば、よく分かった。そして、洞に入って奥の奥へと身を寄せ、互いの温もりを感じながら、すっと眠りに就いた皆の様子から、それがよく分かった。結局、一番疲れを訴えていたわたしの方が、最後に眠りに就いた。皆、疲れていたんだ。言わなかっただけで。お喋りなアランシアでさえ、何も言わなかった。わたしは我が儘なのかな?
(眠ったら? あたしとヴィアが見守っているよ?)
シュマの声が聞こえた時、わたしの瞼は、シュマに言われなくても、もう重かった。だけど、シュマの声を聞いた為か、更に重くなったのが分かった。きっとシュマは魔法を使ったんだ。暖かくて、柔らかな魔法を……わたしは目を閉じて、ここ最近聴いていた音を思い出していた。妖精喰いの恐ろしい声。ヴィアとシュマの声。アプリコットのやたら滅多に聞けない声。アランシアのよく聞ける声。グロウリーの野太い声。そして、願い蝶の甘い声。
そう言えば、願い蝶の声を聞いていない。何時からだったかな? そんな事を考えているうちに、わたしは夢の中に吸い込まれていった。
目を開けると、森の中だった。わたしが彷徨っているこの森の何処か。今、わたしが少し震えたのは、悲鳴が聞こえたから。否、助けを求めているのだろうか。悲痛な叫びが聞こえた。一瞬だけ。聞き逃しそうなほど、小さかったけれど。でも、わたしには何処から聞こえたのかも、何処に行けばいいのかも分からなかった。
一歩踏み出すと、わたしは突然空を飛べるようになった。背中に翅が生えている。そうか、飛ぶってこういう事だった、とわたしは生まれつき飛べる身体を持っているかのように、空を飛んだ。わたしに生えているのは、自分からはよく見えないけど、蝶か蛾の翅に似ていた。近くの川の水面の鏡を通して、それは黄色がかった紺の変わった翅だと分かった。
そうだ。悲鳴が何処から聞こえたのか、探してみよう。わたしは飛んだ。どこに行けばいいか分からなかったけれど、直感的に進んでいった。止まる事は出来なかった。こちらに行くしかない。そう思った時、わたしの目の前が、急に反転した。視界を取られたわたしは、そのまま前に突っ込んだ。
何だろう。すごく嫌な感触。わたしを包み込んでいる。すごく変な感触。
恐る恐る目を開けてみると、わたしの身体を白い網の様なものが捕まえていた。しかも、それはべとべとしていて、とても気持ち悪い。すぐに抜け出そうと思ったけれど、もがけばもがくほど、その網は絡まってくる。
何なの、これ? 何なの?
凍てついた気配を感じて、わたしの息が止まりかけた。ふと横を見ると、其処には目を光らせる別の存在があった。誰だろう? ひと? 女だろうことは分かった。長い髪を垂らし、その目は髪で隠れている。妙に細い腕を伸ばし、網にかかったわたしの翅に、軽く触れた。
助けくれるの?
「やっと……捕まえた……」
その女が、やや拙い口調で呟いた。
「恋人……」
助けてくれない。
わたしはすぐに分かった。この網は、彼女の網だ。彼女は、蜘蛛。蝶になったわたしが、出会ってはいけなかった存在。
「……誰か……誰か……」
わたしは言葉に詰まった。違う。この声、わたしの声じゃない。
「……誰か……助けて――ッ!」
わたしの声じゃない。
これは、この声は……――。
「ウィス!」
わたしは目を覚ました。夢がすっと消え、辺りが洞である事に気付くのに、暫く掛った。
そう、思い出した。思い出せた。願い蝶の名前。契った時に聞いた、彼女の名前。ウィス。そう、ウィスという名前。願い蝶はそう名乗ったんだ。どうして忘れていたんだろう? どうして思い出したんだろう?
わたしの頭に、夢の出来事が蘇った。
「ウィス……」
わたしはその名前を反芻した。
今のは本当に夢? わたしは夢の中で、ウィスになっていた。ウィスになって空を飛んでいた。そして、捕まった。蜘蛛の女に。本当に夢? それにしては……――。
「アイミ、どうしたの?」
アランシアが薄目を開けてわたしを見つめてきた。
「アランシア……」
わたしはアランシアの寝呆けた顔を見つめた。ウィス。私の夢の中で、願い蝶に起きた出来事。あれはいったい、何だったのだろう。
「顔が真っ青だよ? 大丈夫?」
わたしは恐る恐る自分の頬を触り、そして、軽く抓った。痛い。今はきっと現実なんだと思う。さっきのは確かに夢だった。ウィスが捕まった夢。夢の話だ。……現実じゃない。
「変な夢を見ただけ……」
わたしはぼんやりとそう言い、アランシアを見つめた。
「もういいの。寝ましょう」
アランシアは不思議そうな顔をしていたが、眠気には敵わなかったらしく、そのまま寝入ってしまった。わたしには都合が良かった。今の状態を説明しろなんて言われたら、わたしは混乱で一杯一杯になってしまう。
もういい。寝よう。寝てから考えよう。
そう思って、わたしはまた、眠りに就いた。
また夢だ。さっきと同じような風景。また森の中の夢だ。しかも、また、あの気色悪い感覚が一緒だ。
「足りない……」
声が聞こえた。
「もっと、もっと必要なんだ……」
さっきも聞いた声。夢の中で聞いた事のある声。
「もう止めて」
別の声がした。
「そんな事して、何になるの? 目を覚まして! あなたは、利用されているのッ!」
利用されているの……。
はっと目が覚めた。映像もろくに残らない夢だった。ただ声のみが印象に残る様な夢。辺りはすっかり明るくなっており、グロウリーやアプリコット、アランシアもすでに起きていた。
「さて、気配がない内に行こう」
グロウリーの声に、わたし達は立ち上がった。