4.夢交わし
〈4〉夢交わし
わたしはまた夢を見た。あの夜の夢のように、星の埃が降っている。その中で、わたしは誰かと向かい合っている。ああ、願い蝶だ。願い蝶と向かい合っている。これは、あの夢の記憶なのだろうか。願い蝶は言う。
(あなたは何をくれるの?)
わたしは何をあげるの?
願い蝶の翅が、星の埃できらきらと輝いていた。その目も、同じように光っていた。美しい黒真珠の目。宝石そのものの目。花を捕まえるその手で、わたしを軽く抱き締める。わたしは、何を約束したのだろう。
(あなたは何をくれるの?)
願い蝶の言葉が繰り返された。
わたしは何をあげるの?
どうしても思い出せない。ただ、思い出せるのは、あの夢との違いだった。わたしはあの夜よりも、もっともっと無力になっていた。願い蝶が、こんなにも美しくて、こんなにも強い存在だったなんて気付かなかった。きっと、今のわたしは願い蝶の虜だ。願い蝶が言う通りに動いてしまう。願い蝶の思惑通りに動いてしまう。
願い蝶は目を細め、わたしの手に軽くキスをした。そのキスは、甘くもなく、酸っぱくもなく、ただ柔らかかった。願い蝶が口を離すと、体の奥に潜む見えない力が、ぐっと引き出されたような感覚に陥った。元に戻そうにも、もはやわたしの言う事なんて聞いてくれない。その力はこぞってわたしの身体を抜けだし、願い蝶に残らず捕まっていく。
(あなたは何をくれるの?)
願い蝶の瞳の上が、少しずつ潤ってきた。美しい光を放つ涙を数滴落としながら、願い蝶はわたしに訊ねる。
(あなたは何をくれるの?)
何度も、何度も、同じ言葉。
わたしはじっと願い蝶を見つめた。花の蜜を吸う蝶々。花を押さえ込み、蜜を堪能する蝶々。わたしに願いを与え、代わりに蜜を貰おうとしている蝶々。美しい、その蝶々。
あなたの名前は、何?
わたしの問いは、夢の中で響き渡った。
あなたの名前は何なの?
星の埃が積もり始めた。辺りは黒く、そして白く輝いている。立ち竦むわたしと願い蝶は、頭から星の埃の銀色を被っている。肩にも積もっていき、足元も隠していく。星の埃はどんどん降って来て、止む事を知らないらしい。じっと見つめるわたしの目を、願い蝶は静かに見つめる。静かに、静かに。願い蝶の手が伸びてきた。そっとわたしの頬を触り、そっとわたしの涙を拭う。わたしは泣いている? でも、どうして?
(あなたはあたしの花。
あたしに蜜をくれる花。
でも、もっともっといい物を秘めている。
あなたの体の奥に。
あなたの魂の奥に。
もっと素敵な物が息を顰めてる)
願い蝶の手が、わたしを包み込んだ。動けずにいるわたしに追い打ちをかけるように、わたしの体に染み込ませるように、願い蝶は語りかける。ああ、もうどうなってもいい。願い蝶のためなら、どうなってもいい。わたしなんてちっぽけな存在。どうなってもいい。
(でも、あなたはまだ蕾なの。
今から咲く蕾。
今から咲かせなきゃならない蕾。
さあ、もっと心を開いて。
あたしの前で咲いてごらん)
願い蝶の声が、わたしの体の奥に響き渡る。わたしを根底から動かそうとしている力。その願い蝶の魔術に、わたしの存在そのものが揺れる。お願い、もう止めて。わたしがわたしでなくなってしまう。これ以上は、止めて。
あなた、誰なの?
涙が溢れてくるわたしの目を、願い蝶はじっと見つめた。じっと見つめ、嬉しそうに笑い、わたしの涙を拭う。その笑みは、とても美しかった。わたしの息が止まってしまうかの様に、美しかった。もう何も考えたくない。どうなってもいい。どうなってしまってもいい。この願い蝶が求めているのなら、わたしなんてどうなってもいい。
(怖がらないで)
願い蝶が言った。
(あなたは何も失ったりしないわ)
願い蝶が言った。
わたしを抱き締めて、心を揺さぶってくる。
(だから、ね、咲いてごらん)
願い蝶の囁きに、わたしの心が震える。わたしの体が震える。自分の足が無くなってしまったかのように、立っていられない。もう止めて。わたしはそう叫びたかった。叫びたかったけれど、口から出たのは、違う言葉だった。全く違う言葉だった。願い蝶はその言葉を聞くと、目を細めた。星の埃は止んできた。今光っているのは、わたしと願い蝶にかかった星の埃達。わたし達を輝かせている。わたし達を包み込んでいる。
(ありがとう)
願い蝶の声が聞こえる。
(きっと守るのよ、その約束)
願い蝶が何か言っている。
(私の……)
その小さな口が告げた、一つの名前。それは……その名前は……。