3.アンズとオレンジ
〈3〉アンズとオレンジ
わたしは、はっとそちらを見た。さっきは見えなかったのに、そこには二つの目があった。赤く光る瞳。微かに入る光から、本来は澄んだ青の目だと分かる。体は洞の中よりも真っ黒で、スリムな体型だった。そう、アプリコットとは違って。猫だとすぐに分かったのは、光っている目の形からだった。しかもその黒猫は、見知らぬ猫ではなかった。
黒猫は赤い瞳の目を細めて、ふふん、と鼻を鳴らした。
「悪いねえ。本当なら素通りしようと思ったんだけど、知り合いの様な悲鳴が聞こえたからつい首を突っ込んじまった。案の定だね、アイミ」
アランシアだ。アプリコットの友達のアランシア。何から何までアプリコットとは正反対で、猫の中でも御喋り猫として有名なのだ。わたしの事を「アイミ」と呼んでいる。アイミがわたしの名前だったっけ? ……違う。それはわたしの本名じゃなくて、あだ名だ。しかも、アランシアしか使わないあだ名。どうしてこの名前をつけたのか、いまだに教えてくれないアランシアオリジナルのあだ名。
レダがわたしをちらりと見て、軽く笑んだ。
「へえ、知り合いなの。なら尚更立ち去るべきよ。知り合いのこれからを見るなんて、酷過ぎるでしょう?」
アランシアはひげをぴくりとさせて、目を軽く閉じた。
「なるほどね。確かにそうだよ。でも、これを見てすごすごと立ち去れると思う? あたいはサバンナの王様ライオンよりも正義感の強い黒猫なんだぞ」
サバンナの王様ライオンがどの位正義感があったのかは知らないけれど、アランシアが正義感の強い猫だったなんて初耳だ。でも、初耳でもいいから、助けて欲しいのは事実で、わたしは黙ってアランシアを見つめていた。
「ふうん。そりゃおっかないねえ」
ラグがばかにしたように言った。
そりゃそうだ。いくら正義感があったって、猫一人に何が出来るのだろう。相手は恐ろしい妖精喰いが二人だ。ああ、こんな事なら独り立ちなんて考えないで、仲間と一緒に暮らしていけばよかったかな。でも、どうしても堪えられないことがあった。あの場所にずっと居続けることが出来ないことが、わたしの中に起こったから……。
「それはサバンナの王様も吃驚だね」
レダが言って、急にわたしの体をぎゅっと掴んだ。来る。わたしの全身の毛が逆立った。アランシアを無視して続ける気だ。嫌だ。わたしは唸りながらばたばたと抵抗した。でも、レダの力は強くて、抜け出せない。アランシアが急いで駆けてきたけれど、間に合うわけがない。きっと、あっという間だったんだと思う。あっという間だったんだと思うけれど、わたしにはすごく長かった。ぎゅっと掴まれる感覚。レダが動き出す感覚。アランシアが走りだす光景。鳥肌が立ったこと。そして、首筋に走る冷たさ。
気づけばわたしは叫んでいた。何を叫んでいるかも分からない。
アランシアも何か叫んでいるみたいだった。わたしは近づいてくるアランシアに手を伸ばしたけれど、それも届かなかった。視界が曇っていき、アランシアが遠ざかっていく。小さくて頼りないけれど、遠ざかっていくアランシアは希望に見えた。
行かないで、アランシア。
アランシアの影がきれいになくなると、わたしを包み込んでいるのは、レダの冷たい気配だけになった。ラグはいない。レダだけだ。レダに口づけされた。これは、きっと、取り返しのつかないことなのかもしれない。
(違うわ)
真っ暗な中で声がした。聞き覚えのある声。
(まだチャンスはある)
鈴のような声。願い蝶の声だ。
(あなたはまだ、逃げられる)
「願えって言うんでしょう?」
願い蝶が言う前に、わたしは言った。願い蝶に耳を貸すな。ヴィアもシュマもそう言っていた。願い蝶はわたしの終わりを願っている。わたしが約束したものを、早く欲しいと思っている。あの二人の蛇は、そう言っていた。それで間違いないと、今なら分かる。
(それも違う)
けれど、願い蝶の答えは意外なものだった。
(願わなくても、あなたのお友達が助けてくれるでしょう?)
「アランシアのこと?」
(それと、あの白い彼ね)
願い蝶はくすくすと笑った。
(だから安心して。あなたが絶望すると、あたしも辛くなるの。大丈夫だから、心配しないで)
どこがどう大丈夫なのだろう。妖精喰いにキスされた者が、どうなるか知っている。実際に、犠牲になった仲間も見てきた。それなのに、大丈夫だなんて。
(とにかく、ね、あなたを襲った妖精喰いが彼らでよかった。ラグとかいう子が言う様に、あなたは運がいいの。あたしのお陰でね)
なにやら恩着せがましい事を言って、願い蝶はまたくすりと笑んだ。
(ほうら、もう糸口が見つかった)
願い蝶の声に、わたしは周囲を見渡した。真っ暗だった空間に、光が溢れだした。わたしが呆気に取られている間に、光は私を包み込んで、真っ暗な空間を真っ白に変えていった。やがて光が萎んでいって視界が戻ってくると、そこが木の枝の下だと分かった。さっきまで居た洞の中ではない。木の枝の下だ。
「気が付いたね」
アランシアの声に、わたしは我に返った。
レダもラグもいない。妖精喰いがいない。わたしは、無事だ。何処も怪我していないらしい。
「全く冷や冷やしたよ」
アランシアが尾をばんばんと地面に叩きつけながら言った。
「でも、このあたいの力で助けたんだよ」
「おい」
自慢げに言うアランシアに突っ込みを入れるような声がした。たった一言だったが、その声が誰の声か、わたしにはすぐに分かった。
「アプリコット?」
何故ここに? というのは、アランシアも同じなのだが。どうして二人がこんな所にいるのだろう?
アプリコットはわたしをしげしげと見つめ、軽く溜め息を吐いた。
「とりあえず、頭はしっかりとしているらしい」
そうとだけ言って、アプリコットは口を閉じた。相変わらずだ。それはともかく、わたしには分からなかった。確かに妖精喰いに掴まっていたのに、どうやって逃げだしたんだろう。それも、アランシアとアプリコットだけで。
わたしがその事について聞こうとすると、アランシアが声をひそめて言った。
「静かに、まだあいつ等が捜しているかも。暫くここで静かにしてよう」
「ここで?」
わたしはそう言われて、やっと気付いた。木の枝の下だと思っていた此処は、木の枝の上だった。上に伸びる枝だけ見ていたので、気付かなかった。地面だと思っていたのは、木の幹だったし、砂だと思っていたのは、木屑だった。
「静かにしてたらあいつ等も気付かないさ。ほとぼりが冷めるまでここに居よう」
「それっていつになるかな?」
「さあね」
アランシアは適当に頷いて、尾をぱたりと落とした。
わたしはふと、はぐれてしまったグロウリーやヴィア達の事を思い出した。どこで何をしているだろう? 心配しているかもしれない。探しているかもしれない。それとも、もう諦めてしまっただろうか。
でもわたしは。彼らとはまた会える。無事に会えると信じていた。
そう願っていた。
これも、願いに入るのかな?
「暫くは動けないかもしんないし、今日はもう寝ようか」
アランシアが言った。
「え、わたし、いま起きたばかりなのに?」
わたしの問いに、アランシアはにっこりと頷く。
「どうせ自分で思っているよりも疲れてるから、ぐっすり眠れると思うよ」
本当かな、と思ったわたし。でも、瞼を閉じようとすると、急に体の力が抜けていった。アランシアの言うとおりなのかしら。そう思いつつ、自分でも意外なほどあっさりと、そして、ゆっくりと夢の中へと堕ちていった。
それと同時に、身体がとてもとても楽になった。