2.妖精喰い
〈2〉妖精喰い
妖精喰い。その名の通りの種族。生き抜くために澄んだ森に住むわたし達にとっては危険な存在。大人も子どもも、彼らには近づいてはいけない。捕まったら最後。どうなるかはその妖精喰いの気持ち次第。
わたしはどうなるんだろう。せめて、楽に逝きたいけれども、そうはならないと聞いたことがあるような気がする。では、如何なるのか、それを思い出せるほど、わたしは冷静じゃなかった。わたしの頭の中は真っ白だった。もう、此処から消えてなくなりたい。
その時、妖精喰いの青年が、ちらりとグロウリーを見やった。
「狼か。妙な組み合わせだな。まあ、いいけど」
そう言って、軽くグロウリーの威嚇をあしらうと、青年はわたしの頭をぐっと掴み、地面に押さえ付けてきた。その力の強さに、わたしはすぐに苦しくなった。地面はじめじめとしていてわたしの頭を泥まみれにした。でも、その気持ち悪さよりもずっと、妖精喰いに頭を掴まれていることの方が、気持ち悪くて仕方なかった。
「狼、お前も生き物を狩るだろう? 我々の空腹も分かるはずだ」
「生憎、身内びいきなものでね」
グロウリーは歯を見せて笑ったらしい。ちらりとその姿が見えた。青年は無表情にグロウリーの笑みを見ると、やがて静かに笑みを作り、片腕をゆっくりと上げて天井を指した。
「そうか。それはそれは悪い事をするね。この子の事は早く忘れるんだよ。山羊の母親が狼に捕まった我が子に対してするように」
青年の静かな声には、明らかに嫌味が含まれていた。その耳触りなほど爽やかな声を聞くと同時に、わたしは異変に気付いた。視界がぼやけている。だんだんとグロウリーの姿が見えなくなってきた。白い靄がいっぱい。いっぱい……。
わたし、死ぬの?
「待て!」
グロウリーの咆哮が聞こえた。でも、それと同時に、グロウリーの頼もしい気配が、消えた。残されたのは、わたしと、青年の刺々しい気配。いやもしかしたら、残されたのはグロウリーの方で、わたし達が断絶されたのかもしれない。
「さて、帰るとするか。案内するよ、お嬢さん」
青年の声が、わたしの頭の中に響いた。
案内? 一体何処へ?
訊く間もなく、わたしは立ち上がった。自分の意思じゃない。体が勝手に動く。青年に片手を渡し、引っ張られるままに、不思議な空間を歩いた。暗いような、明る過ぎるような、熱いような、寒いような空間。夢の入口にも似ている空間。ただまっすぐ進む青年と、それに引っ張られるわたし。
案内? 彼の愛しい人の元へ?
どういう事?
ヴィア! グロウリー!
誰も返事をしてくれない。わたしを引っ張る青年の目だけが、わたしに語りかけている。
「怖がらずにおいで。君が思っている程、妖精喰いは怖くない」
「怖くない?」
わたしは言われるままに繰り返した。すると、青年は頷いた。
「そうだ。怖くない。寧ろ、我々に捕まった事に感謝すべきだよ。他の奴だったら、あの場で八つ裂きになってた。君は運がいい」
青年の目は、本当に優しげで、噂に聞く妖精喰いとはまるで違った。彼の目を見ていると、不思議と安心感が生まれて来る。彼がわたしを殺すわけがない。何故か、そんな確信が持てた。……じゃあ、何故、わたしを連れて行かなきゃならない。
駄目だ。
わたしは首を振って、彼から目を逸らした。思考が偏りかけていた。妖精喰いに対して安心感を持つなんて、生き物として終わってる……と、アプリコットに叱られてしまう。叱られるも何も、と、わたしは彼に掴まれる腕を動かそうとした。案の定、びくともしなかった。叱られるも何も、若しかしたら、若しかすると、もうアプリコットにも会えないかもしれない。
一歩、妖精喰いの青年が大きく踏み出した。
わたしは急に、怖いという感覚を思い出した。
胃がぎゅっと握りしめられているかのような感覚だった。足が震えて、これ以上歩けない。本当に今すぐに、消えてなくなりたい。わたしは、間違いなく、巣穴に通されてる。間違いなく、彼にとってわたしは、食べ物でしかない。彼の愛しい人とやらへの愛のこもったお土産になってる。
嫌だ。
死にたくない。
死にたくない。
だれか、助けて!
わたしの切実な願いが、闇に吸い込まれていく。わたしと契りを結んだ願い蝶にすら、この声は届いていないというの?
「着いたよ」
青年がぎゅっと手を握りしめて、くすりと笑みながら言った。何で笑んだのか、わたしには分からない。きっと、意地の悪い理由だろうとは思った。
わたしが連れられたのは、木と木が複雑に絡み合って出来た、洞の様な所だった。青年に背を押され、その洞へと踏み込んだ時、わたしの緊張は体以上に膨れ上がっているんじゃないかと思うほど、大きかった。
「レダ。帰って来たよ」
青年が洞の中へ話しかけた。すると、洞の奥の方で、影が蠢いた。わたしは怯みつつも、その影をよく見つめた。木々の間より漏れる光で、段々と目の慣れたわたしは、その影の正体が分かってきた。それは、目を奪われるほど綺麗な、女の人だった。シュマとは全く違ったタイプの美しさ。願い蝶とも、また違う。だが、美しいのは確か。そして、これ程美しい人も、そういないだろう、とわたしは思った。青年にぴったりな容姿の女妖精喰いだ。女の人の冷たげな眼が、わたしをじっと見据え、段々と虹彩の色を深めていった。
「ラグ、それは――」
そう青年に言って、レダは立ち上がった。わたしは思わず後退りしようとして、当然の如くラグと呼ばれた青年に押し返された。レダは目を見開いたまま、わたしを見つめ、爪の長い手をわたしの頬に押し当てた。途端に、ちくりと痛みが走った。レダの長い爪が、わたしの頬を傷つけたみたいだ。レダは指についたわたしの血を見つめ、そして、わたしの目の前で舐めた。わたしは寒気がした。今更だけど、本当に、取り返しのつかない事になっている。
「何処で捕まえたの?」
レダが言った。
ラグは何でもないような顔で、「すぐそこ」と言った。
だけどレダは、信じられないような物を見る目でわたしを見つめた。
「だって、この辺にこんな生き物生息してないでしょう?」
「だからこそ、捕まえるまで見間違いかと思ったよ。下っ端によると、結構前から目撃談があったらしい」
結構前っていつ何だろう。果物とか取っている場合じゃなかったのかな、と思いながら、わたしは今後の自分の為に祈った。願ったんじゃなくて、祈った。あ、そうか、こういう時の為の願いなんじゃ――。
そんなわたしの思考は、レダに抱き締められたことで見事に停止した。
「嬉しい。嬉しいよ。私達の妖精を持てるなんて」
「でしょう? これからはもう何も心配しなくていい」
どういう事? わたしには分からなかった。今すぐに殺されるわけではなさそうだけど、何やら不穏なのは間違いない。
「さあ、味見してご覧。さあ」
ラグがレダを促した。途端に、レダの目が光る。わたしは恐ろしくて仕方なかった。レダの長い爪の手が、わたしをがっしりと掴んでいる。ああ、この情景。わたしはいつか、見たことがある。わたし達はいつだったか、見たことがある。
この恐ろしい情景。
動けなくなっていく獲物に、捕食者はキスをする。すると、何もかも分らなくなって、獲物は二度と今までのように振舞わなくなるのだ。
わたしは見たことがある。
一人の仲間が、妖精喰いに攫われていくのを。
「お願い……やめて……」
そう言ったわたしの頭は混乱していた。逃げなくてはいけないのに、ろくに抵抗もしていない。じっとレダのキスを待っている。
ああ、そうだったんだ。わたしも友達も分かっていなかった。あの時攫われていったあの子は、諦めたんじゃない。どうしたらいいか、分からないままに連れて行かれてしまったんだ。わたし達は何も分かっていなかった。
随分前に攫われていったあの子。今はどうなっているんだろう。妖精喰いは、捕まえた獲物をどうするんだろう。
わたしは、どうなるんだろう。
その時、ふとラグが余所を向いた。その直後、レダもそちらを見やった。わたしは二人の様子から、同じようにそちらを見た。何も分からなかった。そんな事より、これはチャンスかも知れない。と、思ってレダの拘束を抜けだそうとした直後、ラグの威嚇いっぱいの声が洞中に響いた。
「汚らわしい侵入者め。誰の許しを得てここにいる?」