1.道を失う
〈1〉道を失う
本物の願い蝶は、いま何処でなにをしているのだろう? わたしにこの願いの力を授けていった、綺麗な妖精の少女は、何処からわたしを見ているのだろう?
わたしの行動はお見通しのようだった。わたしが願おうか躊躇っていると、空かさずわたしにコンタクトを取って、願うように促してくる。彼女はどうしても、わたしと約束した何かが欲しいらしい。
でも、わたしは思い出せない。一体、何をわたしは約束したの? 願い蝶がそこまでして欲しがるのは、何だろう。わたしには心当たりがない。わたしが持っているもので、「誰かが欲しがる」と言ったら、今この場に潜んでいる《彼ら》に限って、わたしの肉を珍味として見ていることしか思いつかない。
願い蝶は、《彼ら》の仲間ではなかった。《彼ら》の仲間であれば、最初に会った時にあそこまで近づけなかったはず。体の奥底から震えが現れて、すぐに此処から逃げ出したい衝動に駆られていただろう。じゃあ、彼女は何者? なんで、わたしを知っていて、なんで、わたしを選んだの?
延々と考え続けながら、森を歩いていた。歩けば歩くほど、わたしの体に障る彼らの匂いと視線が強まってきたが、すぐ傍でグロウリーが見守っているので、そこまで不安ではなかった。
わたしはこちらだと信じた道を進んだ。何故だか、そちらへ進まなくてはいけない気がしたのだ。この先に行けば、何かがあるはず。そう信じて進むわたしに、グロウリーはついてくる。わたしについてくる事に絶対の自信があるかのようだった。わたしにはこの道の先に何があるかは分からない。けれどもグロウリーは、その先には石玉の手掛かりがあると信じているらしかった。もしも違ったらどうしよう。そう考えると、今すぐ願って確かめたくなる。
(気を抜くな)
ヴィアの短い忠告に、わたしははっとした。今、確かに感じた。わたしの判断を狂わせる何かが、わたしの中で蠢いていた。胸元をぐるぐると掻きまわし、頭の中をぐるぐると掻きまわし、わたしの頭をぼうっとさせる何か。
願い蝶? それとも、《彼ら》?
その時、わたし達を導く道が分かれた。もっとも、開けた森の中ではっきりとした道なんてないのだけれど。わたしの行くべきと感じる場所が二手に分かれたということ。今までわたしは絶対にこちらに進めばいいという変な確信があったのだけれど、たった今、それが崩壊してしまった。わたしは今までどうやって進んでいたかさえ、分からなくなってしまった。まるで、空を飛ぶ夢から覚めた後に、空の飛び方を思い出そうとしているみたいに、どうやって進めばいいのか分からなくなってしまった。
立ち止って、一向に動かないわたしを、グロウリーが窺ってきた。
「どうした?」
「道が分からないの」
わたしは少し唇を噛んですぐに答えた。
どっちも正しい事はあり得ない。どうしてか、直感で思ったことだ。この二つの道の内、一つは間違ってる。正しくない。わたしとグロウリーを正しい場所に運んでくれない。
ここで、わたしはある可能性に気付いて、ぞっとした。
これは、罠じゃないの?
グロウリーが難しい顔をして、辺りを見渡した。
「うむ、よくない匂いがする。出来れば立ち止まりたくはないが、本当に分からないのかい?」
「全く分からない」
わたしは正直に頷いた。
ふと、辺りの空気がぐっと冷たくなった。誰かに見られている気がする。もちろん、間違いなく見られているのは知っている。ヴィアやシュマに、願い蝶に。でも、彼女ら以外に、彼女らとは全く別の存在が、わたし達を見ている。わたしの背筋を凍らせている。
わたしは首を振った。まだ気配は近寄って来ない。今はどちらに進むべきか考えよう。そう思ったわたしが二つの道を見比べていると、急に片方の道が見えづらくなってしまった。薄灰色の霧のようなものが、片方の道を完全に封鎖している。この霧に、わたしは不気味さを感じた。この霧だけは吸い込みたくない。この霧だけは通り抜けたくない。何かしらの危険を感じた。わたしは残された片方の道を進む事に決めるしかない。でも、これで本当にいいのだろうか。
(いけないわ)
可憐な声がした。願い蝶の声だ。その緊張染みた声は、どうやらグロウリーにも聞こえているらしい。騙そうとしているわけではない。その感情に嘘がないことが、わたしにはよく分かった。
(罠よ)
願い蝶の無償の忠告だった。でも、それはあまり意味を成さなかった。成したとすれば、心構えだろうか。だってわたしは、既にその罠に足を踏み入れていたのだから。
「!」
突然、地面が揺れ、わたしは盛大に転んだ。一瞬だけグロウリーと引き離されて、わたしは咄嗟にグロウリーの元へと寄ろうとしたのだけれど、丁度その時、わたし達とは全く別の気配を感じた。ついさっきまでは影も形もなかった気配だ。ただ、観ているだけだった気配。いつの間に、こんなに近くに、こんな気配が存在していたのだろう。
わたしは逃げるとかよりも、そんな事を考えていた。
その気配は、暫くわたしには、ただの影に見えた。たぶん、その気配が何なのか判断する余裕がなかったんだと思う。グロウリーからさらに引き離されて、わたしに覆い被さるように倒れ込んできたその気配を前に、わたしはただ茫然と影を見つめていた。
(何をしてる! 逃げろ!)
ヴィアの叱咤で、わたしは少し我に返った。でも、すぐに我に返らなきゃよかったのに、とヴィアを恨んだ。わたしに倒れ込んで押さえ付けているその存在。それは、わたしがこの森でずっとずっと恐れていた存在。わたしが……わたし達が、寿命を全う出来ない、圧倒的多数の理由。
やっと目と頭が冴えたわたしには、その影が青年だと分かった。割と顔立ちのいい青年。言わずもがな、問題はそこではない。影が男だろうが女だろうが、大人だろうが子どもだろうが、全く問題ではない。問題なのは、その者が、その者達が、何者なのか。
「間違いない、噂は本当だった」
わたしを押さえつけている青年が、やや驚いた様子で言った。
「何故ここに? いや、そんな事はどうでもいい。とにかくこれで、我が愛しき人も安心するだろう。お嬢さん、君には悪いがね」
わたしの息が詰まりかけた。
今の彼の言葉で、わたしがどうなってしまうのかが読めた。グロウリーは、ヴィアは、シュマは、そして、願い蝶は読めたのだろうか。きっと読めただろう。そして、気付いただろう。もはや、わたしに逃げる場所はない。同時に、もはや、わたしを助ける手立てはない。
グロウリーのおどろおどろしい唸り声が上がった。
「妖精喰い……」
その名前に、わたしの身が竦んだ。