一章5・おんぼろボルボで再び走り出す事にする
結論から言うと、僕はおんぼろボルボから降りる事は無かった。考える時間も、決意も足りなく、それ以上に、銀哉が春風の名前を出した事に驚いた。呆然としている間に、朱花がおんぼろボルボを発進させる。
振り向いた視界に、パトカーがある。パトカーは小刻みに前進、バックの切り返し運動をしながら、なんとかこちらに向き直ろうと必死だった。まさか、こうも唐突に指名手配中のおんぼろボルボと遭遇するとは思ってもいなかったのだろう。慌てている様子が見てとれた。
対し、僕らの乗るおんぼろボルボは、大きく弧を描きながらバックをすると、直ぐに向かうべき方向を正面に置いた。
「三」
と、銀哉が言った。
「二、降りるか?」
「僕は……」
「一」
パトカーがサイレンを鳴らした。後ろを向く。サイレンを鳴らし、こちらを見据えるかの様に構えるパトカーは、草食動物を捕らえようと伏している肉食動物にも見えた。
僕はおんぼろボルボを降りない。
おんぼろボルボが再び走り出した。
法定速度で。
カーチェイスが始まる。少なくとも僕はそう思っていた。どころか、撃ち合いにでも発展するのではないだろうか。と、淡い期待と、恐怖感がないまぜに成った心境で、僕は無力の結晶とも言えるシートベルトの切れ端を汗ばむほど必死に掴んでいた。
が、実際には、おんぼろボルボとパトカーは示し合わせたかのように、時速四十キロというなんとも微妙な速度で、車通りの無いのどかな田園風景の中、付かず離れずの距離を保ちながら走行している。
「止まりなさい」「無駄な抵抗は止めなさい」と、後ろからキンキン声が聞こえてくる。声だけは威勢が良いが、時速四十キロのカーチェイスには迫力が無かった。
「このぽんこつは、もっとスピードを出せないのか?」
銀哉が朱花にそう聞いている。もっともだ、と僕も思った。
「アクセルを強く踏めば、それなりに」
朱花は落ち着いていた。「だけど良いのか?俺は事故るぞ。自信があるんだ」と胸を張る。
「俺が運転しようか?」
と、銀哉。
「お前は、免許を持ってないだろ」
「朱花さんも持ってないじゃないか」
「実を言うと免許どころか、ビザも、パスポートも無い。住民票も。というか、それが無いから免許を取れないんだけど」
「え」「え」
僕と銀哉の声が重なる。
「あ、朱花さんって」
気が付けば、僕も「朱花さん」、と呼んでいた。「もしかして、こっちの人じゃない?」
「こっちとは?」
こちらの言いたい事など当に判っているのだろうが、朱花はそう苦笑した。
「えっと、つまり」
「ここは不思議な国だ。多摩川に現れたラッコに住民票をくれてやろうとしたのに、不法入国した中国人には滅法冷たい」
「中国から来たんですか?」
「驚いたか?」
「まぁ、ちょっとは……」
正直に、そう言った。それから、多摩川に現れたのはラッコじゃなくて、ゴマアザラシです、と教えてあげようかと迷った。
「日本語、お上手ですね」
「ありがとう。ところで、あのラッコは、中々可愛かったな。ゴマちゃんだったか」
ゴマアザラシのタマちゃんだってば。
「凄いなぁ。中国かぁ」
銀哉も知らない事実だったらしく、そう感嘆していた。ただ、何が凄いのかは、多分銀哉本人も判っていないだろう。
「凄いだろう。ところであのラッコは、結局どこに行ったんだ?」
朱花は、しきりに多摩川に現れたゴマアザラシの心配をしていた。「心配だ。どうしてよりによって、多摩川なんかに」と、多摩川付近の住人が聞いたら「なんかとはなんだ」と怒り狂いそうな台詞を吐いた。
「さぁ、それは知らないけど。ところで朱花さん、俺達、パトカーに追われてるって事は覚えてる?」
「何もしてこないのは、なんでなんだろうね。ところで銀哉、さっきの話なんだけど」
「それはもっと落ち着いてからにしよう」
銀哉が即答した。この話題を避けたがっている態度を隠そうともしていない。
後方では、「止まりなさい」「無駄な抵抗は止めなさい」と、警察の呼びかけが続いていた。呼びかけ、というか、懇願に近い。「止まってください」「無駄な抵抗は止めてください」
銀哉が顔をしかめた。
「パトカーを最後まで連れて行くのか?連中、撃ってくる気配は無いから、出来なくも無いとは思うけど、それは流石にどうかと思う」
形だけとはいえ、このおんぼろボルボには僕という人質が居る。銀哉と朱花は銃を持っている。警察としては、慎重に成らざるを得ないだろう。
「どうしようか」
朱花があっけらかんと言う。
「どうしようかって……」
銀哉は、若干逡巡した後、唐突にシートに足を掛け、立ち上がった。手にはしっかりと拳銃が握られていた。
「どうするつもり?」
僕がそう尋ねると、銀哉はただ一言、「撃つ」と呟き、後ろから影の様に付いてくるパトカーに狙いを定めた。
「ほ、本気?」
「タイヤを狙う」
「当てれるの?」
「自信は無いな」
そう言いながらも、真剣な目で、まっすぐとパトカーを射抜いている。
僕は耳を押さえようとしたが、その前に、朱花が、
「止せって」
と、嗜める。
「警察を本気で怒らせたら、怖いぞ。特に、日本の警察は普段優しいから、怒ると怖い」
怒らせた事がある人間の言い草だった。
「じゃあ、どうするんだ?あいつ等だって、ずっとこのまま、大人しいペットみたいに付いてくるつもりじゃないだろ?仲間を呼んで、俺達を包囲するつもりだ」
銀哉がそう言ったと、ほぼ同時だった。「あ、信号」朱花がそう呟くのが聞こえた。直後、おんぼろボルボが急ブレーキを掛けた。「だぁ!」と銀哉が小さい悲鳴を上げながら、慣性に従いボンネットに腰をぶつけていた。僕は一度後部座席に背中を押し付けられ、その後で前の座席に軽く頭をぶつけた。
衝撃は、なおも続いた。ブレーキが間に合わなかったのか、パトカーが後ろから衝突してきたのだ。巨人の手に捕まり、サイコロの様に転がされているかの様な衝撃だった。
一体どういう転がり方をしたのか、助手席のシートの上から、にょきりと銀哉の足が伸びていた。何が起こったのか判らず、呆然とする。少しの沈黙の後、銀哉が、
「ど、どうして止まる!」
そう叫んだ。
「いや、赤信号だったから、遂」
ハンドルに情けなく寄りかかる朱花は、そう弁解した。正面の鏡に映る朱花の顔は、真顔だが、汗を掻いていた。「本当に事故った」予言が成就した、とでも言い出しそうな口振りだった。
そして直後、後ろからバタン!とドアが開く音が聞こえた。見ると、パトカーから頭を抑えた警官が二人、這い出してくる所だった。
「き、来た、出てきた!」
慌てて、そう報告する。
「何が?ツチノコ?」
一応朱花も混乱しているのか、意味不明な事を口走っていた。
「警官、警官が、這い出てきた!」
「それは、不味い」
そう言ったかと思うと、驚くべき事に、おんぼろボルボは悲鳴の様にエンジン音をあげながら、突然全力でバックを始めた。「間違えた」と朱花がいつもの調子で呟くのを、僕は確かに聞いた。それから、「あれ、止まらないぞ」と呟くのも聞いた。
おんぼろボルボの馬力は想像以上だった。果たして、この、全盛を過ぎてしなびた老人の様なボルボのどこにこれ程の馬力があったのか、おんぼろボルボは、力士の様にパトカーを十メートル近く押し返した。二人の警官が、その横で唖然としているのが中々印象的だった。
それから、銃声の様な音が鳴った。最初は、銀哉が闇雲に発砲でもしたのかと疑ったが、実際には、それはパトカーがパンクする音だった。パンクの音を皮切りに、おんぼろボルボが漸く停止した。
そしてまた、少しの沈黙。
どこからか現れたカラスが鳴いていた。
沈黙を破ったのは、銀哉だった。
「何が起こった?」
呆けながら、僕の足元で、そう言う。
「なんだろう……」
口で説明するのは難しかったので、お茶を濁す。
「ワザとじゃないんだ。決して」
朱花がそう言いながら、ぽかんと口を開ける警官を横目に、再びおんぼろボルボを発進させた。
更新が遅れました。申し訳有りません。
このお話はフィクションです。例のゴマアザラシも実在しなかったかもしれません。