一章4・おんぼろボルボは再び走り出すか
独白すると、僕はこの段階で、自分がどう行動をするべきかをあらかた決めていた。つまり、基本的には抵抗せず、流されるまま、人質のままで居よう、と思った訳だ。
もしかすると、僕も人並みに、もしくは高校生らしく、「退屈な日常」とやらに嫌気が差していたのかもしれない。高校の同級生が、「何か面白い事がおきねぇかなぁ」と毎日の様にぼやいているのを思い出す。多分、その「何か」は、この誘拐騒ぎだ。と、僕は感じている。
下手に抵抗して取り返しの付かない事に成るよりは、このまま銀哉達と一緒にディズニーランドに向かった方が、面白くなるんじゃないか?もしかすると、この出来事は、今後の長い長い人生に置いて、自慢の一つに成らないか?
もっと言ってしまえば、僕の様な一介の高校生、下手な素人、つまり理想的人質の真の役割というのは、警察に全てを丸投げにする事に他ならなくないか?
浅はかにも、そう思っていた。
銀哉は、中々戻ってこなかった。コンビニの中の様子も、良く見えない。暇を持て余したのか、朱花が雑音しか発しないラジオを弄くっている。
「何をしてるんですか?」
とどのつまり、僕も暇を持て余していた。
「ニュースがやっていないかと思って」
「えっと、この、誘拐事件の?」
確かに、興味は有った。何せ、自分が巻き込まれている事件だ。警察は今、どの程度このおんぼろボルボの捜索を進めているのか、どの程度、間合いを詰めているのか、事件の早期決着は望めそうか。全て、僕の今後に直結する問題だ。
程無く、ラジオから声が聞こえてきた。ノイズが入り混じり、判別しにくい声だった。耳を澄まし、キャスターの声をノイズの中から拾い上げる。
《……で、銀哉容疑者は……発砲。人質を取り……》
「名前、割れてますね」
他人事の様に、ぼんやりと呟いた。それから、叙々にキャスターの声が鮮明に成っていく。
《銀哉容疑者は、事件を起こす前に、自宅で……父親に向……発砲》
僕は耳を澄ます。
《病院に運ばれましたが、意識不明の重体です》
「なんだ、親父。生きてるのか」
気が付くと、銀哉が戻ってきていた。コンビニの袋を片手に提げ、助手席のドアを開けると、そのまま滑る様に乗り込む。乗り込んで直ぐ、ラジオを消した。
「頭を狙うべきだった」
苦笑しながら、言った。
「これは……どういう事?」
「撃ってから来たんだ」
買い物を済ませてから来たんだ。とでも言い出しそうな、軽い口調だった。
「お、お父さんを?」
「世の中には撃たれるべき人間も居る」
君が撃たれなくても、他の誰かが撃たれるかもしれない。朱花の言葉を、頭の中で反芻する。銀哉はもしかすると、僕が思っていたよりも遥かに危険な人物かもしれない。今更としか言えないが、そんな事を考える。
「いや」
と、銀哉がかぶりを振った。それからこう続ける。「悲しい事に、撃たれるべき人間の方がずっと多い」
「どうして」
「ん?」
「どうして撃ったの?」
もう駄目だ。疑問が際限無く湧き出てくる。氾濫する疑問で溺れてしまう。半ば本気でそう思った。
「あの男は」銀哉は父親の事を、『あの男』と呼んだ。「悪だ。罪を犯した」
悪、という表現がどこか子供じみていて、違和感が有った。
「罪には罰が無くては成らない」
言いながら、銀哉は僕にコーヒーを寄越す。アイスを頼んだのに、ホットだった。しかもブラック。嫌がらせだろうか。隣では、「マイルドセブンじゃなくて、セブンスターを頼まなかったか?」と朱花がぶつぶつ言っている。「しかもホットのブラックと来たか」とも言っている。「苦いコーヒーは嫌いだ」と子供じみた台詞も吐いた。
「さぁ、出発だ」
何事も無かったかの様に音頭を取る銀哉を、僕は慌てて止めた。また、「ちょっと待って」だ。
「今度はなんだ?」
「どうして撃ったんだ?」
自分でも予期しなかった、強めの口調だった。
「その質問にはさっき答えた」
「いや」
僕は言う。
「君は、一度たりとも質問に答えた事なんて無いよ」
銀哉には付いていく。だけど、この暗澹たる黒い霧にも似たもやもやを引き摺ったまま先に進むのは嫌だった。
「確かに、お前にはその傾向が有る。悪い癖だ」
横から、朱花の思わぬ援護射撃が入る。いや、それは、貴方にも言える事ですよ、と突っ込みそうになるのを必死に堪える。
銀哉は、黙っていた。正面を向いているので、一体どんな表情をしているのか、想像も付かない。やがて、か細い声が聞こえた。
「人は」
消え入りそうな、弱々しい声だ。
「人は一人で生きる術を無くした時点で、この世界から退場するべきだったんだ。そう思わないか?」
「何を言ってるのか、判らないよ」
混乱で僕を殺すつもりなのだろうか。
「人間と動物を隔てる、最大の罪が何か判るか?」
銀哉が振り返る。何かを諦めた者の疲れ顔があった。
「僕の質問に答」
「取引だ。人は取引をする。動物はしない」
不意を突かれた様に、僕は黙り込む。
「動物は生きる。生きて、殺して、生んで、死ぬ。それだけを繰り返す。美しい」
銀哉は、公衆電話に繋がれたシーズー犬を見ていた。
「人は命だって金で買う。多分、―――」
思わせぶりな間を作った。
「―――愛も」
「本気でそう思っている訳?」
「全ての愛は、無償で有るべきだった」
もう違う。とでも言いたそうな口調だった。
「世の中には、金を積めば人を殺す人間も居るし、命を売る人間も居る。人を殺して、殺した人間の命を売る人間も居る。自由自在だ。全ては取引によって金に変換される」
「お金が有っても、命は買えないよ」
優等生の様な台詞を、言う。いや、と銀哉が皮肉な笑みを浮かべた。
「買えるんだよ」
「それと、お父さんの話には、なんの関係が有るの?」
「俺の親爺の話は良い」
「良くないって」
銀哉は、分からず屋の生徒を眺める教師の様に顔をしかめた。それから、口元を押さえ、少しの間だけ黙り込む。朱花の欠伸が聞こえた。そして、
「春風ちゃんも、取引の被害者だ」
唐突に、そう言った。
首筋に氷が這った様な寒気を覚える。「え?」歩いていた道に、突然大穴が開いた様な唐突さだった。
「ど、どうして、春風の名前が……」
出てくる?そう言う前に、朱花が小さな声で、
「銀哉、警察だ」
と言った。朱花の言うとおり、右手側の道路を走るパトカーが見えた。一台だけだ。パトカーはこちらに気付かなかったのか、コンビニの前を走り去ろうとして、それから急ブレーキを掛けて、止まった。なんとも間の抜けた登場だった。
「秋色。良く聞け」
間が抜けていたとはいえ、警察が来た事に焦ったのか、銀哉は早口だった。
「君の妹は死んだんじゃない。殺されたんだ」
「待ってくれ、君は、一体何を言っているんだ」
頭痛が襲ってきた。混乱が、頭を叩いている。
「こうしよう」
と、銀哉は言う。
「真実が知りたいなら、このまま車に乗っているんだ。もし、秋色が降りるというのなら、俺はもう止めない」
銀哉は拳銃を手放した。朱花がエンジンを掛ける。今度はスムーズに掛かった。
「真実が知りたいなら」
銀哉が、もう一度言う。
「俺と一緒に、ディズニーランドに行くんだ」
もしかしたら、展開が強引かも知れないと思う今日この頃。お元気ですか?