一章3・おんぼろボルボが一度停車する
おんぼろボルボが、コンビニエンスストアで一度停車する。
「ちょっとコーヒーでも買ってくるよ。ホットとアイス、どっちが良い?」
「アイス。ブラック以外。ついでに煙草も頼む。セブンスター、ソフトで」
「あ、僕もアイスで。ブラック以外。煙草は要らない」
銀哉が、「おーけー」と言い残しながら、二十四時間営業のコンビニエンスストアに入っていった。誘拐犯があんなにも無用心にコンビニに入っても咎められない時代なのだろうか。そもそも、銀哉には、誘拐犯としての自覚が有るのだろうか、と疑問に思う。
おんぼろボルボが僕を乗せて走り出してから、二十分といった所だろうか。たかだか二十分の走行で、辺りはすっかり見知らぬ土地に成っていた。どうやら、僕が思っていた以上に、世界というものは広いらしい。
警察がヒーローの様に僕を助けに来る気配は、今の所無かった。突発的に発生した発砲、誘拐事件は、なんの解決も望めないまま、今に至る。
「随分、落ち着いているんだな」
ふと、赤い髪の男、朱花が、僕に声を掛けてきた。
「そう見えますか?」
誘拐犯に取っ付き易い、難いの差が有るのも奇妙な話だけれど、銀哉よりも、この朱花という男の方が、どことなく取っ付き難い気配が有る。思わず敬語で話してしまう僕が居た。
「誘拐された人間には見えない程度には、落ち着いている」
「多分。状況が掴めてないんです。正直、誘拐されたという実感が湧きません」
正直に話す。それから、
「それに。銀哉は僕を撃たない気がするんです」
「ほう」
赤い髪の男は、愉快そうに口を曲げる。邪悪な魔術師を連想させる、凶悪な笑みだった。
「確かに、銀哉がお前を撃つ事は無いだろうな。正解だよ、秋色君」
赤い髪の男が煙草に火を吐ける。
「それでも、下手に抵抗はしない方が良い。君が撃たれなくても、他の誰かが撃たれるかもしれない。銀哉はやるよ、躊躇わない」
それが愉快で堪らない、という口振りだった。
「アイツは、不安定だ」
朱花の言うとおり、安定している人間が、突如映画館で発砲した挙句、銃口を人の頭に突きつけて、「俺と一緒にディズニーランドに行こう」なんて言い出すとは思えないので、そこは同感だった。悲しい事に、銀哉の一言一言の裏に、小さな狂気を感じ取る事も出来た。
「一体、何が起こっているんですか?」
思い切って、聞いてみる。「貴方達は、何者なんですか?」
「実を言うと、俺は余り関係が無いんだ」
この後に及んで、朱花はそう言った。人を誘拐して、関係が無いとは言わせたくは無かった。が、朱花は更に続ける。
「俺は銀哉に拳銃を売った。このボルボも。それから、例の映画館で君を誘拐した後、直ぐに動ける様に車で待機していた。それだけだ」
「十分、大活躍ですよ。サッカーなら、ハットトリックです」
「バスケットなら、スリーポイントを一本決めただけだ」
朱花は言う。
「悪いが、俺は最期まで付き合うつもりは無い。頃合いを見て、この件からは降りるよ」
「え?」
「元々、これはお前ら二人の問題だ。俺の事は、その他大勢程度に考えてくれても良いんだ。村人Aだとか、雑魚モンスターだとか、そんな程度だよ」
「村人Aは、そんなに饒舌じゃないと思うけど……」
それから、不意に、脳裏に閃くものがあった。
「もしかして、人違いの可能性は無いでしょうか」
言ってから、これは、もしかすると、中々信憑性が高いかも知れないぞ、と感じた。
「君は、秋色君で間違って無いよな」
朱花が、確認する様に聞いてくる。
「ええと、それは、間違い無いです」
最後の方が尻すぼみに成った。
「例えば、同姓同名の誰か、とか」
「秋色というのは、中々珍しい名前だな」
「確率は零じゃ有りません」
「伊上秋色。今年高校を卒業予定。大学に進学する予定は無し。両親がラーメン屋を営んでいて、その仕事を手伝う予定。誕生日は十一月三日。これは、間違っていないか?」
どんぴしゃだった。が、
「同姓同名で、似た様な人生を歩んでいる人が居るのも、有り得ない話ではないと思うんですよ」
王手を宣言されたにも関わらず、歩を進める様な往生際の悪さだった。
朱花は楽しんでいる様に見えた。「確かに」と首肯する。
「有り得ない話ではないな。確率は、零じゃあ、無い」
言ってから、朱花がダッシュボードを開けて、一枚の写真を取り出して、僕に寄越した。そこには、紛れも無く僕自身が写っていた。
「確かに、人違いかもしれない。謝るよ。ところで、この少年を探しているんだが、知らないか?」
「僕にそっくりですね」
お手上げだった。実際に、手を上げる。白旗がこの手に有るのなら、振っても良かった。
「もしかしたら、僕も知らない、生き別れの双子かも」
ヤケクソで言った。言いながら、自分でもこれは無いな、と思っている。
「どうして僕なんですか?」
朱花は質問に答えず、「この地球で、初めて宇宙に飛び出した動物が何か、知っているか?」と逆に質問をしてきた。これは、はぐらかされているぞ、と思いながら僕は、眉を潜める。
「犬だよ」
「え?」
「この揺り篭から抜け出した最初の動物は、犬だ。ライカ犬だよ」
「それは、何かの比喩じゃなくて?」
胡散臭い話には惑わされまい、と心に誓う。丁度その時、コンビニに設置されている公衆電話に、一匹のシーズー犬が繋がれた。
「人間に、打ち上げられたんだ。スプートニク二号。世界初の有犬飛行。判るな?」
「動物実験?」
「そうだ。多分、あのライカ犬も、『どうして僕なんですか?』と思っただろうな。『自分で行けよ』なんて人間を罵った可能性も、有る」
「余り、心地良い話じゃ有りませんね」
「ライカ犬の事を考えろ。宇宙に比べれば、ディズニーランドなんて直ぐ近くだ、そうだろ?」
そうですね。とは言えなかったが、それ以上は何も言えなくなったのも事実だ。
朱花は、シーズー犬を見て、頬を綻ばせた。
「犬は可愛いな」
質問には答えてくれそうに無い。いや、そもそも、最初の質問にすら答えてもらっていない気がする。とりあえず、「犬は可愛いな」と言う朱花の言葉には、同感だった。
朱花。年齢不詳。正体不明。重度のニコチン、カフェイン中毒にして活字中毒。犬好き。遂最近、お気に入りの喫茶店が休業状態に入ってしまい、凹んでいるらしい。