一章2・おんぼろボルボは走り出している
おんぼろボルボはのんびりと、車通りの殆ど無い道にも関わらず、法定速度を下回るスピードで走行していた。スピードは決して出ていないのだが、その乗り心地の悪さと言ったら無い。
エンジンの様子は、不安定、というよりも、狂人さながらだった。激しい揺れを起こしたかと思うと、次の瞬間、嵐が去り、水面が静止するかの様に静かに成る。静かに成ったかと思うと、今度は背骨を砕かんばかりの振動を生む。赤ん坊がぐずつく様子にも似ていた。この車は、法律に定着していないのだろうか、突然爆発したりしないだろうか、とそんな心配が頭をよぎる。
気が付くと、外には見慣れない景色が広がっていた。広がる野原に、田園。申し訳程度に電柱が立っていて、緑の中に、廃屋なのか、それとも人が住んでいるのか、それすら判断の付かない木造の家が見えた。
段階的に、と言う訳でも無く、本当に気が付いた時には、おんぼろボルボはその景色の中を走っていた。眠っていたのか、それとも呆然としていた所為なのか、判らない。
「落ち着いてきたみたいだし、改めて自己紹介をするよ」
「落ち着いてるというか、茫然自失というか。正直、警察は一体何をやっているんだろうと気分なんだけど……」
「俺は銀哉、で、こっちが朱花さん」
と、銀哉は、運転席の赤い髪の男に目をやる。赤い髪の男、朱花は、前を向いたまま、「よろしく」と言った。よろしくも何も、と思いながらも、頭を下げてしまう自分が悲しい。
「この車も、拳銃も、この人が用意してくれたんだ」
おんぼろボルボはまだしも、拳銃を用意出来る人間と言えば、警察か、ヤクザくらいのものに思えた。どちらも、可能な限り関わりたくない人種には違いない。更に言うなら、赤い髪の男は、どちらかと言えば後者に見えた。悲鳴を飲み込みながら、「あのさ」となんとか呟く。
「あのさ、これは、夢か何かなのかな」
「人が蝶に成っていた夢を見ていたのか、それとも蝶が人に成った夢を見ているのか」
「『胡蝶の夢』?」
「これが現実でも、夢でも、どっちでも良いだろ。大事なのは」
「大事なのは?」
「俺達はディズニーランドに向かっているという事だ」
「それは、何度も聞いたよ」
ついでに言うと、何度も聞いたけど、意味が判らない。
「それが最も重要だからだ。俺が中学生だった頃の担任の教師はこう言ったぜ、『大事な事は何度でも繰り返すべきだ。ここ、テストに出るぞ』。お前も近い事は言われたんじゃないか?」
目の前で、拳銃を僕の頭に向けている彼に、中学生時代が有った事すら信じられなかった。
「それに、これは俺が見ている夢かもしれない」
「そんな事は無いと思うんだけど……」
「俺は眠っていたんだ」
銀哉の言っている事は支離滅裂以外の何者でもなかったのだが、言葉の一語一句の発音が綺麗な所為か、聞き逃す事は無かった。
ほんの一瞬だけ、銀哉が眼を伏せた事に、僕は気付かない。
「とにかく、逃げ出そうなんて考えないでくれよ、秋色」
「え?」
僕は正面を向こうとする銀哉を「待って、今」と呼び止める。
「僕の名前……」
「調べたんだ。誘拐する相手を調べないでどうするんだ?当たり前だろ?」
なんだよ、やっぱり誘拐なんじゃないか。
「携帯電話を奪った方がいい」
突然、朱花と呼ばれていた運転席の男が声を発したので、驚いた。正直に言うと、表情も無く、殆ど喋らないものだから、人形か何かだと思っていた。運転してるのに。
「携帯?」
「俺達に見えない様にメールを打つのなんて、簡単だ。状況を逐一報告されると、面倒だろ」
「ああ、成る程」「ああ、成る程」
僕と銀哉の声が重なった。恥ずかしながら、その方法は脳裏を掠めもしなかった。最近の携帯は軽すぎるのか、ズボンの右ポケットで出番を待っていた携帯電話には、存在感が無かった。
「悪いけど、携帯を出してくれるか?」
僕は、渋々従う。「大学には行かせる事が出来ないが、これを伝授しよう」と父親から譲り受けた携帯電話が僕の手を離れて、銀哉の手に渡った。壊されるかな、と危惧したのだけれど、意外にも、銀哉はそれを丁寧にダッシュボードにしまった。
「後で返すよ」
「返してくれるの?」
意外だったので、遂、そう聞いてしまった。
「返さなかったら、泥棒じゃないか」
「人に銃口を向けて無理やり連れ出すのは、誘拐だという事は知ってる?」
「知ってる」
「なら良いんだけどさ……」
いや、良くは無いかもしれない。
リアルな誘拐劇では有りません。肩の力を抜いて頂ければ幸いです。