三章4・たかが命の終わりの話
地球の回転に置いてきぼりをくらうと、こんな気分になるんじゃないだろうか。そんな事を考える。僕は、何一つ判っていない。どこからか時間が止まっている。考える事を放棄している。
「起きろ」
と、そう声が聞こえた。起きろ。起きろ。と。起きろと言われる辺り、やはり僕は夢を見ているのではないか、とそう思った。
寝かせてくれないか? 僕は、実際に声を出した訳ではないが、全身でそう答えている。眠いんだ。
「起きろ」
その声が、僕自身のものと重なった。気が付けば、僕は火葬場に居た。「起きろ」と、僕は春風に声を掛けている。灰になるまでは、諦めきれなかった。
「―――起きろ」
朱花が立っていた。僕を見下ろす様に、黒一色の影にしか見えない彼は、やはり悪魔の様だった。
「う……」
何かを言おうと口を動かすが、顎に鈍痛が走って、思う様に喋る事が出来なかった。それからようやく自分が倒れている事に気付く。倒れている? 何故? ここはどこだ? 何が起こった?
顎を押さえながらなんとか立ち上がり、辺りを見回す。鬱蒼とした杉林の中だった。暗く、そして静かだ。
「大丈夫か?」
「朱花……さん?」
「そうだ。まさしく、俺が皆の朱花さんだ」
「ここは?」
「ペンションからは移動した。オーナーには悪い事をしたな」
僕は地球の回転に置いていかれている。重力に見捨てられ、遠心力に連れて行かれている。まさに、そんな心境だった。痛む顎をさすり、現状を把握しようと考える。
「銀哉、銀哉は?」
「行ったよ」
朱花の答えは、簡潔だった。
「父親を殺しに」
そしてその瞬間、ぶつ切れだった記憶がパズルの様に組み合わさってきた。電話だ。銀哉の父親から電話があったんだ。その後は?
殺しに行く。
銀哉がそう言った。血走った眼で、口元には冷笑を浮かべ、拳銃を携えて。
止める事が出来なかった。正確には、止めようとして、殴られた。それから気を失っていたらしい。なんてザマだ。顎の痛みは、無力の結晶に思えた。いや、それとも、まだ間に合うだろうか? そんな淡い希望を胸に、僕は鬱蒼とした闇の中で、一歩を踏み出す。
「どこに行く?」
朱花の声が後ろから飛んでくる。
「止めなくちゃ」
止めなくちゃ。と頭の中でわんわんと響く声がする。声は、頭を内側から叩くかの様で、頭痛を伴っていた。
「何故だ?」
あれ? と僕は立ち止まる。気が付けば朱花が目前に立っていたからだ。ついさっきまで後ろに立っていたのにも関わらず、だ。
「親子の再会に水を差すなよ。ここで大人しく待ってろ」
「銀哉は、お父さんを撃つつもりなんだろ?」
朱花に挑むかの様な口調で、言う。
「事情は判らないけど、それはダメだ」不意に、混乱が怒りへと変わった。「大体、朱花さんもなんで止めないんですか!」
自分でも予想していなかった程の大声に、戸惑う。朱花はというと、それでも涼しい顔を崩さない。ニヤニヤと笑って、僕を試すかの様に立ち塞がっている。
「撃たれるべき人間も居る。そういう事だ。銀哉に言わせれば、撃たれるべき人間の方がよっぽど多いそうだ。知ってるか?世界中の弾薬をかき集めれば、世界中の総人口以上の弾薬を集める事が出来るんだ」
「何が言いたいんですか」
「悲しい世界だ、という事だよ」
朱花は、悲劇を楽しむかの様な口調だった。
「これは儀式なんだ」
朱花が続けて言う。「怠ると、銀哉は生きている事が出来ない。死ぬ。発狂する。銀哉が平穏に生きる為には、父親殺しは必須事項だ」
「どうして……」
「望まずして産まれた怪物は、父親を殺す運命にある。そうだろ?」
それを聞いて、咄嗟に思い出したのは。『フランケンシュタインの怪物』だった。白黒の映像に映し出された、あの、悲劇の怪物の顔が頭を過ぎる。父親を憎み、生を羨み、恨む。祈りながら、呪っている。
立ちふさがる朱花は、後方の闇という闇を、夜という夜を纏っているかの様に見えた。大げさな話、そして真剣な話、眼前のこの男は、本当に人間なのか? とすら考えた。
「貴方は」
何者なんですか? そう聞こうとしたが、それすら遮られる。「俺の事はどうでもいいんだ」と、つまらなそうに言い切る。
「俺はただの傍観者。村人Aだよ。空気でもいい。なんなら、居ないものと考えてくれて一向に構わない。数にカウントしないでくれ。数合わせですらない。零だ」
「それなら、そこをどいてください」
こんな事をやっている場合ではないのだ。事情が判らなくても、これだけは判る。殺人を止めなくてはならない。銀哉の為にも、銀哉の父親の為にも、そして多分、僕の為にも。
「フランケンシュタインの怪物というのは、死体のツギハギだったよな」
朱花が一歩、また一歩とこちらに近付いてきた。下がりそうな足に、必死で命令を出す。下がるな、と。対峙しなくてはならない時だ。
「そんな話をしてる場合じゃないでしょう!」
「新鮮な死体なんて、煙草の吸殻みたいにポロポロ落ちている訳じゃない。フランケンシュタイン博士は、どうしたんだっけ?」
その答えは、知っている。いや、正確には、予測が付いた。死体が無いのなら、作れば良い。フランケンシュタイン博士はそう考えた。そして、実行した。
「そう」
と、朱花は手を叩いた。まるで、こちらの心の内を読んだかの様だ。「単純だが。それが答えだ」
朱花は言う。
「話は変わるが。この国で、いや、世界中で臓器移植を待ち続けている人間がどれだけ居ると思う?」
心臓が凍てつく。唐突に訪れた答えに、僕はたじろぐ。最悪の想像をした。声が出ない。息が出来ない。
「思わせぶりで悪いが、正確には俺も知らない。とにかく、沢山だよ。絶対数の不足、それに相性の問題。移植手術を受ける事が出来るのは、ほんの、極僅かだ」
それ以上言うな! そう叫んでおくべきだったかもしれない。
「特に、相性の問題というのは大きい。奇跡の巡り合わせだ。運命の恋人よりも難しい」
「春風、春風は……」
「君の妹と銀哉は、正に、奇跡の巡り合わせだった」
人は命だって金で買う。銀哉の言葉が、今更僕に突き刺さる。
「銀哉の父親、浩二さんは。それを見逃す事が出来なかった。大事な大事な一人息子を助ける為に、這いずり回った。大変だっただろうな。病院、それからその筋の人間にも大金を積んで、―――
―――心臓を買った。
もちろん。簡単に出来る事じゃあ、無い。ただ、銀哉の父親には、それだけの力はあった。財力に、コネ、だよ。臓器自体はね、俺みたいな人間が居る世界では、実を言うとそう難しい事でもないんだが、何せ、生きている人間を脳死にして、秘密裏に作業を進めるんだ。それはそれは、我が子を思う、愛の執念というのかな」
風がざわめいた。杉の枝が、こちらを嘲笑うかの様に、揺れる。答えは出た。想像だにしなかった、最悪の答えが。
「そんな事、出来る訳が無い」
必死に絞り出した声は、震えていた。「何を、馬鹿な事を」
「これも勿論」
ニィ、と朱花が笑う。
「君には言わないでくれと言われていた事がだがね」
唐突でしょうか。唐突かもしれません。
この辺りからはラストスパートです。