三章・たかが世界の終わりの話
闇は際限無く深まっていくものだ、とそう感じた。隣でおんぼろボルボに寄りかかりながら煙草を吸っている朱花の表情さえ隠れている。正面には、全ての体重を杉に掛けて、嗚咽を漏らしている銀哉が居る筈なのだが、その姿は闇と同化していて、良く見えなかった。この嗚咽の音は、嘔吐なのか、泣いているのか、どちらかは判らないが、どちらかだ。
「大丈夫か?」
朱花が、銀哉にそう声を掛けた。闇に投げかけているかの様だった。
「大丈夫……」
弱々しい声が返ってきた。「大丈夫じゃなさそうだよなぁ」と朱花が小声で僕に同意を求めてきた。
「何と戦ってるんでしょうね」
知らず、そんな事を口走っていた。
「何?」
と、朱花が紫煙を吐き出しながら首を傾げる。「戦うって何だ?」
「いえ……」
自分でもなんでそんな事を口走ったのか、判らなかった。ただ、その後で不意に閃くものがあった。銃を振り回し、嗚咽を漏らし、犬の弁護を続けながら苦しんでいる銀哉の姿は、何かと戦っている様に見えないだろうか。敵の姿は見えないけども、姿の見えない敵というものも、きっと居る。銀哉は戦っている。味方は居ない。多分、朱花さんも、僕も彼の味方には成りえない。犬もだ。
「いや。戦いか、成る程」
何を納得したのか、朱花はそんな事を呟いていた。
「的を射ているかもしれない」
「ディズニーランドに着けば、銀哉の戦いは終わりますか?」
「いや」
残念ながら、と朱花は首を振る。
「何も終わらない。お前らは、馬鹿な事をしているとつくづく思うよ」
「そんな、他人事みたいに」
「俺にとっては他人事だからな」
クク、と朱花が笑った。暗闇で笑う朱花は、悪魔か、邪悪な魔術師にしか見えなかった。
ひとしきり笑った後、朱花はポケットから携帯電話を取り出した。不法入国者にして、ビザも住民票も無い男が、どうやって携帯電話を手に入れたかは謎だが、そこは僕の知らない様な、法に定着する様な裏技が存在するのだろう。
「日が変わる」
「え?」
「十一時五十七分。後三分で、日が変わる。君の両親は、さぞ君の心配をしているだろうな」
「高校男児なんて、日が変わっても帰ってこないものですよ」
言いながら、両親の顔を頭に思い浮かべた。厳つい顔の父と、やはり厳つい顔の母だ。
その隣に、春風が居た。慌てて振り払おうと、眼を瞑り、頭を振る。眼を瞑った所で、辺りの暗さは殆ど変わらなかった。ディズニーランドに行こうよ。と、頭痛を伴う幻聴まで聞こえた。近くに居るのか?そう思うほど、その幻聴はリアルだった。息を潜ませ、耳を澄ませば、春風の心臓の音さえ聞こえそうな気がした。
「どうした?」
朱花が、そう尋ねてくる。幻聴が聞こえたんです、とも言えず、代わりに、
「銀哉って、もしかして、身体が悪いんですか?」
と聞いた。聞いてから、すぐさま、銀哉が服用していた錠剤の事を思い出した。ただの風邪や頭痛で、三種類もの錠剤を同時に飲むとは考えにくかった。
「まぁ、そうだな。良くはない」
歯切れ悪い答えが返ってきた。
「一時は死ぬ所だった。とは聞いている」
「え?」
「今はもう安定している。心配は要らない。それよりも、頭の方が危ないと思うけどな」
朱花は、言い難い事だろうと、ハッキリと言う。聞き難い事だろうと、同じだ。
「アイツは狂ってる。精神が不安定なんだ」
聞いていて、余り心地良いとは言えない言葉だった。ただ、否定する事も出来ず、黙る他無い。
それから少しの間、木々の間をすり抜ける風の音を聞き逃すまいとしているかの様な静寂が続いた。不意に一際強い風が吹いて、それが合図に成ったかの様に、朱花が口を開く。
「お前も奇妙な奴だ」
朱花の特技は、自分の事を棚に上げる事だ、と思った。
「どうしてあんな狂人の戯言を信じる?馬鹿らしいと思わないのか?アイツは、君の昔ながらの友人と言う訳でも、兄弟と言う訳でもない。たかだが一日行動を共にしただけの、誘拐犯だ」
「ここまで人を引っ張りまわして、今更そんな事を聞きますか?」
言いながら、僕はなんとか答えようと、理由を考える。だが、明確な答えは出てこなかった。
「だって、ただディズニーランドに付き合うだけですから」
と、そう言った。表情は見えないが、その言葉に、朱花が微笑んだ気がした。
「そうだな。たかが、ディズニーランドだ」
「そうです。たかが、ディズニーランドです」
「その答えは、そう悪くない」
言いながら、朱花が煙草を投げ捨てて、足で踏み潰した。煙草をポイ捨てする大人だ、と僕は顔を歪める。
「煙草のフィルターは、自然に帰らないって知ってますか?」
「俺は世界を滅ぼしたいんだ。煙草を捨て続けたら、世界の寿命が少しずつ短くなる。ごみは分別しない。リサイクルにも出さない。クーラーもがんがん掛ける。そして世界を滅ぼす。『塵も積もれば山となる』、という諺が日本にはあるんだろ?」
「そんな消極的な破壊活動、聞いた事無いですよ」
「いつか、俺の捨てた煙草が世界を滅ぼすんだ」
「朱花さんも、結構妙な人ですよね」
言ってやった。心外な、と朱花が小声で呟くのが聞こえた。
「銀哉と逆の事を言っていますね」
銀哉は、世界中の車を無くして、世界中の庭先に居る犬達の鎖を断ち切り、世界を救いたい。そう言った。対して朱花は、煙草を捨て続けて、クーラーをがんがん掛けて、ごみを分別しないで、世界を滅ぼしたい、らしい。勇者と魔王だ。
「犬の鎖を断ち切るのは賛成だがな。交差点にたむろする犬達の姿を想像してみろ。遊園地に、ビルの森に、あらゆる場所に、犬達がたむろしている世界を想像するんだ。そこに人間は居ない。驚く程平和だと思わないか?」
「その犬達は、ご飯ってどうしてるんでしょうね」
朱花は言葉に詰まり、「夢でも食べてるさ」とお茶を濁した。それから再び煙草を口に咥える。本当に、ひっきりなしに煙草を吸っている。中毒という言葉すら甘い気がした。煙草で息を吸っている様なものだ。
「馬鹿話は終わりだ」
「ですね」
「銀哉。行けるか?」
朱花が、闇に問いかける。「ああ」と闇から声が返ってきて、それから銀哉が戻ってきた。闇が、そのまま銀哉の形になったかの様な登場だった。
「近くにペンションがある。押しかけよう」
そう言いだしたのは、朱花だ。
「ペンション?」
僕と銀哉は、ほぼ同時にそう聞いた。
「地図に載ってた。今日はそこに泊まろう。何、一眠りすれば、スッキリする事もある」
銀哉を気遣う様に、肩を叩き、それからボルボのドアを乗り越えて、運転席に座った。
「よ、予約も無しに、いきなり行って大丈夫なのかな」
「観光シーズンでも無いし、大丈夫だろう。むしろ、『観光シーズンでも無いのに、ようこそおいでくださいました』、とでも言い出すかもしれない」
妙な説得力があったので、それ以上は口を挟まなかった。
僕も、今や自分の定位置となったボルボの後部座席に座り、銀哉も助手席に座った。エンジンが掛かる。ヘッドライトが道を照らす。
「犬の話には、混ぜて欲しかった」
すっかり落ち着きを取り戻した銀哉が、そんな事を言いながら苦笑していた。
眼を瞑っているのか、眼を開けているのか、それすらも判らない暗闇の中を、おんぼろのボルボが走る。
正面を照らすヘッドライトを追っているかの様にも見えた。
煙草は二十歳になってから。ただし現実のホモ・サピエンスに限り。