二章3・拳銃で持って扉を開く
「明日には、いくらなんでも着くだろ」
銀哉が箸で魚を突付きながら、そう言う。骨を綺麗に取り出して、身だけを選別して食べている。それはともかく、銀哉が「明日には着く」と公言するという事は、「明日には覚悟が出来るよ」と言っていると判断していいだろう。
何故、ディズニーランドに向かうのか。銀哉は何に怯えているのか。妹の死の真実とは何か?際限無く沸いて出てくる疑問を直接銀哉や朱花にぶつける事自体は諦めたが、思索だけはいつまでも止まらなかった。
もっとも、思索した所で、判る筈も無いのだけれど。
もっとも、答えが出たとして、僕には何も出来ないのだけれど。
「俺の願いはね。世界中から車という車を無くして、世界中の庭先に繋がれている犬達の鎖を断ち切る事だよ」
短い付き合いとはいえ、銀哉の唐突な物言いには慣れたもので、僕は「それは素敵な夢だね」と答える。
食事が終わった後だった。既に食器は片されていて、僕らの席には、水だけが残っている。 「早く帰ってくださいね」と暗に言っているのか、女性店員が、二度も水のお代わりを持ってきた。
女性店員が去った辺りで、野球中継が一度コマーシャルに切り替わった。ドッグフードのコマーシャルだった。子犬達がドッグフードにかぶりついて、「健康に良く、ワンちゃんも夢中」という趣旨の説明が入る。夢中にドッグフードを頬張る子犬達は、可愛らしくもあって、逞しくもあった。その姿を見ながら、銀哉は「俺の願いはね」と言い始めた。
「夢は、諦めなければいつか叶うと思うか?」
そう言う銀哉は、自分自身に呆れているかの様に自嘲気味だった。
「無理な事は判ってはいるんだ。だけど、もし世界中の車を無くす事が出来て、犬達が自由に跋扈する世界が出来たら、変わると思わないか?」
「変わるって、何が?」
「きっと世界は、美しくなる。世界は、まだ救える」
僕は、道路から車が消えて、何万匹という犬達が道路を我が物顔ではしゃぎ回る光景を想像しようとして、失敗した。どうしても、想像出来ない。想像出来ないと言うことは、ありえないと考えた方が早いのかもしれない。
「犬は格好良いよな」
憧れているロックスターを夢想する少年の様に、眼を細める。
「犬といっても、色々居るけど」
シーズーに、ライカ、パピヨンに、柴。犬の種類など、並べてみるとキリが無い。果たして、何を持って格好良いと言っているのか。可愛いという評価なら良く聞くが、格好良いという評価は珍しく、耳に新鮮だった。
「犬は、例外無く格好良いよ」
「取引をしないから?」
僕は先の「取引をする人間」の話を思い出し、そう言った。銀哉は「そうだな」と寂しげな表情を浮かべる。
「取引に、駆け引きに、妥協に計算。殺人に、強姦。人は例外無く醜悪だろ。犬は良いよ、犬は」
人間の罪を、指折り数えるかの様だった。それから、
「俺は犬に成りたいんだ」
「生まれ変わったらそうすると良いよ」
挑発のつもりでも、呆れている訳でも無い。どちらかと言うと、応援するかの様な気分でそう言った。
「実は、俺は一度生まれ変わってるんだ」
「え?」
「一度生まれ変わったけど、人間のままだったよ。情けない」
胡散臭い話がまた始まる様な予感がして、僕は警戒した。が、直後、
「負け試合なんて、見たくないし。チャンネル変えちゃいましょうよ」
先程まで必死の形相で、贔屓のチームを応援していた中年の男達の中の一人が、そう言った。店内に居た中年の男達、全員の意見が一致しているのか、反論は出なかった。親しげな様子で店長らしき男に、リモコンを受け取っている辺り、常連なのかもしれない。
ニュースが、流れていた。
見覚えのある病院が映し出されている。春風が死んだ、あの病院だ。これは、なんの因果なんだ。そんな事を考えながら、息を呑む。
「俺は犬になって、何よりも速く走りたい」
隣で銀哉がそんな事を言っているが、どこか遠くから聞こえてきている様な気もした。
『―――現在逃亡中の、荒月銀哉容疑者の父親、荒月浩二さんが病院で行方不明になりました。警察では……』
それ以上は聞き取れなかった。銀哉がテレビの画面を睨みながら、「あの、死にぞこないめ」と苦々しげに呟いたからだ。
一体何が起こっているのか、さっぱり判らなかった。この、唐突で、理解不能としか言えない誘拐事件に、何人もの人間が絡み取られている。洪水だ。そう思った。何人もの人間を飲み込み、行き場を失った洪水が起こっている。迷走の果てに、洪水が辿り着く先はどこだ?ディズニーランドなのか?
顔写真が公開されていた。当然、銀哉の顔だ。その隣には、目元がどことなく銀哉に似ている中年の男の顔写真が並んでいる。不思議な事に、朱花の顔写真は無かった。
店内に、異変が起きた。誰も彼もが示し合わせたかの様に、ゆっくりと首を回し、こちらを注視してくる。テレビの画面に映し出された銀哉の顔写真と、銀哉本人の顔を何度も見比べて、ええ、と口を曲げる。嘘だろ。と。
銀哉と朱花が、同時に立ち上がった。早くも遅くも無い、例の、優雅とさえ言える様な綺麗な動きだ。朱花は懐から銃を出し、店内のカウンター辺りに銃口を向け、銀哉は僕の頭に銃口を向けた。
拳銃など初めて見るだろうが、店内に居る客達は拳銃を向けられた時の作法は心得ていた。すなわち、何も言っていないにもかかわらず、両手を挙げて、顔を強張らせた。
「銀哉、今のニュース」
僕は銀哉にだけ聞こえる様に、小声で言う。テレビでは、銀哉の父親が病院から姿を消した旨を視聴者に執拗に伝え、それから画面が切り替わり、訳知り顔の専門化がこの事件の背景を憶測で話し始めた。「拳銃の入手ルートが、気に成りますね。暴力団との関わりも深いかもしれません」
「今のニュースは、一体」
銀哉は、何も答えなかった。
「車に乗り込め」
朱花が、店内を睨みつけたまま、言う。銀哉が僕の首に左手を回してきた。僕を引き摺ったまま、一歩、二歩と下がり、出口に向かう。
この事件が洪水だとして、それはいよいよ奔流となっている。そんな気がした。全貌が把握出来ない、巨大な洪水だ。色々なものを飲み込み、少しずつ成長を続け、知らぬ間に背後に忍び寄って来て、そして気付いた時にはもう遅い。
耳鳴りが聞こえた。まさに、洪水の音の様な耳鳴りだった。
何が起こっている?そんな事を考えながら、僕は洪水に飲み込まれている。
残り、どの程度の長さに成るかは判りませんが、折り返し地点は過ぎました。
最期までお付き合い頂けたら幸いです。