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バレンタイン短編

作者: お兄さん
掲載日:2026/02/16

2月14日。

カレンダーに記されたその数字は多感な男子高校生たちにとって、一年で最も残酷で、かつ最も甘美な審判の日だ。

窓の外では、まだ刺すような冬の寒さが居座っている。けれど教室の空気だけは、どこか微かな糖分を含んで浮ついていた。

僕にとって、それは他人事のはずだった。机の横に鞄をかけ、いつも通りの退屈な一日を始めようとした、その時だ。

「ま、友達だしね」

聞き慣れた、少しハスキーで、それでいて鈴を転がすような声。

振り返ると、そこにはクラスメイトの紫苑しおんが立っていた。

彼女はいつも何かを食べている。リスのように頬を動かし、甘い香りを振り撒くのが彼女のスタイルだ。今日も今日とて、左手には無造作に銀紙を剥かれた板チョコが握られている。

けれど、右手が隠し持っていたものは、いつもの彼女とは決定的に違っていた。

「ほれ、チョコレート。義理だけど」

差し出されたのは、彼女の食べかけの板チョコではなく、丁寧に、それこそ指紋一つ残さないほど大切にラッピングされた小さな箱。

「買ったやつだけど……ま、なんでもいいよね」

紫苑は僕と目を合わせない。

言い終えるが早いか、彼女は手元の板チョコをバキリと派手な音を立てて齧り始めた。その食べ方は、自分の心の動揺を無理やり咀嚼して飲み込もうとしているようにしか見えなかった。

「へぇ、珍しい」

僕が思わず漏らすと、彼女の動きがピタリと止まる。

冬の低い陽光が廊下の窓から差し込み、彼女の白い頬を赤く照らし出した。それが照れなのか、光の悪戯なのか、僕には判断がつかない。

「……ふーん、珍しいって何が? いつも仲良くしてるんだから、たまにはね」

視線を逸らしたまま、彼女は板チョコを齧り続ける。いつもより咀嚼のピッチが速い。

「お前がお菓子を分け与えるなんてなかなかないじゃんか」

僕が茶化すように言うと、紫苑は目を丸くして一瞬だけ固まった。

そして、降参したように小さく溜息をつき、肩をすくめる。

「あぁ、そういう意味か。まぁ確かに、普段は分けたりしないかもね。でも今日は特別だし……ほら、受け取りなよ」

箱を押し付けられる。指先が触れた瞬間、微かな震えが伝わってきた気がした。

「おう、ありがたくいただくよ」

「ふん、素直に受け取ればいいんだよ。……まぁ、美味しかったらいいけど」

彼女は満足げに微笑むと、また板チョコの銀紙を剥く作業に戻った。その姿はいつもの「食いしん坊な友人」そのものだったけれど、赤く染まった耳たぶだけが、彼女の嘘を静かに告発していた。

「義理でも貰えるってのは男心に嬉しいもんだ。……野郎たちに自慢してやろ」

「バカ言うなよ」

紫苑は眉をひそめ、困ったような、それでいて少しだけ嬉しそうな顔で僕を睨む。

「義理だって言ってるだろ。そんなので喜ぶなんて単純すぎ」

「単純で結構だ。……つーかこれ、うまそうだな」

僕が箱を開けようとすると、彼女は少し得意げに顎を引いた。

廊下の日差しはさらに角度を変え、僕たちの足元に長い影を落とす。世界に二人だけが切り取られたような、温かな静寂。

「ふーん、美味しそうに見えるんだ。まあ、そこそこ有名な店のやつだからね」

箱を開けると、そこには宝石のように並んだ小さなチョコレートがあった。

一粒一粒が凝ったデザインで、食べるのが勿体ないほどだ。

「ふむ、かわいい形だな」

僕がまじまじと眺めていると、紫苑は不意に慌てた様子を見せた。

「ふぅん、形なんて見てるんだ。女の子みたいだね、お前」

喋るのと食べるのを同時にこなそうとするから、彼女の口元からチョコレートが少しだけ垂れそうになる。彼女はそれを慌てて舌で舐めとった。その無防備な仕草に、僕の心臓が不規則なビートを刻む。

僕は一粒、口に放り込んだ。

「……うま」

「へぇ、美味しいんだ。よかったじゃん」

紫苑の手が止まった。

彼女は照れ隠しに髪を耳にかけ、上目遣いでこちらの反応を窺っている。その瞳が、期待と不安で揺れていた。

「なんで照れてんだ?」

「べ、別に照れてないし!」

反射的に、彼女はパーカーのフードをガバッと頭に被った。

深いフードの影に隠れても、窓からの陽光は彼女の真っ赤な頬を隠しきれていない。

「ただ……お前が美味しそうに食べてるとこ見たら、なんか……当たり前のこと言ってるだけだし」

声が少しだけ震えている。

僕はもう一粒、手を伸ばした。

「うまいな……これ、どこのヤツ?」

「ふーん、気になるんだ。駅前にある小さいチョコレート専門店だよ。結構有名なんだよね、あそこ」

彼女は窓際に寄りかかり、再び板チョコを齧る。

けれど、僕は知っている。その店に、こんな宝石のようなチョコは常備されていないことを。

「……本当に? あそこはたまに行くけど、こんなのは売ってなかったはず」

「ふふっ、実はね、期間限定の商品なんだよ」

紫苑はフードの奥で、少しだけ得意げに笑った。

「昨日たまたま見かけて、お前に似合いそうだと思って買ってきたんだ」

「……へぇ」

たまたま見かけて。

そう言う彼女の言葉が、何十回もの試行錯誤と、勇気の積み重ねであることを、僕は察し始めていた。

「そうなんだよ。あの店、季節ごとに限定品出すんだけど、今回は特に珍しかったからさ……つい目が合っちゃって」

彼女の体が、少しだけ僕の方に傾く。

廊下の喧騒が遠のき、甘い香りと、彼女の体温だけが輪郭を帯びていく。

「お前も1個食べてみろよ、マジでうまいぞ」

僕は無意識に、手元の一粒を彼女の口元に差し出していた。

いわゆる「あーん」というやつだ。

「ちょ、バカ! そんな恥ずかしいことしなくていいよ……自分で食べるから」

紫苑は顔を真っ赤にして後ずさり、フードをさらに目深に被る。

けれど、差し出した僕の手を払いのけることはしなかった。

「ほれ」

催促すると、彼女は恐る恐る、小鳥が木の実をついばむように、僕の指先からチョコを口に含んだ。

「ん……おいしい」

小さな声。目を細めて味わう彼女の表情は、今まで見てきたどの「お菓子を食べている時の顔」よりも柔らかくて、綺麗だった。

「良いセンスだな」

「お前が買ってきたんだろ」

僕が茶化すと、彼女は照れ隠しに僕の肩を軽く小突いた。

「バカ言うなよ。食べて美味いかどうかは別問題だし。……でも、喜んでくれてるなら、まあ、良かったかな」

「バレンタイン、良い日だな」

僕の言葉に、紫苑は思わずといった風に微笑んだ。

手に持っていた板チョコを齧る速度が、目に見えて遅くなる。

「ふぅん……良い日、ねぇ」

彼女は小さく息を吐き出した。

本当は、自分もその言葉を言いたかった。そんな悔しさと、それ以上の嬉しさが混ざり合った、複雑で愛おしい表情。

「あぁ、毎日でもいいな」

「バカ……」

紫苑は照れくさそうに髪を指で弄りながら、窓の外を見つめた。

「確かに、良い日かも。こんな風にチョコ食べて喜んでるお前見てると、なんか……悪くないなって思う」

それは「友達」という境界線の上で、二人の心拍数が初めて共鳴した瞬間だった。

明日になれば、また「腐れ縁のクラスメイト」に戻るのかもしれない。

けれど、この漂う甘い残響だけは、確かに僕たちの特別だった。


放課後、教室を包む光は朝の白さから、すべてを橙色に染め上げる夕刻の熱を帯びていた。

朝のやり取りから数時間。賑やかだった教室も今はまばらで、部活動へ向かう生徒たちの声が遠くから響いてくる。

僕は自分の机で、紫苑から貰った小さな箱を眺めていた。中身はもう、最後の一粒を残すだけになっている。

「……まだ、食べてたんだ」

不意に頭上から降ってきた声に顔を上げると、そこにはカバンを肩にかけ、帰る準備を整えた紫苑が立っていた。窓から差し込む西日が彼女のシルエットを縁取り、表情を少しだけ読みづらくさせている。

「大事に食べてるんだよ。これ、本当にうまかったからな」

「ふーん。他の子からも貰ったんでしょ? そっちの方が豪華だったんじゃないの」

紫苑は隣の席の椅子を反対向きにして座り、背もたれに顎を乗せた。冗談めかした口調だが、その視線は僕の机の隅に置かれた、他の女子から渡されたであろう義理チョコの小袋をじっと見つめている。

「まあ、いくつか貰ったけどさ。……でも、これが一番だったよ」

僕がそう言って箱を指さすと、紫苑は一瞬だけ耳をぴくりと動かし、それから不器用に顔を背けた。

「……バカ。お世辞とかいいから。どうせ、あのお店のブランド名に騙されてるだけでしょ」

「名前なんて関係ねーよ。お前が選んでくれたからだろ」

影が伸びる教室で

空気が、甘い沈黙に支配される。

朝の廊下での喧騒とは違う、静かで、少しだけ心拍数が上がるような沈黙。

紫苑は無言のまま、ポケットからいつもの板チョコを取り出した。けれど、それを開こうとはせず、ただ銀紙の上から指でなぞっている。

「ねえ」

「ん?」

「……『友達』って、便利だよね」

ぽつりと零れた言葉は、西日に溶けて消えてしまいそうなほど小さかった。

「……何がだよ」

「だってさ、友達ならこうやってチョコも渡せるし、一緒に帰れるし……変に意識しなくて済むじゃん。……そうでしょ?」

彼女は顔を伏せたまま、言葉を絞り出すように続けた。その声は少しだけ震えていて、朝見せた余裕たっぷりの態度はどこにもなかった。


最後の一粒を口に含む。

ゆっくりと溶けていく甘み。そして、その後からやってくる微かな苦味。

「……そうだな。でも、友達だからって、こんなに美味いもん貰って『いつも通り』でいられるほど、僕は器用じゃないぞ」

紫苑が弾かれたように顔を上げた。

夕陽に照らされた彼女の瞳には、戸惑いと、それから隠しきれない期待が浮かんでいる。

「……それ、どういう意味?」

「そのままの意味だよ」

立ち上がり、カバンを掴む。そして、まだ椅子に座ったままの紫苑の頭に、ポンと軽く手を置いた。

「帰るぞ。駅前まで送る。……ホワイトデー、期待してろよ。友達の枠、はみ出すくらいのやつ返すから」

……

……?

……!?

「……はぁ!? なによそれ、宣戦布告?」

ようやく再起動した紫苑が、顔を真っ赤にして立ち上がった。彼女は慌てて後を追い、並んで廊下を歩き出す。

「宣戦布告でもなんでもいいよ。……ほら、板チョコ、溶けるぞ」

「あ……」

紫苑は手に持っていた板チョコをぎゅっと握りしめていた。彼女の体温で、銀紙の中のチョコは少しだけ形を変え始めている。

「……もう、バカ。本当にバカ」

口ではそう言いながらも、彼女は逃げることなく、歩幅に合わせて隣をゆっくりと歩く。

廊下に伸びる二人の影は、いつの間にか重なりそうなほど近くに寄り添っていた。

「ま、……今日は、最高の日だったかもね」

校門を出る間際、紫苑が小さく呟いた。

その言葉は冷たい夜気に触れて白く濁ったけれど、彼女の横顔は、春を待ちわびる蕾のように赤く、温かそうだった。

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