生い立ち
ワシントンDC。
ホワイトハウスの徒歩圏内にあるIMF(国際通貨基金)のHQ1 の14階その存在は一部の者にしか知られていない。
そこには、1匹のすももという名のトイプードルとエリーという名の秘書。そして作業服に身を包んだアジア系の清掃員が一人。
「総帥、クリンプ大統領がみえました。お会いしたいそうですが」エリーが笑いながらドア越しに声をかける。
「アポもなしに…ルールを守れない人と会うのはごめんだ。またにしてくれと伝えて」と作業服の男が言う。
エリーが「だよねー」と短く答える。
そう、この男こそがIMF専務理事を手足のように動かし、世界の重鎮の発言や行動を歯牙にもかけない『世界を影から動かす男』と呼ばれる男。
佐藤甚八である。
◇◇◇◇◇◇◇
甚八が生まれる1世代前、戦後の混乱期。
祖母・千代子は、1945年の終戦で夫を亡くし、厳しい時代を女手一つで生き抜いた。
当時の社会で戦争未亡人が受ける「肩身の狭い思い」を撥ね退け、息子・寛治を育て上げたその強靭な精神は、佐藤家の血筋に流れる「粘り強さ」の源流と言える。
父・寛治は、母の苦労を見て育ったからこそ、堅実な生き方を選ぶ。
海鷲高校卒業後、地元の「海鷲信用金庫」に就職。
20歳という若さで、同僚の雅子と結婚。
千代子は結婚式から1月後に亡くなった。
1960年寛治、雅子ともに22歳の時に甚八が生まれた。
その当時、 高度経済成長に沸き、誰もが贅沢を追い求めた時代に、寛治はあえて「清貧」を貫いた。これは単なる貧乏ではなく、「足るを知る」という誇り高い精神性であり、甚八はその環境で、物事の本質を見極める目を養い、物を大切する心、自ら考える力を得たのだ。
寛治は30歳で課長に昇進し、一家の未来は明るいものだった。
しかし、1970年(甚八が10歳の時)、運命は残酷な反転を見せた。
営業先から帰社途中、飛び出してきた子犬を避けるという、寛治の優しさが裏目に出る形での電柱への衝突事故。
32歳という若さでの急逝。
佐藤家にとってまた甚八にとって10歳という多感な時期に、「優秀で優しく、そして清貧を重んじた父」を突然失ったことは、その後の生き方に影響を与える事となる。
父を亡くした後、近所に住むおじさんが師範をしているということで誘われ甚八は柔道を始める。
道場で流した汗と涙は、彼の中に「礼節」と「不屈の精神」を刻み込んだ。
父・寛治が重んじた「清貧」の教えを守り、贅沢を知らずに育った彼にとって、柔道着が唯一の正装だったのかもしれない。
高校卒業を控えた春、母・雅子が
「甚八、ちょっとそこに座りなさい」
風呂上がりに丸坊主の頭をタオルで拭いていた甚八は素直にちゃぶ台の向かいに座る。
ちゃぶ台の上で一冊の通帳を見せて
「このお金はあなたのためにお父さんが、残してくれたものよ。この先、これをどう使おうがあなたの勝手、好きに生きなさい。ただ人様に後ろ指を刺されるようなことのないようにだけは肝に銘じて生きて」
通帳を確認すると『8000万円』
これまでの母との暮らしや父の思い出や想いを甚八の頭の中を駆け巡り、自然と涙がこぼれ出た。
『感謝でしかない』とまだ少年の甚八の心に刻まれた。
そして「後ろ指を出されることがないように」この言葉には、戦後を苦労して生き抜いた祖母・千代子、そして清廉潔白だった父・寛治の誇りを汚してはならないという、佐藤家の家訓とも言える重みがあった。
甚八は将来を考え、考え、考え抜いた。
高校卒業を前に進学も就職も決めていない甚八は、8000万円という、当時の若者なら人生を狂わせかねない大金を目の前にして、興味がなかったわけではない。
しかし甚八が口にしたのは「100万円だけ貸してもらえるかな」
雅子は「そのお金をどうするの」と聞くと
甚八は眼に力を宿し、笑ってただ一言「世界を見てくる」とだけ答えた。
庭には梅の花が色鮮やかに咲き乱れていた。




