4.ひとかけらの勇気
4.ひとかけらの勇気
一行はウィントフックを出発した列車で北部ナミビアの終点駅グルートフンテンまでゆくと、駅近くのガソリンスタンドで乗合バスをつかまえてカサネ国境へと向かった。
この街も、人少ない寂れたところだが、国境へゆくバスが鉄道終着駅と往還するため、駅とガソリンスタンド周辺はやや賑わいを見せていて、乾いた平原の中のちょっとしたオアシスといった様相である。
砂漠地帯の朝はふしぎにひどく冷え込み、皆持っている衣類を重ね着した。
バスの出発待ちのあいだに、三人は雑貨店で腹ごしらえをしながら打ち合わせをした。
「お嬢ちゃん、まずはあんただけゲントホテルに行って宿泊を申し出るんだ。奴が出かけてないか様子を見なきゃならんからな」
「え。みんなで行くんじゃないの? 」
ピーコはいうものの、一人でいたかったためその指示はありがたかった。
「奴が居なかったらどうすんだよ。俺とキュータは市街地のテントホテルで待ってるからよ、様子見たらそこで落ち合うんだ」
テントホテルとはホテルの敷地内でテントを張って宿泊するタイプのホテルで、アフリカで安く旅行する者はしばしばこういうホテルの世話になる。
キャンプ場と違ってトイレやシャワー、レストランなどホテルの施設を利用可能、テントも貸し出して従業員が建ててくれるため、猛暑のアフリカではかえって居心地がよく、運が良ければ夜行性の野生動物にもお目にかかれるため、安価で風情を楽しめる利点がある。
蚊が多いので蚊取り線香や虫よけスプレーは必需品だが…。
「なんでみんなで行かへんの」
キュータが不安げに尋ねると、ヒロアキはぎろりと彼を睨んだ。
「こっちも準備があるんだよ。いうことを聞け」
まさか出入り禁止になっているとは言えず、ヒロアキは不機嫌に瓶ビールをラッパ飲みした。
「奴が居て泊まることができたら、その辺を散歩しながらホテルの外壁周りを一周してくれ。壁のうえの有刺鉄線がたわんだり切れたりしてるところを見つけるんだ。で、そういうところが見つかったら、中に戻って裏口のドアのカギを中から開けておけ」
「待ってよ、それって」ピーコは顔色を変えた。パサパサのベーコンサンドを持った手が震えている。
「口を挟むな。話してる途中だ。それが済んだら、友達と待ち合わせてるから街のホテルに遊びに行くと言って俺たちと落ち合うんだ」
「まさかドロボウするつもり」キュータはおそるおそる聞く。
ヒロアキはふっと笑ってビールを飲んだ。
「奴が家に居るのに泥棒なんかできるわけないだろうが、バカ。話し合うんだよ」
「じゃあ俺もピーコとゲントさんのホテルにいっしょに行くよ」
「だめだ。お前は俺といっしょに街のホテルで待機するんだ。話し合いは夕方からだ」
この辺は17時に停電をはじめる。そのためだいたいどこのホテルも門限は18時だ。
「私ひとりで行くわけ? 」
「ああ。余計なこと言うんじゃねえぞ。俺の名前なんか出したらタダじゃおかねえ。奴のことはよく知ってる、交渉は俺がやるから安心して行ってこい」
彼がビールを飲み干したころ、運転手がカサネ行きバスの発車を告げる呼びかけをはじめた。
グレートフンテンからカサネ市の間、二五〇㎞。これまた何もない平原が続く。国名のナミビアという言葉は「何もない」というコイコイ族のことばに由来するものであるらしい。
砂漠、という言葉が砂以外何もない、という意味であることと似て、ナミビアはナミブ砂漠という砂漠地帯が国土のほとんどを占めるため、日本の3倍近い面積に人口210万人と、世界でも有数の人口密度の低い国である。
平均をとると1平方キロメートルに3人しか人が住まないということになる。
そんな国に好んで暮らす外国人はよほどの人間嫌いであるだろう。
人間が嫌いな人間にとって、それはほとんど天国であるにちがいない。
二五〇㎞のあいだ、カサネ市までのバスは平均時速100キロですっ飛ばす。その間町も村もバラックもなく、放牧の牛飼いやガソリンスタンドにポツリポツリとすれ違うだけだ。
野生動物の方が人間よりも多く、レイヨウに似た、美しいとがった長い一対のつのを持つオリックス。キリン。ヌー(バッファローに似た牛)などが路上にいることもたまにあって、その度オンボロ乗合バスは1キロ近く先から器用にブレーキをかけてその場を乗りこえる。
それくらい、舗装のいい加減な道路上の道中は直線的で何もないのだ。
ヒロアキはガソリンステーションで買いためたビールで怪しげなタブレットを呑んでご機嫌な仮眠を取っているが、キュータとピーコは路上の風物を楽しむ余裕は無かった。
バスがガラガラなのをいいことに、ふたりはヒロアキからそっと離れて後部座席にうつった。
「こんなことになるなんてなー」
キュータが話しかけてきた。
昨夜のことは気づかれてないようだ。
ピーコは怪しまれないように視線を合わせて対応する。
自然とヒソヒソ小声になる。
「どうしよう。あいつ絶対やばいよね」
「しっ、聞かれたら何されるかわからへんで。様子見て逃げよう」
「私も逃げたいわよ。でもお金はないし」
「ゲントさんとかいうひとに相談するんはアリやと思う。ヒロさんよりは」
いつのまにかヒロさん呼びになっている。
ピーコはそれが気に入らなかった。
キュータはまだゲントホテルに泊まったことはないが、ピーコから話は聞いていた。
「でもあのひとすごくお客さんをかまわないの。商売気ないみたい。私もチェックインしてからほとんどお話ししなかったよ。同じ日本人なのに」
「そんな人なん? ひょっとしてやばいひと? 」
「そんなことないと思うけど、なんか…ちょっとキモい感じ」
キュータは眉をひそめた。
「えっ、そうなん? やらしい目で見てくるとか? 」
「あ、そういうのじゃなくて。なんか人間にまったく興味がない、っていうか」
「人間に興味が? 」
「うん。こういう場所ってさすがにあんまり日本人来ないじゃない。だから日本人どうしで会ったら少しは『どこから来たの』とか『どんな旅行してるの』とか。昨日ヒロアキさんと話したような『会話』があるとおもうじゃない」
「うん」
「それが、私が門のインターホン鳴らしたら『門開けるから入って』『何泊する』『ネット回線は昼間しか使えないよ。あと門限は18時、それ過ぎたら門に鎖掛けるから出入りできないよ。他にお客いないし一階の好きな部屋使って』最低限の注意だけですぐ2階に行っちゃった」
「へー、あいそないなあ。なんかヤな感じ」
「そんなイヤな感じじゃないんだけど。邪魔しちゃったかなって思って私はシャワーとネット使ったくらいで一泊で出ちゃった」
「そんな人が僕らに大金を貸してくれるんかな。無理っぽくない? 」
「無理だと思うし、これ以上だれかに迷惑かけたくない。私バス降りたらゲントさんとこ行かないでそのまま国境に行くわ。キュータ、あとで会えたら会おうね」
会えたら…。その意味ありげな言い回しにキュータは気付かなかった。
「うん。俺もなんとか振り切って逃げてみる」
「相談は済んだか」
ふいに二人の頭上から声が降ってきてふたりとも心臓が凍るほど驚いた。
寝ているとばかり思っていたヒロアキが、いつの間にか前の座席越しに頭を突き出していた。
「おもしろい話してたじゃねえかよ。な、キュータ、俺たちはここで降りるぞ」
ヒロアキは手に自分の荷物とピーコの荷物を提げていた。
バスは停車していた。カサネ市の小さな中央市場の前だった。
「この近くにラストエデンリゾートってテントホテルがある。俺とキュータはそこで準備して待ってるから、お嬢ちゃんはこのまま乗って国境方面に行くんだ」
「私のバックパック」ピーコは心を落ち着かせようと努力しながら手を出したが、ヒロアキはにこやかに笑って
「ああ。重いとたいへんだろう。俺が見ておいてやるよ」
「よけいなお世話だわ」
「キュータちゃんよ、今さら逃げたりなんかしないよな」
ヒロアキはキュータの鎖骨のあたりをを鷲掴みにした。その力は見た目よりかなり強く、キュータは一瞬息が詰まった。
「ほら、行こうぜ。もう一服させてやっからよ」
「キュータくん! 」
「ほら、バスが出ちまうぜ」
ピーコが驚いている間に、ヒロアキに小突かれながらキュータはバスを降りてしまった。
何度もピーコをふり返りながら。
――そして、ピーコを乗せたバスが国境へ出発した。
さらに平原、平原が続く。この道はしかし国境河川のチョベ川沿を走るため、ところどころに小さな畑や湿地帯が見える。放牧をする農民の姿もちらほらあった。
心なしか空気もうるおい、鼻呼吸が楽になった気がする。
鼻呼吸をすると目の奥がツンと痛み、涙がこぼれた。
「キュータ、ごめん。私たちどうなるんだろ」
ピーコは低く嗚咽したが、それでも快速に流れる窓の外を注意して見ることは忘れなかった。ゲントホテルは道から少し脇に入ったところに建っているので、見逃すと国境から大きく戻ることになるからだ。
その間バスは高速走行するし停車しないので、ゲントホテルの近くで運転手に自己申告する必要がある。
街をはずれてから、ピーコは涙をポロポロこぼしながら道端を見ていた。
湿地に近いので象が居た。オリックスがいた。イボイノシシの親子がのんびり草を食んでいる。いつもならひとりでもきゃあきゃあ騒ぎながら野生動物たちを写真におさめるところだが、ピーコは心そこにあらずといった面持ちで、窓の外をいっしんに見つめるのだった。
ゆうべのこと。酩酊のあとのさまざまな思考。妄想とも直感ともつかず、ピーコは、自分が妊娠したと考えていた。
クレカを失ってから、どうしようがどんどん増えていく。
クレカどうしよう。
お金どうしよう。
ビザどうしよう。
キュータどうしよう。
ヒロアキどうしよう。
ゲントホテルどうしよう。
妊娠してる。どうしよう。
やがて、国境へのカーブの手前の平原のなかに、見覚えのある高い壁の家が見えてきた。
「あいむひあ、ひあー」ピーコはあわてて運転手にどなった。
2メートルの高さでぐるりを囲うコンクリートの塀の上に有刺鉄線、正面には横開きの鉄のシャッター。ピーコは正面のシャッターの前に立ちインターホンを鳴らした。
「ほわっと? 」
声が帰ってきた。内心ゲントが出かけていればいいのにと思っていたピーコはがっかりしながら言った。
「ゲントさん、私ピーコです。前にお世話になった」
「ああ。ピーコさん。覚えてるよー」スピーカーがオンボロなので声が割れている「どうしたの、泊まり? 」
「はい。ジンバブエに抜けるので、一泊」
「シャッター開いてるから入って。入ったらすぐドア閉めてね。僕もすぐ出る」
ピーコがシャッターを横に引くとギシギシときしみながらシャッターが開いた。敷地は広く、玄関ポーチまでの道の脇にスポーツサイクルと、古いが手入れされた原付バイクがかんかんとした砂漠の日光にてらされている。――前に見た時と同じだ。
玄関のドアのノブをひねるとそれは手ごたえなく開き、ピーコは中に入った。言われたとおりすぐにドアをうしろ手にしめる。すると
「ワオ」
前にはなかった出迎えがあった。
「あら」
ピーコは泣きたい気分も忘れて、思わず腰をかがめた。
猫だ。
二階へ続く階段から、1匹の小さな猫が駆け降りてきたのだ。
小さな猫といっても仔猫ではない。成熟した顔と身体つきをしている。キジトラ猫とよく似た柄だが、もっと明るい褐色で、背中の黒い縞は斑点のようにまだらに広がっている。
しかし小さい。仔猫と成猫の中間よりまだ小さく、丸顔におちょぼ口の美人猫といった風情だった。
「かわいい。お名前は? 」
思わぬ出迎えに、ピーコの声は弾んだ。
「ワオ」
にゃお、というより、それは、がお、に近い声だ。シャーともちがう。
きょろりとした眼がするどく光ったところをみると、威嚇かもしれない。
その猫はピーコと一定の距離をとって注意深く彼女を見上げる。
「ククリ」
二階から声が先に降りてきた。
「彼女はククリって言うんだ。たぶん懐かないと思うよ、そういう種類だから」
急な階段を、手すりを伝いながら、着物姿の男――ゲントが降りてきた。
和服の着流しが似合う、やや背が高い四〇半ばほどの外見だ。髭はきれいに剃っているが、髪はやや長く、黒っぽい和服と相まって、彼は全体的に不機嫌そうに見えた。
「ワオ」
ククリと呼ばれた猫は彼の方を振り返って、あなた、と言うようにやさしく鳴くと、並の猫以上の敏捷さでゲントのほうにかえって、ひらっとその肩に飛び乗った。
「懐かない種類なんですか? よく懐いてるじゃないですか」
ピーコの問いに、ゲントは照れたように笑った。
「僕はククリにとって特別なんだよ。こーんなちっちゃいときから育ててるから」
こーんな、のところは手で鶏の卵くらいの大きさを示した。
「赤ちゃんの時に買ったんですか? 」
「いや、拾ったんだよ。裏の湿地のアリ塚の中で死にかけてたんだ」
「アリ塚で? アリに巣に持って行かれて、食べられてたの⁉︎ 」
ピーコが目を丸くしていうのでゲントは珍しく声を上げて笑った。
「そうじゃないよ。このあたりのアリ塚ってシロアリのコロニーでね、湿地の粘土を大きなドーム状に盛り上げて作るものだ」
シロアリは植物食なので猫なんか食べないんだよ、といって笑う。
「じゃあなんでアリの巣なんかに」
「うん。シロアリは植物食だけど強力なアゴを持つ兵隊アリが巣を守っていてね。好蟻性の動物はその兵隊アリに襲われないので、逆に巣を利用して、兵隊アリに天敵から守らせて子育てに使うんだよ」
片利共生というやつ。とゲントは虚空に漢字を書いて説明した。
「えっ、猫ってその『好蟻性』の生き物なんですか? 知らなかった」
「全部の猫がそういう性質じゃないと思う。そもそもこの子は猫じゃない」
「猫じゃないの!? 」
ピーコが驚いたのでゲントはまた笑った。先日の対面と違って、今日のゲントは饒舌だ。
「ククリは『クロアシネコ』という種類の…まあ、ヤマネコに近い者なんだ」
「ワオ」
ククリはゲントの肩に止まったまま、誇らしげに胸を張った。まるで言葉が解るかのように。
「クロアシネコはこう見えて、サン族に、アリ塚のトラと呼ばれて恐れられる猛獣の一種なんだ。自分よりはるかに大きい生き物に立ち向かうし、キリンを襲って頸動脈を噛み切ったりするとも言われる」
ククリはごろごろ喉を鳴らしながらゲントに頭を擦り付けた。
褒められていると思ったらしい。
「そうだよ、ククリさま。お前はすごい生き物なんだよ」
ククリさま。
ゲントがククリを見る目には畏敬の念がこもっているように見えた。その目はもちろん人間に対する目よりやさしく、ピーコはつい吹き出した。
「そんなに懐いてるのに」
「そう、お母さんを亡くしたみたいでね。アリ塚の中で干からびそうになってワオワオいってるところを連れて帰って、スポイトで猫ミルクあげて育ててたら、僕を親と認識してくれたみたいなんだ」
軽く流してはいるが、ゲントは仔猫を生かしたことに少し誇らしげであることをピーコはさとった。
「へー、懐くもんなんですね」
「たぶんどんな生き物も育てた者に似るんだよ。毎日日本語で会話してるんで、言葉もわかってきたみたいだ」
「でもこの子クロアシネコっていう割には足が黒くないですよね」
ピーコはククリを観察しながらいった。たしかにククリは足も明るい褐色で、黒い斑点が少しあるだけだ。
ゲントは頷く。
「クロアシネコは、足の裏が黒いんだ。ククリ、ちょっと足を見ていいかい? 」
ゲントがククリの左前足の下にそっと指を差し込むと、ククリはすこし不機嫌そうだがそれでも前足をわずかに持ち上げた。
その足の裏は、つま先から人でいう二の腕くらいまで、いわゆるネコのかかとが、真っ黒な長い剛毛に覆われていた。肉球もブニッと柔らかいイエネコのそれと違って、ごつごつとして無骨で大きく硬質の見た目をしている。
言われてみれば確かにトラやライオンなどの猛獣の凶悪そうな特徴だ。爪は指の爪鞘に収まっているが、さぞこの凶暴そうな足に見合った禍々しい凶爪であるだろう。
「足の裏だけなんかやばいですね」
「そうなんだよ。後ろ足もすごくてね」
ゲントが言うと、ククリは、もうおしまい、というように前足をゲントの指ごと押し下げた。体の大きさの割に力強い。
「ありがとう、ククリちゃん、きみはすごいんだねえ」ピーコがククリに話すと、ククリはツンと胸を張っていばってみせた。
「だから、僕はこの子を外に出さないように気をつけてるんだ」
「強いから? 」
「そう、生まれてからミルクと猫餌と特別おやつ…ほら、チューブ入りのなんとかいう…だけしか食べさせないようにしてるんだけど、外でもし野生動物を倒して血や肉の味をおぼえたら、僕の手におえなくなるかもしれない」
少し寂しそうにゲントはククリを見た。
「そうなると、僕のことも忘れてしまうんだ」
「そんなことないでしょう。ともだちなんだから」
ゲントはピーコをその寂しそうな眼差しで見つめる。
「クマだって、一度人間の血の味をおぼえると、執拗に人間ばかり襲うようになるという。おいしかったら、そして狩り易かったら相手を捕食対象としてみるようになるんだろう…でもね、それが野生動物の正しい形の親離れなんだ」
「ちがうよ、ククリはそんなことないよ」
「ワオ」
ふたりに、いやひとりと一匹に咎められてゲントは苦笑して話題を変えた。
「クロアシネコは夜行性で、一晩に体重の半分くらいの餌を食べるんだ。だから肉をやった方が安くあがるんだけど、カリカリしかあげない。四日くらいでひと袋食べるし、それなのに大きさはこの通りなんだ。いつも腹を空かしてる。だから」
外に出さない方がいい。
この子は必ず狩りを始めるから。
「ワオ」
出ないよ、ゲント。と、ククリは言った、のかもしれない。
ピーコはそれで少しわかった。
ゲントはククリのために、ここで生きていくことを望んだのだ。
このふたりは愛し合ってる。
私はお邪魔なんだね。
「あの。じゃあ一泊お願いできますか」
ピーコが言うと、ゲントは我に返ったように、門限は18時、ネット回線はそれ以降は使えない、お客いないから好きな部屋使って、と冷たく思える調子で言って、すぐに二階に戻っていった――だが、その理由が、今のピーコにはなんとなくわかった。
キモい感じなんて言って悪かったかも。でも猫とこんなラブラブなんて、ふつーにキモいもん。
ゲントが二階に戻ったあと、ピーコは階段脇の小部屋の寝台に腰を下ろした。荷物は無いから他にすることがないが、とりあえず横になって一息つく。
『そだ。外壁を見なきゃいけないんだ』
それがどういう意味なのかをピーコはわざと考えないようにした。
部屋を出て裏口のドアを開ける。カギは掛かっていなかった。――ピーコにとっては罪悪感を軽減できる情報だった。
裏口から出て北面の塀に沿ってゆっくりと歩く。外はしばらく行くと川なので湿地らしいが、ホテルの敷地内である塀の内側は植物がある程度植生しているだけで、滑らかに乾いていた。
敷地は広く、一辺が40メートルほどもあるだろうか、つまり塀の外から火炎瓶や爆発物を投げ込まれても母家まで届かないように、暴動で襲われる可能性の高いコロニアル建築によくある建坪であった。
とはいえナミビアは人口が少なく、そのぶん相対的に治安が安定しているため、そうちょくちょくは有刺鉄線の手入れはしなくてすむ。
あるいはふたりだけの世界で暮らしているこの家の住人にとっては、治安など、二の次であるのかもしれなかった。
北面の塀に沿って、塀の上を見ながら西から東に歩く。十歩、二十歩…
塀の上に、ふと茶色い小動物が見えたのでピーコは足を停めた。
リス。
リスはピーコの姿を認めると、慌てたように塀の外に姿を消した。
ピーコは微笑んだ。逃げて正解よ。このお家の中には、あなたを狩って食べると猛獣になる、かわいい恋人さんが居るんだから。
そして彼女はそのリスが抜け出した有刺鉄線の穴が朽ちていて、ひとが通れる程度に広いことを発見した。それは西から七十歩の所だった。
そのまま庭をぶらぶらと歩いて時間つぶしをしてから部屋に戻る。
――私、何してるんだろ。
ちょっとした放心状態に陥ったが、部屋と部屋の間をつなぐ共有スペースの本棚に、旅人用情報ノートとペンがあるのを見て、それを手に取った。
ぼろぼろの大きな版のノートをなんとはなしにパラパラとめくる。
数ヶ月前の書き込みを見て、ピーコはハッとしてその文面に見入った。
『ヒロアキに気をつけろ! 』
本名不明、日本人のヒロアキはチンピラ野郎だ。
変なドラッグを売りつけてくる
ボランティアの日本人女性がからまれてセクハラされた
ゲントさんはこいつを出禁にしたけど、アフリカ南部の日本人宿をうろつきながら、学生相手にタカって生活している。
周辺国の日本人宿では注意!
ポレポレで見た
キャットアンドマウスで見た
ラストエデンで見た
ニンジャアンドサムライで見た
ずんぐりした体格、サングラス、無精ひげ。サイケ柄の色の抜けたアロハ。
相手にするな、見かけたらすぐそれとなく距離を置け!
ナイフ持ってる
ところどころ筆跡が違うのは、複数人が情報を書き足したものだろう。
ピーコは呆然とした。そしてムラムラと腹が立ってきた。
ヒロアキ。
あいつこの宿で出禁になってたのか。
ヒロアキにだけではない、自分の迂闊さにも腹が立った。
こんなやつに荷物を取られて手下に使われて。
ヤられて。
ククリを見てから止まっていた涙がふたたびこぼれてきた。
でもどうしよう。どうしたら。ゲントに知らせないと。でも知らせたらどうなるか。
ピーコは思い悩みながら、ノートの白紙の1ページを破り取った。
ペンをとる。
ゲントさん
私たちはヒロアキに脅されてここに来ました。
ごめんなさい
夕方から夜にかけて裏の塀を乗り越えて、私とたぶんキュータって日本人の子と、ヒロアキでこのお家に入ります。
私はクレジットカードを紛失して機能を停められたため、帰国費用が足りません。
ヒロアキがあなたから金を借りて日本に帰してやると言っています。
私たちは荷物を取られて脅されているのでこの侵入に手を貸さなくてはいけません。
これを見たらなんとか対応してください。
ほんとうにごめんなさい。
ピーコ
泣きながら、いろいろ考えながら書いた手紙を折り畳んで、二階への階段の真ん中に置いた。
そして階上のゲントの部屋に、涙声を悟られないように抑えた声で、
「旅仲間と遊んできます。18時を過ぎたら、帰るのは明日の朝になります」
と声をかけた。
「おーす、了解。楽しんでー」
ゲントの声が帰ってきた。
お願い、気付いて。
この、ひとかけらの勇気に。




