1.ああ、好き、好き、好き
1.ああ、好き、好き、好き
アフリカ。
ナミビア共和国カサネ市カズングラ国境橋から南西に500メートル。
雑貨屋とガソリンスタンドくらいしか商店のない平原は、夕刻ともなると、鼻をつままれるまで分からない宵闇に包まれる。
温暖な地域らしい簡素なバラック住宅が、蟻塚と並んでポツリポツリと点在している――この国は人口密度がひじょうに低い――なか、ひとつのこじんまりとした西洋風の家が気配を殺すように建っている。
この辺りのドイツ式コロニアルハウス(植民地建築の家)に特徴的な、高い壁に囲まれた、二階建ての質素な家だが、そこはホテル・ゲントという名目のロッジを兼ねた住宅であった。
二階に店主が居住しているらしく蛍光灯の白い光が弱々しく灯っているが、今日は宿泊客も居ないのか、一階に七室ある部屋の窓はすべて真っ暗だ。
もっとも、この辺りは夜には時報がわりに電気が止まる。
店主は昼の間に充電していたリチウム電池でデスクランプを灯しているのだ。
じきにリチウム電池は切れ、部屋の明かりが消えると店主は眠りにつくのだろう。
店主――ゲントはこの家の持ち主であったコイサン族の女性と結婚し、二人で住むには広すぎる家の居住スペースをつかって、彼の祖国からの客――日本人を相手にするロッジを始めたのだが、7年近く前に妻が住吸血虫による風土病に倒れてからひとり、商売気も薄く隠居のようにその家に暮らしていた。
カサネ市は人口わずか七千五百人ほどの、村のように小さな市なのだが、アンゴラ、ザンビア、ジンバブエ、そしてボツワナと周辺4ヶ国と国境が交わる交通の要所であるこの町で、国境に最も近い宿であるというだけで、客には困らないはずではあった。
ゲントはいつも着物姿で、半分こわれかけたホンダ(バイクのことを現地人たちはホンダと一律に呼ぶ)に乗って市場や銀行にぶらりと訪れる。
この変わり者の日本人は、おとなしく金払いもいいので、評判そのものは悪くなかった。
しかし彼は妻を亡くしてからの6年、地元住人のコイサン族と深く接するわけでもなく、半ばひきこもって過ごしているのだ。
妻を亡くしてから彼は、猫と暮らしていた。
かなしい別れの後、しばらく茫洋とした生活を送るうち、家の裏の国境の川、チョベ川の周囲に広がる湿地帯の蟻塚のなかから、親を亡くしたのであろう、やせ衰え、猫風邪を罹患して瀕死の状態にある雌の仔猫をひろった。
「お前もひとりなのか」
「ワォ」弱々しくその仔猫は鳴いた。
「いっしょに住むか」
「ワォ」
弱々しい声だった。
彼は手ずからミルクや固形餌を与え、祖国のことばで話しかけながら毎日を過ごしていた。
そのキジ柄の仔猫は、6年経っても大きくなる気配を見せず、手のひらで胴に手が回るほどの大きさのままであった。
「6年経ってもお前は仔猫のままだなあ。ククリ」
やさしい声でゲントは猫に話しかけた。ククリというのは猫の名前だが、これは山国ネパールで使用される戦闘用ナイフの呼称でもある。
「ワオ」
ククリは微笑むように――力強い声だ――鳴いて返し、床から直にあるじの肩に飛び乗った。
ゲントはもともとバックパック旅行者で、世界各地の安宿をめぐりながら、結婚を機に、このナミビア共和国を居に定めたのだった。
衰弱していた仔猫に、強くたくましく育ってほしい思いで付けた名前だった。
だが、その名に反して彼女は小柄なまま、何年も経っていた。
地元民がそれを見たら仰天したであろう、そのちいさなククリという名の猫が、ゲントに愛らしく寄り添う姿を見たとしたら。
――クロアシネコがこのようにヒトに懐いていることを。
クロアシネコは、蟻塚のトラと異名を持つ、まさに蛮刀よろしく凶暴で危険な山猫であるはずだからだ。
その性質はトラそのもので、本来決してヒトに懐くことはない。
勇敢で獰猛、自分より遥かに大きな生き物に立ち向かってゆき、キリンの頸動脈を噛み裂いて殺害する狩を行うと現地では信じられているのだ。
ゲントは妻を亡くした心の隙間を、ククリを慈しむことによって埋め合わせていた。スポイトでミルクを与え、風邪をひけば湯たんぽで温め、自分は質素な穀物粉と芭蕉煮を常食としながらも、ククリには首都ウィントフックにまで遠出して、日本食マーケットで購入した高価なフレーク状の固形餌やチューブ入りの高級な猫用の軟餌を与えて可愛がった。
そのため猫の食費や雑費は人間が一人暮らすそれの数倍にもなる。
――この心理、愛猫家には深く頷かれるものであろう。
野生動物とはいえ、はやく親から離れていたこと、狩りを覚えぬうちに人の手でそだてたこと、そしてゲントが猫用の餌ばかり与えたことが、この場合さいわいしたのだ。
野生動物は狩を覚え生き血に味を占めると、勇敢で、そして凶暴になってゆくものだからだ。
着物姿のゲントの肩にちょこんと座るクロアシネコの姿は、世界ひろしと言えここでしか見られない見ものであったろう。
猫を愛した、彼の祖国の王族の詩を借りて、ゲントは猫に話しかけた。
「お前は四肢もあるし九穴をもち陰陽の気をやどしている。私の言葉を理解しているし一緒に月を見てくれる。お前と私は同じ生き物だと思うんだよ。わかるかい」
「ワオ」
力強い声。
クロアシネコのククリはその細く長い尻尾でゲントの耳と後頭部を軽く叩いた。




