終章 たとえ光を失っても、君の顔を取り戻す
この島には珍しい、ローブを纏った背の高い魔導士が、ウッドデッキにイーゼルを立てて絵を描いていた。
彼は迷わず絵筆を動かしているが、その瞳は固く閉ざされていた。
「アッシュ、精が出るな」
「その声は、キンジ?とそこにいるのは、フィーインさんだね」
アシュデルは、瞳を開かないままに、声のする方へ顔を向けて、口元に笑みを浮かべた。
キンジは、アシュデルの描いていたイーゼルに置かれたキャンパスを覗き込んだ。
「いつ見ても見事だな。見えないとは思えない」
キンジが唸るように、彼の絵を褒めた。アシュデルの描いていた絵は、ここから見える雲海の絵だ。その絵は色彩豊かに描かれているが、今見えてる世界と寸分違わずに見えた。
「ハハハ、繊細な物は作れなくなったけど、絵くらい描けるよ。だから、フィーインさん気にしないで」
アシュデルの目は、両目とも見えていない。それは、海花の神を救ったからだと、守人達は海花の神自身の神託で知った。その神託を受けたのは、海花の巫女となったフィーインだった。
「あの人、言わなくてもいいのにね。ボクはこのとおり、不自由してないよ」
アシュデルは絵筆をケースに収めた。1つ、近づいてくる気配に気がついたのだ。
「来てくれたんだね?イリヨナ」
その名に、フィーインは俯いた。キンジはそれを見て見ぬ振りをした。こればかりはどうしようもない。イリヨナは、アシュデルの妻だ。儀式のあの時、彼を追って躊躇いなく飛んだ娘だ。誰も敵うはずもない。童顔でとても背の低い女性。とても27には見えず、彼女は、アッシュの作る『フェアリア』に似ていた。
いいや、彼のフェアリアだ。
「どうしたの?手伝ってよ、イリヨナ」
彼女は、アシュデルがキンジ達といるので、遠慮しているようだった。こっちへ来いと言われ、イリヨナは申し訳なさそうに近づいてきた。
「こんにちは」
遠慮がちに、イリヨナは頭を下げた。こんな腰の低い女性が、躊躇いなくあんな高いところから飛んだのかと、キンジは未だに信じられない。
「では、アッシュ、個展を楽しみしている」
「うん。ありがとう」
キンジはアシュデルに断ると、一言も言葉を発しなかったフィーインを連れて、その場を離れた。
「よかったのですの?」
「ああ、うん。この目は、彼等のせいでも、海花のせいでもない。ボクが選んだことだ。でも、そうはなかなか思えないよね?イリヨナ?」
イリヨナはフッとため息をついて、絵を片付け始めた。
「当たり前なのですの。あの方達とは、違いますの」
「そのうちこの目も治すから、許してよ」
「許しませんの。その目が治るまで、許しませんの!」
イリヨナは絵の具のケースと、折りたたみの椅子を台車に乗せた。アシュデルは見えていないとは思えない手つきでイーゼルと絵を台車に乗せる。
「ははは、ごめんね。でも、愛してるよ?イリヨナ」
「!?そ、そんな言葉で、騙されませんの!」
逃げ出したいのを堪えて、イリヨナはアシュデルの隣を歩いた。
店の前では、ハラハラしているようなミモザが待っていてくれていた。ミモザはなかなか昼間に来られないイリヨナに気を使って、アシュデルの迎えに同行しなかったのだった。
アシュデルは、イリヨナの顔を戻そうと、リティルのもとへイリヨナを連れていった。
越権行為での顔の消失だ。リティルは、イリヨナに会いに行くことさえできなかった。
アシュデルが連れていくと、彼はホッとした顔をしたが、すぐさま険しい表情となった。
イリヨナの件は、あの島に手を出したインファも気にしていた。関わりのあった、ペオニサ、インジュ、母親でもあるシェラ、その他応接間にいた一家が固唾をのんで見守る中、リティルが言った。
「この顔を戻すには、アシュデルの両目の視力を捧げるか、おまえ達2人が2度と会わない契約をするかどっちかしかねーよ」
「!?なぜですの?」
イリヨナの言葉は、皆の言葉だ。
「イリヨナが力を使ったのは、ボクのためだったから?だったら、答えは決まってるよね」
「アシュデル!」
「大丈夫だよ。目が見えないくらい、どうってことないから」
そう言ってアシュデルは、止めようとする皆の手をすり抜けて、風の城の一室に立てこもり、自らの目を潰してしまった。
その途端に、イリヨナは顔を取り戻していたのだ。
アシュデルは、今でこそ見えているのでは?と思えるほどの動きができるようになったが、最初からこうではなかった。ジュール達イシュラースの三賢者や風の王兄弟、インファの力を借りて魔法を構築、修行して新たな目を手に入れたのだ。
しかし、ずっと魔法を使い続ける事になるため、酷く疲れやすい。
インファやリティルからは、風の城にいてはどうか?と言われているのだが、グロウタースの土地土地で違う空気を感じるのが好きで、弟子達の様子を見回らなければならないしで、今まで通りグロウタースを点々としながら暮らしている。
巨人の捻れ角島は、アシュデルの特にお気に入りの場所で、よく顔を出していた。
しかし、アシュデルの目のことは知れ渡っていて、責任を感じているのは海花も同じだった。下層へ会いに行けば、気遣わしげにあの珊瑚の枝を伸ばして目を癒やそうとしてくれた。ボクが行けば皆の心を抉ってしまう。そうは思ったが、あの島の風が好きで、気軽に行けなくなるのは嫌だったアシュデルは行動を起こした。
絵を描き始めたのである。それも風景画。
見えないとは思われない絵を描けば、見えないとは思われない行動を取れば、少しは皆の心を慰められると思ったのだ。
「ボクは、貪欲だから、君も島も手放したくないんだ」
執務の合間を縫って、アシュデルのもとへ足繁く通うイリヨナの左手の薬指には、蝶がグルリと指を囲み、宝石を散りばめたピンクゴールドの指輪があった。
アシュデルの目は、もう2度と光を見ることはない。それを導いてしまったのはイリヨナだ。罪悪感と後悔で押しつぶされそうになりながらそれでも、彼女はアシュデルと離れない道を選んだ。
アシュデルは、駆け寄ってきたミモザに台車を託すと言った。
「ミモザ、ちょっとイリヨナと歩いてくるよ」
「はい。いってらっしゃい!」
笑顔のミモザに見送られ、アシュデルはイリヨナに手を差し出した。イリヨナはその手を取った。
「大丈夫、見えてるよ?」
瞳を閉じたまま、こちらを見下ろして笑うアシュデルに、イリヨナはため息をつくと頷いて笑った。
アシュデルの左手の薬指にも、黒いなんの飾りもない指輪が嵌まっていた。
翳りの女帝の王配。
ミモザの精霊・アシュデルは、盲目の大魔導と呼ばれている精霊だ。
彼は女王の幼なじみで、顔をなくした女帝を救った英雄でもある。イシュラースには滅多にいない放浪の精霊だ。
彼の目は、もう、光を映すことはない。しかし
「見えているよ?」
そう言って、得も言われぬ色気のある微笑みを浮かべる彼に顔を向けられると、心の中まで見透かされているような、不思議な気持ちになるという。
今でこそ仲睦まじい2人だが、婚姻までの経緯は平坦ではなかったというが、それはまた別のお話。