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二章 翼と風の秘めた恋

 その日も、彼女は来た。

しかし、その日は少し違っていた。

「あの」

アシュデルは声をかけられ、ゆっくりと顔を上げた。一瞬、声をかけられたのがわからなかったのだ。彼女から声をかけられるとは思っていなかったのだ。

「……ああ、すみません。お決まりですか?」

顔を上げると、カウンターの向こうに彼女がいた。黒い瞳が、どこか思い詰めてみえた。あ、この人、伊達眼鏡だ。弟子の1人に伊達眼鏡をかけた者がいる。だからわかったのだ。

「どうか、しましたか?」

あまりに見つめてくるので、アシュデルはどうしたのかと問うていた。

「あの……あそこにあった時計、売れてしまったんですか?」

彼女が指さす先には、先日までフェアリアのいたテーブルがある。

ああ、なるほど、あの時計が目当てだったのか。やっと合点がいった。彼女は、あの時計を気に入ったが、値段が高くて手が出せなかったのだ。それで、あの時計を見るために足繁く通ってくれていたのだ。

ミモザのヤツ……。と思ったが、声をかけなかったボクもボクだなと思った。

「ええ、先日、宝城十華さんが買っていきました」

彼女は「え?」と戸惑った顔をした。ん?十華を知らなかったのか?とアシュデルは思った。この界隈に住んでいて、宝城十華を知らない者はいないと思い込んでいたのだ。

「小説家の宝城十華さんです。知りませんか?この街では有名人なのですが……」

フェアリアは、外から見える出窓に飾ると言っていた。出版社の前を通れば、見られるはずだが、彼を知らないとなると、説明が……と思ってると彼女は言った。

「知っています。この下の階層に出版社がありますよね?」

「ええ。宣伝もかねて飾ってくれると言うので、売りました。気に入っていましたか?」

彼女は、なぜかうっと息を詰まらせた。そして、コクリと頷いた。

「売り物では……ないと、思っていました」

あの値段だから……と彼女は呟いた。

「ええ、売る気はなかったんですが、十華の所になら嫁に出してもいいかな?と思ったんです。代金もキチンと支払ってくれましたしね。彼はあれで、一途ですから」

ああと、彼女は曖昧に頷いた。

「オーダーもできますよ?」

彼女が瞳を瞬いた。

「予算に合わせて、時計を作ることもできます。あなたの為の、フェアリアを、作りますよ?」

笑顔は苦手だ。皆はどうやって笑顔を作っているのか、知りたいくらい苦手だ。

「私の、ための……」

呟いた声に、なぜか彼女を思い出した。なぜ、イリヨナを?そう頭をよぎったが、想いは霧散する。もう、会うことはないのだと思い込む。

イリヨナを脳裏から引き剥がすように、アシュデルは引き出しから、スケッチブックを取り出した。何も描かれていないページを探していると、彼女が言った。

「あの、あの時計の女の子のラフスケッチもありますか?」

「いいえ。あの子は、ボクの中のイメージのみで作ったので、何も描いていないんです」

今でも、瞳を閉じれば彼女を思い出せる。12年間殆ど離れずに一緒にいたのだ。忘れられない。イリヨナのことは、目を閉じればいつだって完璧に形にできる。

今を拒否したアシュデルには、それがすべてだった。それももう、色褪せて消えていく。記憶の中のイリヨナと完全に決別する。その為に、あの時計を手放したのだから。

「あの、他の『フェアリア』のスケッチはありますか?」

この人は絵でも描くのだろうか。それとも、あの妖精少女によほど思い入れでもあったのだろうか。

「ありますよ?少し、待っていてください」

カウンターの後ろの扉を開けると、中にいたミモザが「うわあ!師匠!なんですか?」と何かやましいことでもやっていたように驚いた。「フェアリアのスケッチを……」と言うと、彼はよくそんなに素早く動けるなと感心する動きで、乱雑に積まれた本の間からスケッチブックを引っ張り出してきた。

「君、優秀だね。ありがとう」と言うとミモザは「どういたしまして!」と得意げだった。アシュデルは扉を閉めかけて振り向いた。「あと、椅子を持ってきて。小さいのでいい」と声をかけた。

 椅子を持ったミモザを伴って戻ると、彼女は緊張気味に俯いていた。

なんだろう?アシュデルの作るモノ達には、盗難防止の魔法がかけられている。それは、物体からデザインに至るまですべてだ。このラフスケッチを見せたとしても、思い浮かべることはできても形にすることはできない。そこまで厳重に魔法をかけているのは、アシュデルが花の精霊だからだ。どこで、アシュデルの想いが誰かを惑わすかわからないからだ。恋が上手くいきますようにとまじないをかけた香水が、邪な心を持つ魔導士に悪用されたことがあり、この魔法を構築した。思っていた以上に、花の精霊の恋愛成就の力は強いのだと知った。それが、恋する花の精霊の作だとしたら、その力は未知だ。それを、アシュデルは自覚したくなくても自覚せざるを得なかった。

「どうぞこちらへ」

アシュデルはカウンターの中の隅に椅子を置き、入ってくるように手で示した。彼女は戸惑ったが、頭を下げるとそれに従った。

ここは影になっていて、カウンターから覗き込まなければ、人が座っていることに気がつかれない位置だ。デザイン見本でもないラフスケッチを客でもない者に見せている場面を、なんとなく他の客に見せたくなかったのだ。今は、彼女以外誰もいないが。

「あの、お姉さん、お名前伺ってもよろしいですか?」

「ミモザ」

声をかけられ戸惑う彼女の様子を見て、アシュデルが低くミモザを牽制した。

「あ、いえ……あの、ツアナ……と申します……」

尻すぼみに、彼女は答えた。言い辛そうなのはなぜなのだろうか。

「ツアナさんと仰るのですか。ボクは、アシュデルです」

「え?あの、アッシュさんでは?」

「それは愛称です。言い辛いと十華がそう呼び始めまして、定着したんですよ」

これは本当だ。言い辛いというのは嘘だが。

「そう……なのですか……」

会話は続かなかった。彼女は始終緊張しっぱなしで、見ていて可哀想なほどだった。「ボクは作業しますから、ゆっくりどうぞ」と言うと、ツアナはホッとしたように頷いた。これは、好意というより、怖がられているのでは?とアシュデルは思った。

 その後、何人か客が来たが、ツアナはアシュデルもそこにいるのを忘れてしまうほど、微動だにしなかった。まるで、影に溶けてしまっているみたいだな。イリヨナもかくれんぼは得意だったなと、彼女を思い出して、慌てて思い出を振り払った。さて、そろそろ閉店という時間になって、フウと息を吐いてツアナが顔を上げた。その顔は、満足げでどこか嬉しそうだった。

「満足した?」

思わず口調が砕けてしまった。その表情が、イリヨナとかぶってしまったのだ。彼女がはっとしたのがわかった。アシュデルは、小さく咳払いすると視線をそらした。

「……そろそろ閉店です」

「あ……ありがとうございました!ああの!また来ます!」

バッと立ち上がってズイとスケッチブックをアシュデルに押しつけツアナは店を走り出ていった。

「はは……脱兎って、こういうのを言うんだ」

可愛いな。そう思ってしまって、アシュデルは困ってしまった。


 イリヨナは、緊張気味に父王と対していた。

いつものサンルームで、灰色に翳る白いテーブルクロスのかぶった丸いテーブル越しに、向かい合っているのだが、中心に堆く積み上げられた軽食・お菓子タワーで、彼の姿があまり見えないのは今日ばかりは感謝だった。

「そんなに警戒されると、ちょっと傷つくな」

タワー越しに、父の困った苦笑が聞こえてきて、胸がズキリとした。風の王である父は、忙しい合間を縫って、闇の城から殆ど出てこない娘に会いに来てくれているというのに、この態度はないと正直思う。大好きだ。大好きな父だが、今日はその顔を直視できなかった。

「アシュデルに、会ったんだろ?」

「は、はははい……」

うう……やっぱりこの話題……!とイリヨナはタワーの間から見え隠れする、父から顔をそらした。

「なんかあったのかよ?それとも、怒ってるか?」

え!?とイリヨナは思いもよらない言葉に顔を上げていた。タワーの隙間からジッとこちらを窺っている、金色の燃えるような光の立ち上る瞳と目があってしまった。父の、その生命力漲る瞳から目が離せない。

「いいえ!なぜ、私が父様に怒るのですの?」

「おまえがオレの顔、見ねーから」

「そ、それは……今日のお菓子タワーが気合い入りすぎていて、父様が見えないといいますか……」

「そうか?」

椅子を引く音がして、気配がテーブルを回ってくる。「ひっ!」と息を飲んで、イリヨナは固まった。

「あんまり野暮なこと聞きたくねーんだけどな。ペオニサが来てくれただろ?」

明るい、健全で健康的な微笑みを浮かべ、少し首を傾げた彼の半端に長い金色の髪がサラリと揺れた。正面からはわかりにくいが、後ろ髪を、黒いリボンで無造作に束ねている。

背が低く童顔な15代目風の王・リティルは、精霊的年齢19才の歴代最年少の王だ。

こんな容姿だが、妃である花の姫・シェラとの間に、3人の子がいる。イリヨナは三兄弟の末っ子だ。

「ペオニサ、何か言っていましたの?」

「いや。ただ、インファが笑ってて気持ち悪りーんだよ」

「父様……それは兄様が可哀想ですの」

眉間にしわを寄せていることの多いインファが、風の城の応接間で笑っているのならいいのでは?とイリヨナは大好きな長兄を擁護した。リティルは「はは」と乾いた苦笑を浮かべた。

「あの2人、最近巨人の捻れ角によく行くからな。あの島じゃ、もろ宝城十華と美形の恋人役だろ?城でもその役が抜けきってなくて、微妙に不気味だぜ?インファが」

「あら、それはペオニサ、介護が必要ですの」

「ハハ!足腰立たなくなって、よくオレに助け求めてくるな!面白れーからそのままだけどな!」

「兄様の言葉責め……聞いてみたいですの!」

「来たらいいじゃねーか。遠慮いらないぜ?」

「そ、それは……やはり……」

「レイシとカルシエーナなら気にするな。あいつらは所詮養子だ」

「父様!それは言ってはいけませんの!」

「おまえは何も悪くねーよ。おまえもオレも1属性を統治する王だ。住処は変えられねーよ。でもな、だからって我慢しなくていいんだぜ?あいつらは精霊的年齢が十代だ。ガキかもしれねーけど、長く生きてるぜ?おまえをくだらねー理由で拒否してんのは、あいつらの未熟さだ。おまえが気にすることじゃねーよ」

「でも……それでも、私には兄様であり姉様ですの……私が行かないことで心穏やかならば、私は、そちらを選びますの」

風の王の養子の2人が、イリヨナを受け入れられないのは、それは養父のリティルを慕っているが故だ。イリヨナは、風の王と王妃の仲を切り裂き、心が押しつぶされそうな苦痛を与えた女の欠片から産まれたモノなのだ。いつ、その本性が再び風の王に襲いかかるのか、兄と姉は警戒しているだけだ。

イリヨナも、闇という属性の王であるだけに、どんな暗い激情がこの心に眠っているのか、怖い。離れているのは、この大好きな父と母、風の城の皆を傷つけたくないからだ。

「……おまえは……そればっかりだよ。どっちが姉だか兄だかわからねーよ」

オレだって、精霊的年齢十代なんだぜ?とリティルは項垂れた。

「大丈夫ですの。私、我慢はしてませんの。こうやって、会いに来てもらって、水晶球で話せて、それだけで幸せですの」

それは本当だ。離れていても、寂しくない。こうやって、忘れずにいてくれることを、わかっているのだから。

「あの……父様?」

「ん?」

リティルが顔を上げた。

「父様が、私が成人したころ、会わせたい人がいるって言っていたの、覚えています?」

「……ああ!あったな、そんなこと」

「あれは、誰だったのですの?」

見合だと思った。精霊は必ずしも結婚しなければならないわけではないのに、なぜかそう思ってしまった。かんしゃくを起こしたイリヨナに、リティルは呪いで猫に変えられ大惨事となってしまった。

「アシュデルだよ」

「え?そうだったのですの……」

「ペオニサがな、おまえに会えないって、閉じこもってたアシュデルを引っ張り出したくて、オレに泣きついてきたんだ。結局有耶無耶になっちまって、その後あいつは、はぐれ精霊になっちまったしな」

はぐれ精霊――風の精霊が認知していないグロウタースに出奔している精霊。それは、精霊の理に反することだ。見つけたら、リティル達は連れ戻すか討伐しなければならない。風の王に許可されれば、放浪の精霊となりグロウタースに暮らすことを許される。

「今は、風一家だと聞きましたの」

アシュデルは、風一家になってでもグロウタースにいたかったのだとイリヨナには思えた。ただ許可されるだけではなく、風一家である特権がほしかったのでは?と。ただ、大好きな兄のペオニサがいるから風一家になったのではないと、そう思う。

「ああ、言わなくて、悪かったな」

「いいえ。イシュラースに帰ってこない理由が、あるでしょうから。父様の管理下なら安心ですの」

「おまえ……アシュデルのこと、どう思ってる?」

言いたくない……言ってしまったら、止まらない気がした。でも、彼の変わらない横顔を思うと、今は、消せそうになかった。

「……好きです……父様!私、望んではダメなのでしょうか?」

「イリヨナ、おまえ、アシュデルに言ったか?」

フルフルとイリヨナは首を横に振った。何も言わせてくれずに、何も話せずに彼に拒絶されたから。

ずっとずっと年上の、しかし、モノクルの奥の切れ長な瞳は、あの目つきの悪さは知っているアシュデルのモノだった。彼の浮かべた知らない微笑み。寂しそうで、哀しそうで……なぜ、あんな顔をしたのか、知りたい。

「ぶつかるしか、ねーんじゃねーのか?あいつも頑ななヤツだからな、ちょっとやそっとじゃ見せねーとは思うけどな」

 泣き出したイリヨナの頭を、ヨシヨシと撫でながら、リティルは寂しそうに笑う、色香漂う中年精霊を思った。アシュデルは自分をもっと知るべきだと思う。あいつは、猫背で一見陰気だが、やはり花の精霊だ。瞳が合ったら最後、あの色香は半端ではない。ミモザや他の工房にいる特殊中級の弟子達が、上手い具合に操作している。

「師匠は鈍いですから」とミモザがため息をついてぼやくのを、様子を見に行くと毎回聞かされている。他の弟子達も総じて同じ見解だ。

「父様、アシュデルに会って……?」

「ああ、たまにな。ペオニサとインファほどじゃねーよ 」

「最近は?」

「会ってねーな。耽美な2人に聞いてみるか?」

インファとペオニサ、つい最近行ってたよな?とリティルは思い出していた。巨人の捻れ角は楽しかったのか、2人ともやけに機嫌がよかった。

「変わったことがないか、父様が聞いてみてくれませんか?」

「ん?わかった。聞いてきてやるよ」

どうしてオレ?とは思った。恋愛なら、官能小説家で花の精霊のペオニサのほうが敏感だ。インファは、恋愛には疎いが、隠し事や困りごとを見抜くことには長けている。耽美な2人とイリヨナは仲がよく、リティルよりか頻繁に会っている。

それなのに、オレ?イリヨナの真意がわからないが、愛娘の頼みだ。聞かないワケにはいかないリティルなのだった。


 工房で依頼された時計を修理していると、ミモザが飛び込んで来た。

「し、しし、師匠!」

「深呼吸」

アシュデルはミモザを見ないで短く言った。ああ、この時計、歯車が欠けてる……取り替えかぁ……材料あったかなぁ……いや、これくらいなら削れば……。と思っていると、深呼吸を終えたミモザが言った。

「リティルが来てる!」

「早く言って」

時計を置くと、ノッソリとアシュデルは席を立った。

小柄で童顔な青年の姿をしていても、リティルは風の王だ。中級精霊の属性が違うミモザであっても、恐れ多い存在なのだ。店に行くと、数人の客に紛れて彼はいた。出てきたアシュデルに気がついて、リティルは顔を上げた。柔らかな無造作に束ねられた金の髪が、窓から差し込む光に優しい輝きを放っていた。

「よお、アッシュ」

明るく笑うと、童顔に磨きがかかる。この、40センチはある身長差で、彼は年齢以上に小柄に見えるだろう。

「いらっしゃい、リティル。珍しいね、表からなんて」

「ああ、たまにはいいだろ?この『フェアリア』いいな」

「ほしい?買ってよ」

「ハハ、そういや、ここにあった時計、どうしたんだよ?」

ここにあった時計――ガラスのフェアリアが立つ、宝石箱の時計のことだ。

「ああ、あれ、十華に売った」

「へえ?滅茶苦茶高くなかったか?あれ」

「うん。滅茶苦茶高かったね。お金はちゃんともらったよ。はは、あれ、どうした?ってよく聞かれる。代わりのモノを作らないとね」

 思いの外皆に愛されていて、驚いたと、アシュデルは寂しそうに笑った。

この顔だよな。リティルは方々の工房に出入りするアシュデルを訪ねるとき、妙な気配はないか街を歩いて視察する。この街――天空の止まり木にも当たり障りなく顔見知りを作っていた。

今日、カフェに立ち寄って、時計屋のアッシュのことを聞いてみた。すると、無愛想だが見ているだけでいい格好良さがあると、容姿に一定の定評があった。やはり、花の精霊なのだ。本人ははみ出し者の花の精霊だと思っている節があるが。

「変わったこと……あの時計がなくなったくらいか……?」

リティルはあまりと得意ではないが、アシュデルの雰囲気を観察した。何も変わったところは見受けられない。リティルの目から見て、変わったことといえば、あの時計がなくなったことくらいだった。

「うん?何?何かあったの?」

フワリとしていたアシュデルの気配が、硬くなる。アシュデルは、作った香水が悪用されたことがある。また何か、ボクが絡んだ事件でも?と心配しているのが明白だった。

「いや、なあ、今日時間ねーか?」

「あるよ。今からでもいつでも」

「……おまえ、即答かよ?」

「まあ、リティルだからね。大事にしないと、ここで商売できなくなるし」

「はは。おい、ミモザ!アッシュ借りてくな!」

リティルがミモザに声をかけると「はい!ごゆっくり!」とピッとミモザは姿勢を正した。店に客がいなくてよかったと、思うアシュデルだった。リティルの事で何か言われたら、地主だとでも言っておこう。嘘ではない。この店の名義は、リティルになっているのだから。

 店を出たアシュデルは、雲海を抜けてきた風に、思わず伸びをしていた。

「はは、ここ、気持ちいいよな」

リティルも眩しそうに、日の光に照らされて真っ白に輝く雲海を見ていた。

「うん。だから、ここを選んだ。一階層下を選んだ十華が信じられない」

一階層下は、ほとんど雲の中だ。濃い霧の中にあるようで、いつでも魔法の火が灯っている。それはそれで幻想的な雰囲気で観光名所だが、アシュデルには暗すぎる。

「あれじゃねーか。霧に紛れてキスできるからじゃねーか?」

「え?」とリティルを見下ろしたアシュデルは、ニヤリと笑われ、揶揄われた事を知った。

「今度そう言ってやろう」

「ハハ、十華のヤツビックリするぜ?なあ、行きてーとこあるか?」

ボクを借りたのはリティルだと思うけど?と思ったが、アシュデルは考えた。

「久しぶりに『フェアリア』のラフ描いてたから、下層に行きたい」

「おまえ、絵上手いよな」

「デザイン画が描けると、オーダーメイドしやすいしね。幼少期に趣味にしててよかったね」

「へえ?絵、描いてたのか?」

「うん。イリヨナの絵、結構かい――」

思わず昔の話をしてしまい、アシュデルは口を噤んだ。もう会わない。思い出とも決別するんだと、あの時計を手放したのに昨日のことのように口から零れ出てしまう。

「ん?」

「ごめん」

「はあ?はは、おまえ、オレが咎めると思ったのかよ?未だに好きなら、口説いたっていいぜ?」

「!いや……でも……」

「じれったいって、こういうのを言うんだよな。いいじゃねーか。出会いなおせば」

リティルは、インファとペオニサを受け入れた。だから許容範囲が広いのだろう。しかし、本当にいいのだろうか?精霊とはいえ、こんな中年のおっさんと20代の娘がなんて。

「……花の精霊は、一途なんだ」

「ああ、知ってるぜ?シェラも一途にオレが好きだな。ペオニサもあれでノーマルか?って思えるくらいインファが好きだな」

「重いよ?」

「重い?シェラを重いと思ったことねーな。むしろ、離婚しやがったあいつを追いかけて再婚させたな。インファは、離れようとしたペオニサを泣き落としたよな?風の精霊の方が重くねーか?いや、狂ってるの域か?」

ははと、リティルはほの暗さの微塵もない瞳で笑った。

「言えばいいじゃねーか。ありのまま。それとも、幼少期のあいつが好きなのか?」

「そうだったら、再会した瞬間終われてた。ちょっと期待したんだけど」

「へえ?ロリコンだったほうがよかったのかよ?おまえも拗らせてるなー。花の精霊ってヤツは、病みやすいのか?ペオニサ、あいつも結構病んでたしな」

「そうなの?兄さんは闇とは無縁だと思ってた」

「ノーマルかアブノーマルの間で葛藤して、キレて首切って、インファ泣かせたぜ?あいつもなかなか風一家だな」

「血まみれで笑ってるし、過激だぜ?」とリティルは明るい顔のまま言った。

「あー……そうだった。今は開き直ってる?」

その事件は知っている。自殺したわけではなく、初めからそういう手筈だったのだが……少々不手際というかがあり、ペオニサはあろうことか、納得していないインファの前で頸動脈をバッサリいってしまったのだ。ペオニサが笑っていたと言うが、猟奇的に笑っていたのではない。なんというか、幸せそうな顔で仮死していた。インファの心中は最悪だったが、命を失わない安全な自己犠牲をやってのけたペオニサは、さぞかし満足だっただろう。インファは、冗談ではなかっただろうが。

「ああ。2人して楽しんでるな。いや、4人でか?」

精霊がグロウタースに関わるとき、その場に溶け込むために存在のすべてを偽る。世界が手助けしてくれるために、年を取らない種族である精霊が紛れていても、誰も疑問にすら思わない。しかし、あまりかけ離れたモノは演じないようにしている。嘘がバレれば、正体を見破られてしまうかもしれないからだ。故に、あまり大風呂敷を広げないように、なおかつ自然に見える関係性を演じるのだ。リティル、インファ、インジュの親子三代は、インファ、インジュ、リティルの三兄弟というふうにだ。

ペオニサは、グロウタースで小説家・宝城十華という顔をすでに持っていて、アシュデルも魔導士の小物職人という顔を持っている。インファとペオニサは、不本意だとペオニサは言うが、だいたい間違えられるので、宝城十華と美しい同性の恋人を開き直って演じているのだった。

「……セリアとインジュ?それってどうなの?」

雷帝・インファの妻、宝石の精霊・蛍石のセリアと、息子の煌帝・インジュ。2人が怒らないことが疑問でならないアシュデルだった。

風の城の応接間で、眉間に皺を寄せているインファからは想像がつかないが、インファはグロウタースではノリがいいと定評がある。

アシュデルが思うに、グロウタースでは風の王の副官という重圧から、ある程度解放されるからだろう。ペオニサと笑っているインファは、別人?と思えるほど気が抜けて見えるからだ。

うん?そういうこと?アシュデルは疑問が解けた気がした。雷帝妃・セリアと息子で補佐官のインジュは、インファを『インファ』にしてくれるペオニサを、大事な存在と見ているのだ。

「いいじゃねーか。平和で。セリアはセリアで、ペオニサとデートしてきたんだからわたしともデートしなさい!って今日はグロウタースのどっかに、ケーキ食べに行ったぜ?ペオニサが一家に入る前は、そんなデートしたことなかったからな。セリアも誘いやすくなってよかったんじゃねーか?インジュは……あいつは、ただ幸せな話が好きな奴だからな」

「リティル様は?いいの?ボクなんかといて」

「ん?シェラといなくてってことか?ハハ!たまに攫ってやるぜ?オレはいつも突然なんだよ」

巨人の捻れ角島は、中心に聳える柱のような山に徒歩で降りられる階段と、エレベーターの駅がある。最上層の天空の止まり木と、下層の光貝の海は直通のエレベーターがあり、他の階層に行くより時間はかからない。

 エレベーターは、ちょうど昼時とあって空いていた。一緒に乗り込んだのは観光客のカップルで、ガイドブックと睨めっこしていたのを見かねたアシュデルが、説明してやっていた。

「詳しいな、おまえ」

戻ってきたアシュデルにリティルが笑った。

「そりゃぁね。下層はボクの庭だよ。ついでに営業してきた」

下層には、光貝という貝が生息し、それはかなりの種類がある。大きさ、色、形状、貝殻になっても光る種類ととにかく毎年新種が見つかるほどの貝だ。アシュデルは物がわかっているときは注文するが、新作やオーダーで作るときは自ら足を運んで貝を選んでいた。

下層には、光貝を材料に様々な物を作る職人街があり、そこが観光名所なのだ。乗り合わせたカップルをその中の1つに行きたかったようだが、ガイドブックに載っていなかったらしく、困っていた。そこは、有名な店ではあったが、ガイドブックには載っていない。アシュデルはその場所を教えたのだった。


 エレベーターを降りてすぐ、潮の香りが2人を包んだ。そして、光貝で作られたランプの、色とりどりの光が出迎えた。

まるで、お祭りの夜のような景色が、眼前に広がっていた。光貝で作られた、提灯型のランプを片手に歩く、観光客で賑わう通りを抜けて、2人は海岸を目指した。

「どんなのを獲るんだ?」

光貝は、許可された者なら自分で獲ることも可能だ。アシュデルは素材を売る店にいいのがないと、自ら漁をするのだ。

「今回は光貝じゃないんだ。虹石がほしくて」

「虹石?ああ、貝固めた岩みてーなヤツか。なんだよ?そんな大物作るのかよ?」

「ガラスのフェアリアの代わりってなると、それくらいしないとね」

アシュデルは、いかにも関係者以外立ち入り禁止そうな扉に手をかざし、無機質な金属の扉を開けた。そこで、向こうから扉を開こうとしていた者と、アシュデルはぶつかっていた。

「……すみません、大丈夫で――ツアナさん?」

咄嗟に腕を掴んで倒れるのを阻止したアシュデルは、彼女の揺れる黒髪のおさげを見て、思わず名を呼んでしまっていた。

「え?」

顔を上げた彼女は別人だった。なんだ違った。落胆してしまって、あれ?ボク今ガッカリした?となぜだがわからずに、自分の感情だというのにアシュデルは疑問を感じた。

「すみません、知り合いに、似ていたもので」

アシュデルは慌てて手を放して居住まいを正した。

「いいえ、アッシュさん。今日は買い付けですか?」

「は?あの、どこかでお会いしましたか?」

「はい。父の店で。わたしこそすみません。お話しするのは初めてです」

気を悪くした様子なく、彼女はニッコリと微笑んだ。アシュデルは、父……父の店?と記憶を辿っていた。

「………………ああ、キンジのところの」

キンジは、光貝の問屋を営む漁師だ。ここへ来た頃、光貝のことを教えてくれた恩人でもある。アシュデルが海に出入りできるのも、光貝を細工する技術を得たのもキンジのおかげだ。そう言えば、店を手伝う妙齢の女性がいた。ような気がする。顔はまったく覚えていないが、声に何となく聞き覚えがあった。

「そうです!うわあ、思い出してくれるとは思いませんでした!わたし、フィーインです。あ、引き留めてごめんなさい。また注文くださいね!」

始終明るく、フィーインはアシュデルの隣をすり抜けて街の方へ出ていった。その姿を、アシュデルは半ば呆然と見送っていた。

……何か、喜ぶようなことをしただろうか?あれくらいの年頃の女性のテンションが、よくわからない。

「可愛い()だったな」

黒髪を2本の三つ編みに結い、太陽のようにキラキラした笑顔の年頃の娘だった。今思えば、始終緊張しっぱなしで、笑顔なんて見たことのないツアナとは、真逆の性格のような気がする。

「え?ああ、うん」

アシュデルはやっとノッソリ動き出して、リティルを中へ入れると扉を閉めた。

「なあ、ツアナって、誰だ?」

それは、ボクも知りたい。まだ名前しか知らない、何も買わない店の常連だ。

「あの時計、ガラスのフェアリアのファンだったらしいんだ」

「うん?」

「何も買わずによく来るから、ミモザがボク目当てだって騒いでたんだけど、目当てはフェアリアだったって話。この前それが判明して、名前を聞いた」

「へえ?」

「それだけ。フェアリアなら十華の出版社に飾られてるから、そこで見られるって教えた。もう、来ないよ」

 イリヨナが知りたかったのは、これか?と失恋を決めつけている娘のことを思った。

イリヨナは、アシュデルが懇意にしている異性がいないか、それを探ってほしかったのだ。確かに、その役にペオニサは不適合だ。彼は、イリヨナとアシュデルの仲を取り持とうとしているのだから。積極性も目立った行動もないが、リティルにもそう見える。

そんな彼に、アシュデルに女の影がないか見てほしいなどとは言えないだろう。イリヨナは、アシュデルを諦める口実がほしいのだ。しかし、ペオニサに頼めば、邪魔をしてしまうかもしれない。それは嫌なのだ。

さて「ツアナさん」とは実際のところどうなのか。ミモザを突くか。と、リティルは気が重くなりながら、アシュデルについて行ったのだった。


 ビックリした!ビックリしたあああああ!

フィーインは、ドキドキと高鳴る胸を両手を胸の前でギュッと握って、落ち着かせるようにしながら足早に歩いていた。

開けようとした扉が急に開いて、咄嗟に後ずさるとバランスを崩してしまった。その腕を取ってくれたのが、あのアシュデルだったのだ。驚くなと言う方が無理な話だ。あの、もの凄く綺麗な、中年の男性。こんな、二十代の小娘がその目に止まるとは思ってはいないが、あんな至近距離でそのご尊顔を拝めるとは思わなかった。

思わず声をかけてしまったが、忘れられるとしても、名を名乗れてよかった。

あの人の、貝を選ぶ瞳が好きだ。真剣な眼差しで、見つめるこちらも息を吸うのを忘れてしまうくらい真剣に、貝を見つめるその眼差し。格好良くてたまらない。彼に会いたくて、店への配達はフィーインがしているが、いつもいるのはミモザでちょっとガッカリしている。それにしてもあの人、いつも動作が緩慢だが、あんなに早く動けるんだなぁ。やだ、どうしよう!思い出したら、またドキドキしてきた!とフィーインはニヤけそうになる顔をどうにか引き締めた。

「はあ……アッシュさん……注文くれないかなぁ?」

フィーインは、店の天井から天井へ這わされたロープに吊された、光貝の提灯型ランプを見上げて思わずため息を付いた。


 扉が開く音で、アシュデルは顔を上げた。

怖ず怖ずと店に入ってくるのは、ツアナだった。

「いらっしゃいませ」

そう言うに留めた。下手に声をかけると彼女は、ゆっくり『フェアリア』を堪能できない気がした。

アシュデルは、視線をスケッチブックに戻して、フェアリアの顔を描いていた。ガラスと違って、彫刻なら細かく表情を作れる。どんな表情にしようか考え中なのだ。フェアリアを描いていると、いや、絵を描いていると心が落ち着く。いっそ全部畳んで、絵でも描いてすごそうか――

「あの……それ、フェアリアですか?」

不意に声をかけられ、アシュデルは驚いて顔を上げた。驚きが伝わってしまったのだろう。ツアナは「ご、ごめんなさい!」と再び脱兎のごとく逃げ出す素振りを見せた。

「待って!……あの、少し驚いただけで怒ってはいないですよ?見ますか?」

呼び止めると、ツアナはその場に留まってくれた。伊達眼鏡の奥の瞳が、オドオドしていたが。何がそんなに怖いのか、緊張気味な彼女に努めて穏やかに声をかけて、書きかけのスケッチブックを差し出した。こんなこと、誰にもしたことはない。どうして、彼女には、警戒心がわかないのか、わからない。

ツアナは、怖ず怖ずと近づいてくると、チラッと伊達眼鏡越しのその黒い瞳でアシュデルを見上げて、すぐに伏せた。そして、差し出したスケッチブックを両手で受け取った。

「この子は、少し、大人っぽいんですね……」

フェアリアを思うとき、やはりイリヨナを想ってしまう。綺麗になった彼女を、意識してしまった。

「妖精少女も、いつまでも子供じゃいられませんから。それは、売れてしまったあの時計に代わる時計のフェアリアです」

「どうして……」

ツアナは俯いた。

「どうして、大人に?」

「……フェアリアのモデルは、知り合いの娘さんなんです。この前、いつぶりかな?会いまして、見違えるようなレディになっていました。触発されたんです」

気に入らなかったのか?とツアナを伺っていると、彼女は顔を上げた。

「この子に、恋を、したんですか?」

「え?」

「あ、いえ、ごめんなさい!」

そう言うとツアナは、カウンターにスケッチブックを置くと店を走り出て行ってしまった。

アシュデルは唖然と立ち尽くしていた。

この子に、恋をした?アシュデルはスケッチブックの中のフェアリアを見下ろした。再会したイリヨナよりも幼く描いたつもりだったが、大人に見えたのだろうか。

困ったな……。ツアナは本当にボクに気があるのだろうか?アシュデルも気になっている。イリヨナの影をチラつかせる、目障りな女性。だが、突き放せない。このまま、イリヨナを重ねたまま、彼女に心を動かされるわけにはいかない。ツアナが気になっていることは確かなのだから。

「ミモザ!」

1番いいのは、会わないでいること。「はい!」と奥から出てきたミモザに、アシュデルはしばらく工房を空けることを告げた。


「熱心だねぇ」

グランドピアノの蓋に両腕を乗せ、その上に顎を乗せて、暇そうにペオニサが呟いた。

「あなたも歌えばいいんですよ?」

ここは、風の城のピアノホールだ。白い、円形でドーム型の屋根の、神殿のように神々しくて美しい部屋だ。ここには、古今東西の楽器とそれを奏でることのできる妖精が住んでいる。

「ええ?ヤダよ。オレ下手だもん」

アシュデルにピアノを教えるインファに苦笑され、ペオニサはふてくされた。

「そんなことありませんよ。アシュデル、少し休憩しましょう」

「うん。結構楽しい。インファ兄は初めから上手かったの?」

風の精霊は、歌が総じて上手い。そして、何か楽器の名手であることが多々ある。

仕事で、グロウタースでインジュとプロの歌手をしていた経験のあるインファは、ピアノの名手だ。グロウタースで魔法なしで歌1本で戦う為かなり練習したと言っていた。

「そこそこは。しかし、グロウタースのプロピアニストと比べれば下手でしたよ。今はそこそこ行けると自負していますが」

そこそこ?謙遜と、アシュデルは手を握ったり開いたりしながら席を立った。

「ペオニサ、伴奏しますよ?」

アシュデルと入れ替わったインファは、なぜか拗ねているペオニサに声をかけた。すると途端に彼は元気に顔を上げた。

「わーお、贅沢!してして!オレ、踊る!」

タタッとホールの真ん中に走ってこちらを向いたペオニサに合図して、インファはピアノを弾き始めた。ホールのドームの天井には、丸いステンドグラスが嵌まっている。花の姫と金色のオオタカの戯れる絵の描かれたそれを透過した光が、明るい色とりどりの色を纏って、ペオニサを粧していた。

――さよなら 止まない雨 

――手の平を空に掲げれば 金色の光が 君にさす

――恐れない わたしには 言葉がある

――歌え 君のくれた言葉を 今こそ 響かせて

――青空の向こう 君に この歌が届く――……

インファの弾き語る、風の精霊の力ある特別な歌『風の奏でる歌』にあわせ、両手に長い紐のたなびく扇を取り出して、ペオニサは踊る。

──君が守ると言ってくれるから わたしは隣で生きよう

──たとえ 辛くとも

──たとえ 輝きを失っても

──たとえ 疲れ果てても

──心に 風を 魂に 歌を 不可能じゃない 繋いだ手を 放さずにいこう

──願いの果て 君の微笑みに 会えたのだから

──わたしは この風の中 生きていける――……

楽しそうに踊るペオニサが、いつからかインファの声に声を重ねていた。風の精霊には劣るものの、華やかで楽しげな歌だ。

「はあ……癒やされる……」

最後の旋律をインファが弾ききると、ペオニサがその場に崩れるように座り込んだ。

「フフ、癒やされているのは、オレの方なんですけどね」

インファがそう呟くのを、アシュデルは聞いた。声は小さく、ペオニサには聞こえなかっただろう。

「インファ兄、疲れてるの?」

「はあ、まあ。ペオニサにはバレるので、早めに癒やしてもらっています。アシュデル、あなたはどうしたんですか?しばらく泊まり込みでピアノを練習したいとは、仕事は大丈夫なんですか?」

「うん。ここにも部屋用意してもらってるから、納期には間に合うよ」

「装飾品全般ですよね?手を広げすぎではないんですか?」

「そうかな?殆ど弟子達がやってるから、ボクは新作を描くこと以外、実は仕事ないんだ」

アシュデルは再びピアノと格闘を始めた。

「巨人の捻れ角が、あなたのホームですよね?」

ホーム?別段決めているつもりはないが、今は巨人の捻れ角にいるというだけだ。ああ、でも、ホームと呼べる場所は確かにあるなとアシュデルは思った。きっと彼はそうは思っていないだろうが、特別な弟子のいる場所がある。

「?最近居ついてるけど、他の場所もそれなりだと思うよ?それいうなら、兄さんじゃないの?他の場所では、あんなに大っぴらに歩き回ってないでしょう?」

ああ、とちった。ううう……と、アシュデルは楽譜と睨めっこした。

「オレがあからさまに恋人を演じるのは、2箇所ほどですかね。一緒にいても、邪推されない場所もありますし。十華がいるのに、オレが口説かれる場所もありますね」

「インファ兄は、誰にも心を動かされない?」

「はい?動かされたがために、セリアと夫婦関係にありますよ?」

「えっとごめん。……失礼な話、セリアの他に」

「ああ、なるほど。ありませんね」

「風の精霊は、一途だよね」

「そうですか?花の精霊もしつこいと思いますよ?ですが、終わった恋には、しがみ付かないほうがいいと思います」

「そうだね……。恋心を拗らせると、魔物になるからね」

「拗らせそうなんですか?」

「終わってるよ。でも、わからない。実は、逃げてきたんだ」

アシュデルは顔を上げた。

「イリヨナを思い出させる女性がいて、惹かれてる自覚がある。だけどそれが、イリヨナを重ねているだけなのか、彼女自身に惹かれてるのか自信がないんだ」

「おまえそれ、重ねてたら失礼だから身を退くってこと?」

「うん」

当然のようにアシュデルは頷いた。

「グロウタースの民だしね。悩む余地ないか」

あれ?何を悩んでたんだろう?とアシュデルは不思議そうだった。

「ちなみに、名前は聞きましたか?」

「うん」

「誰ですか?」

「ツアナさんって言うんだ」

「お」まえと言いかけたペオニサは、インファにもの凄くいい笑顔で微笑まれていた。な、何なのだろうか?アシュデルは引いた。

「うわ、はい!なんでもございません!」

ペオニサはピシッと姿勢を正した。もの凄く不自然だ。

「え?知ってる人?」

絶対何か隠している素振りだ。問えば、インファに微笑まれているペオニサはダラダラと冷や汗を垂らした。え?そんなに?と思える反応だ。

「いや?しらないしらない!勘弁して!オレこのままだとインファに喰われちゃうから何も聞かないで!」

ペオニサは慌ててブンブンと首と手を振る。あからさまにおかしい行動だ。

「……ということだそうなので、そのツアナさんが何者なのか、調べた方がいいですよ?アッシュ」

きっと、インファも知っているのだ。のに、あえてアシュデルに知れという。どういうことなのかさっぱりだ。だが、何となく、彼女から逃げることはないのだと察したアシュデルは、ピアノの練習は2日後と約束して、巨人の捻れ角の工房へ帰ってきた。


 ツアナは何者なのだろうか?

「あれ?師匠、早いおかえりで」

扉を開くと、そこは見慣れた工房だ。作業してくれていたミモザが目を丸くしている。むりもない、しばらく帰らないと言っていたのだ、それが、1日で帰っては驚くだろう。

「うん。調べてほしいことが出てきたんだ」

アシュデルは扉を閉めた。その扉は、壁に立てかけてあるだけの飾りの扉だった。

「はい、なんですか?」

「ツアナさんが、何者か、調べてきて」

「え?あの人、人間じゃないんですか?」

人間じゃない?それは考えてなかったな。ミモザの言葉に驚きそうになって、しかし表面上は冷静な自分にちょっと驚く。

「それも含めて。インファ兄の助言」

「了解です!では、早速!あっと、今日キンジさんのとこから荷物届くんで、お願いします」

「ああ、わかった。じゃ、よろしく」

「はい!」といい返事で、ミモザは走り出ていった。

 彼を見送って、ああ、今日は定休日だったなと、アシュデルはやっと気がついた。

でも、店にいないとキンジ便に気がつかない可能性がある。アシュデルは店に移動するとスケッチブックを開いた。

――この子に、恋を、したんですか?

彼女はどんな表情でそう言った?傷ついていた?落胆していた?いや、そのどちらでもなかった。

期待。そう見えた。そう思ったのは、なぜなのだろうか。

その反応を、ボクはどう解釈すればいいんだろう?知りたい。でも、なぜ気になるのか。気にしていいのか、わからない。

グロウタースの民となんて、風一家では尚更御法度だ。精霊とグロウタースの民との間に産まれてしまう混血精霊。その存在は歪みだ。風の王はずっと、狂った混血精霊の始末をその両親に代わってしてきた。

そんな存在を、風一家の一員が産み出すわけにはいかない。

これは、恋なのか?だとしても、秘める一択しかない。

打ち明けたとき、インファもペオニサも咎めなかった。彼女を調べろと助言したのみだ。

人間じゃない?では、なんなのか。精霊とでもいうつもりなのだろうか。イリヨナとのことを忘れたい今、新しい想いを育んでもいいのだろうか?しかし、ツアナもイリヨナと変わらない年に見えた。

 アシュデルは、呼び鈴の音で我に返った。

ああ、キンジ便が来たのかと、腰を上げた。店を横切り、扉を開くと、そこにはこの前ぶつかってしまった女性、フィーインが立っていた。

「注文の品、お届けに上がりました!」

フィーインは、眩しい笑顔でそう言った。そして、受け取りのサインを求めてきた。それにサインを書きながら、アシュデルは眉根を潜めた。

「……1人で運んできたの?」

フィーインは汗を拭いながら、台車から荷物をよいしょと持ち上げて、店の中へ運ぼうとした。それは、一抱えもある段ボールだ。中には、貝殻が詰まっている。

「ええ?はい。これくらい、わたし1人で大丈夫なので」

「……今度から、ミモザに取りに行かせるよ」

貸してと、アシュデルはヒョイッとフィーインの手から荷物を取り上げた。そして、さっさと店の入り口に置く。今日は定休日だ。彼女が帰ってから、工房へ運べばいいからだ。

「あ、あ、いえ、わ、わたしが好きで運んでいるんです!」

「そうなの?男手が足りないのかと思った」

そう言いながら、アシュデルは荷物を運び入れた。ムキになったのか、彼女は最後の段ボールはわたしが!とでも言いたげに持ち上げた。

「君、体格考えた方がいい」

アシュデルはひょろ長い体型だが、一応これでも鍛えている。魔導士といえども、魔法は体力勝負なところもあるのだ。やはり思いの外重かったのだろう。蹌踉めいたフィーインを、背後から肩を掴んで支え、段ボールに手を添える。これだけ背が違えばアシュデルにだって造作もない。

「あのあのあの!」

「ああ、すぐ離すから動かないで」

そう言うとアシュデルはヒョイッと段ボールを持ち上げて、フィーインの頭の上を越えてさっさと背を向けた。

「君が来るなら連絡して、ミモザに取りに行かせるから。……ありがとう」

「あ、アッシュさ――」

扉を閉めかけたアシュデルは、動きを止めて、フィーインを見下ろした。

「なに?」

「い、いえ。またどうぞ」

フィーインは言葉を失って挨拶を返していた。はあ、と気まずげなフィーインに、アシュデルは小さく笑った。

「うん。またよろしく」

その笑顔に、フィーインが息を飲んだのをアシュデルは気がつかずに、扉を閉めてしまった。

素っ気なく扉を閉められたフィーインだったが、頬を両手で押さえて身悶えてしまい、道行く人々の視線に気がついて、小さく咳払いすると、元気に台車を押して帰って行った。


 日々はゆっくりと過ぎていく。

物を作っていると、知らないうちに日々が過ぎていて、時の流れに途方に暮れる。アシュデルは、別の工房から時計屋へ帰ってきた。

「おかえりなさい、師匠!……お疲れですね」

「あ、うん……新作の指輪が王族の目に留まっちゃって、専属にされそうになって焦った」

ノッソリノッソリと巨体を左右に揺らして眠そうなアシュデルに、ミモザは手を貸してベッドに連れていってやる。

「それ、何とかなったんです?」

「リティル様が降臨した……」

ごろりとベッドに身を横たえたアシュデルは、ハアと息を吐いた。

「うわあ……」

「シェラ様つきで」

「大惨事じゃないですか!って、それで何とかなるんです?どんな設定で演じてるんですか?」

「あの大陸じゃ、リティル様とシェラ様、風の王と王妃だって知られてるから……」

「ええ!?あ、師匠!話の途中で!」

詳細!詳細教えてくださいよ!と喚くミモザの声を聞きながら、アシュデルは堪えきれずに意識を手放していた。

ああ、やめてほしい……ボクはただ、誰かのささやかな幸せを願っているだけなんだ。それを、独り占めにしないでほしい――

でも……本当に幸せにしたいのは誰なのか……。向き合えないボクには、願うことはむりなのか?今は、何も考えたくない……

「……イリヨナ……」

ミモザは、疲れ切った主人の目から、モノクルをそっと外した。彼は気がついている?

あなたが疲れ切って眠る時、いつもその言葉を呟いているんですよ?その言葉の意味がなんなのか、イリヨナ――風の花とはなんなのか?ミモザは、そこにだけは踏み込んではいけないような気がして、ずっと問えなかった。知っているかもしれない弟子仲間はいるが、彼は知っていてもきっと教えてはくれないだろう。ミモザはアシュデルに毛布を掛けて、そっと部屋を出た。


 君に、好きだと言えたなら、何かが変わるのかな?フッと、目を覚ましたアシュデルは、夜の闇の中でボンヤリしていた。しばらくボンヤリしてから、ノッソリとベッドから抜け出し、工房を出ると店の中を横切り、真っ直ぐ外を目指していた。

扉を開くと、ヒュウウと風を切る音が、静寂を切り裂いて静かに響いていた。

白い雲海を青白く浮かび上がらせる月が、星を従えて輝いている。

君は見てる?この月を……。

すべてが薄墨をかぶる闇の領域にも月が出る。太陽も。すべてが、他の領域と違って翳っているだけだ。

その中で、イリヨナは光り輝いて見えた。その、ビスクドールのような白い肌のせいだったのかもしれないが、アシュデルにはずっと、眩しい女の子だった。あの時の『好き』を、中年の姿となったアシュデルは裏切った。それが、ひどく哀しかった。

穢したくなかった。この月のように、清浄な輝きを――

どうして、そんなに欲深い?君のそばにいられるなら、何もいらないと思っていたあのころに、戻りたい。

何もいらないと、それを体現して心の底から笑うペオニサが、羨ましい。

ペオニサの想いがとても美しくて、アシュデルは自分の想いを浅ましく穢れているとしか思えなかった。

どうして、抱きしめたいと思ってしまったのだろうか。

その名を呼んで

その頬に触れて

その瞳に映して

ボクを、受け入れて――……

「どうしてボクは、こんな姿に……?君は、大人になってしまったんだろう……?」

インファを選んだ兄のように、何もいらないと笑えない。大の大人で、官能小説家なのに

ペオニサは、本当に何も望まない。与えようとするインファを拒む。際どい言動をお互いぶつけ合って、お互いの安全に心底楽しそうに笑っている。

そんな関係を、イリヨナとは築けない。求めないなんて無理だ。1つ許されれば、もう1つ、もう1つと求めてしまう。そして、行き着く先まで。

戻らない時を思いながら、あの子をフェアリアを作った。

柔らかな顔で笑っていたフェアリアを、少しだけ大人に描けば、彼女の微笑みは少しだけ哀しそうになった。どんな顔で笑うのか、わからない。

緊張して、少しだけ哀しげだったその顔しか、しらない。

想いが捻れていく。

会いたい……でも、会ってはいけないんだと。


 イリヨナは、バルコニーに出て、翳る月を見上げていた。

普段は黒いレースをふんだんに使ったミニスカートのドレスだが、寝間着は白い色をしている。光を練り込んだ生地で作った為、これだけはこの闇の領域でも白い色をしていた。

――ツアナっていう子が気になってるらしいぜ?

打ち明けるのに、勇気がいっただろう。しかし、父は教えてくれた。

ツアナ――精霊の言葉で、翼という名の娘。彼女を、アシュデルはどう思っているのだろうか。

いつも、緊張して上手く喋ることのできない、可愛げのない女。

ガラスの妖精少女・フェアリアを手放して、また新たにフェアリアを作るという彼は、彼女を少しだけ大人にした。

それは決別?それとも、希望?

どんな気持ちで彼女を描き、そして、ツアナにあのラフスケッチを見せたのだろうか。

あれは、少しだけ大人になったフェアリアは、イリヨナなのだろうか。

ペオニサは、その人と付き合えるかどうかは、キスできるかどうかで決まると言っていた。ちなみに、あれだけ好き好き言っているインファにキスするのは、絶対に無理らしい。ペオニサのインファに対する好きと、恋愛的な意味の好きは、別物らしい。

アシュデルと?想像できなくて、誰かに助けてほしくなる。

あんな知的で、寂しそうに笑う人に、そんな熱があるのだろうか。やっぱり想像できない。あの、長い腕で抱きしめられたら、どんななのだろうか。あの、細い体の温度は?

「会いたい……でも……」

すべてが未知で、答えを知ることも、その先を知ることも怖い。

大人になることを願ったのは、イリヨナ自身だった。

それは、アシュデルがきっと子供の姿ではいられないと思ったから。

追いつきたかった。いつも、ずっと先を見ていて、振り向いてくれないその横顔に。

イリヨナの知っている眼差しで、時計を弄るその俯いた顔に、幼少期感じなかった愛しさを感じる。

それは、いけないこと?

あなたがほしいと思うことは、何かに背くことなの?

再会したあなたは、私にとって男の人だった……

「痛いのですの。アシュデル……」

あなたは見ているのですの?この月を……


想いが知りたい

君の

あなたの

ボクは君が

私はあなたが

「「好きだよ」」

月よ、言葉にできない想いをどうか、静寂に溶かして、忘れさせて……


 ツアナが何者なのか、結論はわからなかった。

ミモザの話では、交友関係も、家族も、どこに住んでいるのかもわからなかった。それはまるで、ここに生きていないかのように。これは、放置していていいのだろうか。店を出た彼女をミモザは尾行を試みるが、いつもいつの間にか見失ってしまう。

まるで、夜の闇や、建物の影の中に、紛れてしまうかのように。

報告を聞いて、アシュデルは考え込んでしまった。これは、直接聞いた方がいい?何者とは、何も人間ではないと、それだけをさしているわけではない。

魔導士――精霊に呼びかけ、魔法を使うことのできる人だとしたら、それでも何者という言葉に当てはまる。闇魔法に長けているなら、光と相性のいい花の要素を持つミモザには追えないこともうなずける。

「――って事なんだけど、問いただしてもいいと思う?」

風の城に、ピアノの練習に来たアシュデルは、応接間でそこにいた一家に尋ねてみた。

「アシュデル君は、その人の事好きなんです?」

キラキラ輝く金色の長い髪を、三つ編みハーフアップに結った、柔らかな女性の様な美貌の青年が、アシュデルの隣で首を傾げた。

雷帝・インファの息子で、風の王の補佐官、煌帝・インジュだ。アシュデルとペオニサの尊敬する長女、智の精霊・リャリスの夫でもある。

「イリヨナを彷彿とさせて、落ち着かない人。それだけ」

アシュデルは、ティーセットの載ったワゴンのそばから離れない、四天王、執事、旋律の精霊・ラスの入れてくれた紅茶に口をつけた。フワリと、花の香りが香る。アシュデルが花の精霊だからと、気を利かせてくれたらしい。優しい香りに、思わず笑みがこぼれた。

「じゃあ、悩んでる理由は、暴いちゃって、今のままの関係でいられなくなるって事ですかぁ」

チラッとインジュがペオニサを見た。ペオニサは視線に気がついただろうに、気がつかないフリをして紅茶を啜っていた。

「あのですねぇ、その人がアシュデル君のこと好きだとするとですねぇ、どっかで告白されると思いますよぉ?壊しちゃうのは、アシュデル君だけじゃないんです。その人から壊しにくるってこともあるんですよぉ。どっちがいいです?」

「あ、そうか……そうだね。ボク、自分の方しか考えてなかった」

「ここで結論、出すことないんじゃないんです?その人の事は」

「他に何かある?」

その人の事はと強調するように言ったインジュの顔を、アシュデルはキョトンと見つめ返した。

「イリヨナのこと、好きですよねぇ?大好きですよねぇ?」

「…………大好きかどうかは、わからない」

ズイッと下から詰め寄られ、インジュの、白に青と緑色の入り交じった不思議な色の瞳に見つめられ、アシュデルは猫背を正して退いた。

「好きは否定しないんですねぇ?まあ、ボクにこんな話振ってくる時点で、相当困ってますよねぇ」

「困ってる……かな?」

「困ってますよぉ!だって、アシュデル君、ボクのこと凄く苦手ですよねぇ?」

凄く苦手って……この人臆せず直球……。でも、それは誤解だ。誤解されてるなら解かなくちゃとアシュデルは口を開いた。

「ああ、それはもう、解消された」

ゆっくりと瞬きして、アシュデルはインジュの瞳を見返していた。これには、インジュの方が怯んだ。

「インジュが得たいがしれないの、多重人格のせいだってわかったから。理由がわかれば、なんてことない」

淡々と表情1つ動かさず、言ってのけるアシュデルにインジュは「理系凄い」と呟いた。恐怖は、理由を知ったからとなくなるものではない。それはそうなのだが、アシュデルはもう、インジュを怖いとも苦手とも思っていなかった。

「3つ人格があるって、頭の中やかましそう」

どうなってるの?とアシュデルは興味深げに、静かに首を傾げた。

「あはは、五月蠅かったら遮断しちゃうんで、気になりませんよぉ?」

インジュは、その容姿に似合いのフワリと柔らかな笑みを浮かべた。

あ、この表情可愛い。アシュデルはインジュの顔をマジマジと見つめてしまった。

「インジュは、ボクより花の精霊みたいだ」

キラキラ輝く黄金の髪と、女性の様な柔らかな面立ち。華やかで、太陽の光に喜んで咲く、花の様だ。

「そうです?ボクからすれば、色っぽい瞳のアシュデル君のほうが、断然花の精霊だと思いますけどねぇ?ボク、色気皆無なんで」

インジュは座り直すと、あははと笑った。そんなインジュに、アシュデルは心底不思議そうに首を傾げた。

「色っぽい?」

「無自覚です?その神経質そうな切れ長な瞳で見つめられると、ボクでもドキッとしますよ?アシュデル君の瞳は不健全です!」

向かいでペオニサが吹き出して、声を殺して笑い始めた。

「色気でいったら、ペオニサより上ですねぇ。本気のお父さんは最上級ですけど」

「インファ兄、どうしてあんな色気出せるんだろう?魅了の力はなさそうだよね?」

「生粋の風の精霊ですからねぇ。シェラから光を継いでるんで、ちょっと特殊ですけど。魅了の力はないですねぇ。ところで、巨人の捻れ角島に拠点置いている理由、宝城十華の出版社がある以外にあるんです?」

「え?あんまり何も考えてないけど?」

アッシュの工房があるところに、宝城十華の出版社あり。といえばそうなのだが、そうでない工房もある。アシュデルがたくさんの工房を持っている理由を、風一家であるとはいえ、誰にも明かすつもりはない。初めはある理由があったのだが、今ではグロウタースの各所に行くことが楽しくてしかたがないのだ。月日が経てば、想いも変わるものだ。今ではあまり警戒しなくてもいいかも?とも思い始めている。

「そうなんです?あの島、結構特殊ですよぉ?そのツアナさんが魔導士だとすると、年齢も二十代後半ですし、相手としてはお勧めできないかもですねぇ。まあ、ボク達期間限定ですし、割り切ればいいかもですけど、アシュデル君、花の精霊ですからねぇ」

「絶対一途ですよねぇ?」インジュは、瞳を曇らせた。何なのだろうか?あの島には、何かあるというのだろうか?不穏なものを感じる。

「あれ、近いの?」

ペオニサが彼には珍しく、声色低く神妙に俯いた。何のことなのか、アシュデルは話しについていけていなかった。

「そうですねぇ、百年周期なんでたぶん、今年だったかなぁと。お父さんと結構頻繁に行ってるの、そのせいかと思ってたんですけど、違ったんです?お父さん、だいぶ前から止めたいんです。でも、リティルが乗り気じゃないんでいつも悔しそうですねぇ」

どっちの気持ちもわかるから辛いと、インジュは哀しそうに笑った。

「何?」

深刻そうな空気に、アシュデルは身を固くした。あの島の存亡に関わることなら、アシュデルも無関係ではない。通り過ぎていってしまう人達だとしても、アシュデルもミモザも確かに生きている場所なのだから。

 教えてくれたのは、意外にもペオニサだった。

「光貝の巫女が、百年に1度繁栄の祈りを捧げる祭りがあるんだ。あの島は、精霊獣の死骸からできてるって話でさ、その死骸に残ってた霊力が枯渇して滅びそうになって、魔導士が命を犠牲にして島を救った。でも、グロウタースの民の命と魔力くらいじゃ、そんなに維持なんかできないだろう?だから、百年に1度、魔導士の生け贄が捧げられるんだ。候補者は、魔導士で、25から39の女性」

「どうして女性?」

「子供が産めるからですよ」

アシュデルの問いに答えたのは、中庭へ出られるガラス戸を開いて戻ってきた、インファだった。

「インファ!おかえり」

中庭に面した尖頭窓を背にしたソファーに座っていたペオニサは、背後に立ったインファを見上げて瞬間明るい笑みを浮かべた。そんなペオニサに、優しげにインファは微笑んだ。

「ただいま戻りました」

「やっぱり演技なんだね」

優しい笑みだが、今のインファからは恋人に向ける様な甘く愛しげな雰囲気は皆無だった。

「イシュラースでまで、恋人は演じませんよ。あまり演じると、ペオニサがすり減りますしね」

「そうだよ!ずっと濡れ場書き続けてるみたいな疲労感が襲ってくんだから、普通に友達でいさせてよ!」

「普通、じゃないですけどねぇ。お父さん、光貝の巫女のこと、アシュデル君に教えてあげてくださいよぉ」

インファは「了解しました」と冗談めかして息子に微笑むと、ペオニサの隣に座った。

「概要は、ペオニサが語った通りです。子を産める女性の能力と魔力で、死に逝く島の維持をしています。精霊の落ち度ではなく、あの上に住み始め、魔法を生み出したのはグロウタースの民です。風の仕事ではありません」

「インファ兄は、だけど止めたいの?」

「たった1人の犠牲ですが、失って泣く人が、いるんですよ。父さんもわかっています。しかし、犠牲にしなくて済む代替え案を、出せないんです。安定したシステムを弄ることは相応のリスクを伴いますからね。世界の刃であるオレ達が選べるのは、大勢の犠牲より1人の犠牲なんです」

もどかしいですね。と、インファは哀しそうに笑った。

「オレ達は、創作の物語に出てくるような、神ではありません。この体の中にある力以上のことは、できないんです」

風の精霊にできることは、戦う事と、死した魂が生まれ変われるように、輪廻の輪へ導くことだけだ。

「インファ……だからさぁ!オレがヤルって、いってるじゃない!」

声を荒げたペオニサに、アシュデルは驚いた。そんなペオニサに、インファは哀しそうに笑った。

「あなたが犠牲になって、それで、どれくらい保ちますか?千年ですか?万年ですか?永遠でない時間のために、あなたは、どれくらい、眠るんですか?自己満足です。なんの解決にもならないんですよ」

「でも……でもさぁ……あんた、泣くよね……?輪廻の輪に還れない、その魂の為に、傷つくよね!?」

「傲慢ですよ。ペオニサ。オレを守ることは、あなたにはできません。あなたができることは、オレを癒やすことだけです」

「そう……だけど……」

フウとため息を付いて、インジュが苦笑した。

「ペオニサ、滅びに直面してる世界なんて、ごまんとありますよぉ。その1つ1つにいちいち体張るんです?保ちませんよぉ。だから、悩むんです。それで全部救えるんなら、ボクがやってますよぉ。そうでしょう?」

「……う、ん……」

「早まっちゃダメですよぉ?ペオニサが早まると、お父さんキレますから。壊したくないでしょう?それともまた壊しますぅ?雷帝・インファを」

「はあ………………わかったよ。オレ、インファ以外のためには、生きらんないからね」

「わかればいいんです。お願いしますよぉ?風の仕事は、同情じゃ務まりませんからねぇ。それでお父さん、巨人の捻れ角の根幹のことわかりましたぁ?」

「難航していますね。後回しにしたツケが回ってきましたよ。リャリスの知識をアテにしてもいいんですが、それをすると現状ではオレは2年ほど眠らなければなりません」

智の精霊は、望む知識をくれるがそれには対価の支払いがいるのだ。

「却下ですねぇ」

「リャリスが了承しませんよ。あれはいったい、なんの骸なんですかね?」

「それがわかればいいの?」

「調べる方法ありますぅ?」

「うん、たぶん。でも、確証ない。かなぁ?」

「何をするんですか?」

「うん。海に潜ってみる?」

「疑問形なんです?」

「あそこの特産に、光貝っていうのがいるでしょう?形状も、大きさも、色も、光り方もものすごく種類があって、不思議なんだ。あれの産卵、謎なんだよ?」

どうやって生まれてくるのか、ずっと疑問だった。現地民に聞いても「貝の産卵のことを気にするなんて、魔導師は変わってるな」と言われて結局何もわからなかった。あれを特産にしているのだ。生態を調べていても不思議はないのに、漁師も死んだ貝しか拾わない。生きている貝を傷つけてはいけないことになっている。

「貝が鍵なんです?」

「夜に、海を埋め尽くすみたいな色とりどりの光を、ボクはずっと体に宿る前の魂みたいだなって思ってたんだ。あの貝が、巨人の捻れ角の子供達なら、あれが産まれるところに、何かあるんじゃないかと思って」

「調べてみる価値はありそうですね。しかし、水の中ですか……」

「あ、ボクの出番です?」

「そうなりますかね?」

「はい。任せてくださいよぉ!ねえ?アシュデル君」

「よろしく。インジュ」

インジュに視線を合わせて、アシュデルはフッと微笑んだ。

ああ、この笑顔を振りまいてませんように。インジュは思わず祈ってしまった。


 光貝を獲る許可を持っているアシュデルは、インジュを伴って夜の海にさっそくやってきた。

さすがに、夜の漁場には誰もいない。海岸から、目視できる遠くの海まで、色とりどりの温度のない光が丸く埋め尽くすように灯っている。その光を、寄せては返す波がユラユラと揺らしていた。

「はあ、これは圧巻ですねぇ」

「うん。綺麗だよね。でも、なにか物悲しい光なんだ。えっと……あの辺が深かったかなぁ?」

アシュデルは、ローブの裾が濡れるのも構わずに、ザブザブと黒く沈む海に入っていった。

「ちょっ!大胆ですねぇ!ズボッていったらどうするんですかぁ!」

「おっとっと」

「ああ、もお!言ってるそばからぁ!」

暗い海にズンズン入って行ったアシュデルは、深みに足を取られて蹌踉めいた。そのまま海に倒れる所を、インジュが腕を捕まえた。途端に、彼の目がうつろになる。

「………………ここ……何か…………」

「インジュ、インジュ、あまり意識を同調しないほうがいい。何かが君に語りかけてるよ?」

インジュは振り払うように頭を振った。

「ボクとは相性良すぎたかもですねぇ。アシュデル君は大丈夫です?」

「ボクは眼中にないみたいだけど?」

「近づいたらわからないです。これは、骸なんかじゃないかもですよぉ?お腹が減って、食べたいだけなんじゃないんです?」

「生きてるって事?……生け贄は、どこで殺されるの?」

「天空の止まり木から海へダイブです」

「場所は?」

「ああ、真下の海を調べたいんです?えっとですねぇ、観光名所になってますけど、巨人の角って呼ばれてる、変な形の岩が突き出してるとこありますよね?」

「ああ、普段は立ち入り禁止のあれ?と、すると、こっちじゃないな」

アシュデルはクルッと向きを変えると、ザブザブと岸へ向かって引き返し始めた。

「たぶん、この海岸の反対側だけど、そこは道がないんだ」

「じゃあ、飛んでいくしかないですねぇ」

インジュはオウギワシに化身すると、アシュデルにも化身を促し、ミイロタテハに化身した彼を背中の羽に止まらせると羽ばたいた。

『明日、怪鳥出現って、騒ぎになるかもですねぇ』

笑いながらインジュは、海の上を旋回して、島の反対側に来た。

『ああ、当たりかもですよぉ?すごい大穴ですねぇ』

『うん。まるで得物を食べる口みたいだ。潜る?』

『大胆ですねぇ!嫌いじゃないです』

インジュは高度を下げた。

『ギリギリで化身を解いて飛び込みますよぉ!何か出るとあれなんで、ボクから離れないでくださいねぇ!』

『君も大胆。わかった。ずっと腕掴んでるからそのつもりで』

海が迫る。

ずっとずっと遙か昔から、この穴に向かって、もっともっと高いところから命を捧げさせられた娘達がいる。そして、それを遂行するために儀式を守る人達がいる。

リティルは黙して語らなかったが、インファはその現状に傷ついていた。

生け贄になる娘は憐れだが、それを遂行する者達も憐れだ。人を殺し、その犠牲の上に生きていることを知っている人達の痛みは、いかほどのものだろうか。

 ドボンッと、体をまとわりつくような海水が包んだ。それを弾き飛ばすように風が産まれ、ハアと2人は息をついた。

「命の類いが感じられませんねぇ」

「底が見えないね。?水流が下へ向かっている?吸い込んでる?」

「そういえば、こっち側には光貝がいませんでしたねぇ。反対側にはあんなにたくさんいたのに」

「ここが入り口で、あっちのあの穴が出口か。インジュ、このまま何かの体内だったら?」

「ゾッとしないですねぇ。ボク、食べる方のが好きですけどねぇ」

「みんなそうなんじゃない?」

「あはは。あ、残念。終点ですねぇ」

「…………」

地面をしげしげと見つめて、膝を折ったアシュデルに習って、彼の隣にインジュも膝を折った。そうしたのは、アシュデルが律儀に腕を掴んだままだったからだ。

「何かあります?」

「逆かな?ないんだ」

「何がです?」

「人骨」

「百年経ってますよぉ?」

「そうだね。でも、変だね。なんの命の痕跡も感じないのに、何が死体を分解したんだろう?」

「ああ、そういうことですかぁ。水の流れも感じませんねぇ」

アシュデルは立ち上がると、手の平にミモザの花を咲かせ、その中から蓋付きの小瓶を取り出した。そして、その瓶に水で満たした。しばらく何か考えていたが、この地面の砂も採取することにしたらしい。もう1つ瓶を取り出して、それに詰めていた。

「魔導士ですねぇ」

「ボクもね、風の精霊には悲しんでほしくない。花はね、風の精霊が泣くのは花が散ったときだけにしてほしいんだ」

「欲深いよね?」アシュデルはインジュを見て、自嘲気味に微笑んだ。そういうわりには、アシュデルの心はイリヨナかツアナで揺れている。イリヨナには風の血が流れているが闇の王だ。ツアナは今のところグロウタースの民の魔導師に見える。自分は今目の前にいるインジュを命がけでは想えないのに、傷ついて泣くなという。身を挺して守る気もないのに。

「ああ、それで、ペオニサのあの発言です?初代花の王の時代は、花の精霊は不死身でしたけど、今はどうなんです?」

「ボクは、ボク限りだよ。でも、兄さんは違うかもね」

「どうしてです?」

「あの人は、雷帝・インファの為に生きてる精霊なんでしょう?花の気質は、風のために散ること。でも、インファ兄を泣かせられないなら、蘇るしかない」

「それ、確かめる術、あります?」

「あっても勧めない。それ知ったら、兄さん、何度でも散るよ?それ何度も見せられるインファ兄、大丈夫?」

「大丈夫じゃないですねぇ。ここだけの話で」

「うん。そのつもり。……これ、たぶん浮かべないね」

上を見上げたアシュデルは他人事のように言った。

「ああ、水流が蓋みたいになってますねぇ。だけど、生き物の気配がしないのは、確かに変ですねぇ」

「こっちの海に漁船がいるのを見た事がある。魚はいるんだ。それが、この水流に巻き込まれないのも変だね」

「食べるモノを選んでるとかですかねぇ?大丈夫です?」

アシュデルがぶるっと身を振るわせた。そして、寒そうに身を抱いた。

「なんか……寒い?」

「帰りましょう!何か影響してるのかもですよぉ!」

インジュは、アシュデルの腰に手を回すと首に下げていた鏡の首飾りを片手で握った。

ゲートが開き、2人の姿はその場から消えていた。


 寒さを感じたアシュデルを診たインファは、言葉少なく眉間に皺を寄せて言った。

「この件は、オレに預からせてください」

ゲートを開き、風の城の応接間に戻ってきた2人は、異常を感じ取ったインファとそんな息子に呼ばれた、花の姫・シェラの診察を受けた。インジュは何ともなかった為に即解放されたが、寒さを感じたアシュデルは風の王の寝室に押し込められ、今は翌日だ。

 インファは、アシュデルと風の王夫妻と共に、すでに起きていたインジュとペオニサのいる応接間に姿を現した。アシュデルは、インジュとペオニサがその間を空けたので「そこに座るの?」と苦笑しつつ2人の間に大人しく腰を下ろした。

インファと風の王夫妻は、彼等の机を挟んだ向かいのソファーに腰を下ろした。

「お父さん?アシュデル君に何があったんです?」

インジュは、アシュデルの身を預かっていた手前、責任を感じているようだった。インファとアシュデルは、心配顔のインジュに「大丈夫」と言った。そしてインファは告げた。

「霊力を抜かれています。大魔導と名高いあなたが、霊力を抜かれていることに気がつかないのは、それだけで異常です。インジュの霊力に影響がないので、あなたの何かがお気に召したのでしょう。ペオニサ、あなたは祭りが終わるまで巨人の捻れ角に近づかないでください」

インファの声は硬質だった。無理もない。花の精霊を食べるのだとしたら、ペオニサは確実の危険なのだから。

「インファは行くんでしょ?オレも行きたい」

「ペオニサ、花の精霊に影響があるのだとしたら、あなたを危険に晒すわけにはいきません」

「アシュデルはいいのに?」

「兄さん、ボクは魔導士だし自分の身くらい守れるよ。でも、兄さんは非戦闘員でしょう?それに、気になることもあるし」

苛立ったように心配げに、ペオニサがアシュデルに詰め寄り叫んだ。

「ツアナちゃんだったら大丈夫だよ!けど、アシュデル、おまえ、霊力抜かれたんだぞ!?今、霊力弄れるのはインファとシェラ様だけだ。オレもまだまだ修行中だし――」

「待って!ツアナちゃんだったら大丈夫?」

ペオニサは失言に気がついたようだがもう遅い。ツアナのことは調べてもわからなかった。島のことに関わることになってしまい、アシュデルは彼女のことを一旦保留にせざるを得なかった。会って直接聞く以外にないかと結論を出しつつ、行けない今がある。だのに、アシュデル以上に彼女の事を、ペオニサは知っているのだ。聞き捨てならない。

「あ、いや……」

「あの人は、兄さんの差し金?どうして?彼女は何者なんだよ!」

彼女の事が頭から離れない。光貝の巫女の候補に当てはまるかもしれないと、気が気じゃない。何も知らないのに、おかしな事だと思うが、あのイリヨナに似た女性のことが気になる。あの島の秘密を解き明かして、祭りをやめさせる事ができれば、誰も死ななくてすむ。ツアナの身の安全は永遠に保証されるのだ。冷静でいられない。言葉を濁すペオニサにアシュデルは苛立った。

「兄さん!」

ペオニサは言葉を紡げずに、僅かに口を開いては閉じることを繰り返すばかりだった。軽口ばかり叩く兄には珍しい光景だ。

「アシュデル、彼女の正体については、あなた自身が解き明かすべきです」

ペオニサの肩に手を置いて自分の胸に引き寄せながら、彼を庇ったのはいつの間にかペオニサ背後に移動していたインファだった。庇われたペオニサはというと、そのままインファの胸に倒れることを、ソファーの座面と背もたれを掴むことで阻止していた。過度に触れ合わないを徹底するペオニサを、前からツンッと押したい衝動をインジュはアシュデル越しに耐えた。

 ここは、ボクの出番なんですかねぇ?ヒョイッとアシュデルのひょろ長い巨体の後ろから顔を覗かせ、インジュがインファに言った。

「あのぉ、アシュデル君と、ボクが一緒にいましょうか?」

ペオニサが危険だとわかっている場所に行こうとしているのは、インファの為だけではない。この頼りがいのありそうな中年精霊の弟を心配しているのだ。ペオニサは、非戦闘員だが決して弱い精霊ではない。防御と治癒能力に長けたペオニサは、おそらくあの島にいても大丈夫だとインジュには思えた。

しかし、インファの行動は普段通りなのだ。彼は基本的に、一家の誰であっても相性の悪い者はその事案から外す。わざわざ懸念のある者を起用しなくても、一家には様々な人材が揃っているのだから。

今回、影響を受けたアシュデルを外せないのは。彼の大魔導としての力とあの場に定住しているということを利用したいからだ。

お父さんも、だいぶん追い詰められてますねぇ。無理もない。風の仕事ではない今回の事案は、言わば、インファの趣味だ。そこに一家は巻き込めない。ペオニサは公私ともにインファの味方で、アシュデルはたまたま巻き込まれたが、趣味に協力する理由がある。やっと得た、協力者なのだ。今回を逃すことは、インファにはできないのだ。インジュは……まあ、息子だし、リティルも目をつぶってくれませんかねぇ?といったところだ。

「ボクは影響受けなかったし、技量的にもアシュデル君を守れますよぉ?」

「けど、おまえじゃ、あの島のことは調べられねーよな?」

ずっと口を閉ざしていた風の王・リティルが口を開いた。

ああ、痛いとこついてきますねぇ!確かに、戦闘狂のインジュでは、この、何を調べればいいのかわからないような調査に、案なんて出せない。だが、だが、考えることは大魔導のアシュデル君に任せておけばいいですよねぇ!?リティルに意見できなかったインジュの苛立ちは、ペオニサにむいていた。

「それは、そうですけど……ペオニサよりマシです!」

「考えるのはインファの仕事なんだからいいの!これでも昔のこと調べるのは得意なんだからインジュよりは役に立つよ!」

理不尽にインジュに睨まれたペオニサは、すかさず言い返した。彼の背後に、インファはすでにいなかった。インジュとペオニサに挟まれて言い合いを聞いていたアシュデルは、静かにしかし2人を黙らせるには十分な声で言った。

「あの島は、花に似た属性か、花の天敵みたいな精霊獣じゃないかって思ってる。インファ兄の預かりなら、インファ兄とじゃいけないの?」

「インファは、儀式の方から攻めるつもりなんだよ」

「儀式を調べるなら、尚更オレ行くよ!取材させてくれって言えば、無碍にはされないよ」

ここぞとばかりにペオニサが売り込みに来た。インファは拒否しようとしたが、リティルの苦笑に遮られた。

「守ってやれよ、インファ。おまえならできるだろ?ただし、ペオニサ気をつけろよ?おまえが怪我したら、雷帝があの島滅ぼすと思えよ」

「わーお、オレ、責任重大。了解、ありがと、リティル様」

「ってことなんだよ、アシュデル。それでな、シェラに行ってもらおうかと思ってるんだ」

「え?」

アシュデルは、リティルの隣で微笑む、少女のように可憐で大人の女性としての美も兼ね備えた、黒髪の美姫に視線を合わせた。

モルフォ蝶の羽根を持ち、青い光を返す不思議な黒髪に丸く白い光の花を咲かせた彼女は、花の王を源流に持つ花の精霊とは一線を画す、花の精霊だ。異世界をゲートで繋ぐ、母なる大樹・神樹の花の精霊だ。花の王・ジュールも一目置く、風の王の妃、花の姫・シェラとあの小さな工房で寝泊まりしろと?アシュデルはそんなことに戸惑ってしまった。


 風の王に逆らえるはずもなく、アシュデルはエプロンドレス姿で店の中を掃き掃除するシェラを見守るはめになった。

可憐……可愛いってものじゃない。本物の妖精がここにいるよ。と、アシュデルでさえ、ソワソワしてしまった。できるなら、何枚かスケッチさせてほしい。イリヨナごめん。知ってたけど、君のお母さん最高にいい被写体だよ。もっと妖精っぽいドレス着てほしいなと、そんな邪なことを考えているとは思われない普段通りの表情でシェラを観察していると、工房の扉が開いた。

掃除するシェラの姿を見たミモザが、慌ててすっ飛んで行き「ボクがやります!やらせてください!」と詰め寄っていた。対するシェラは、花が綻ぶような綺麗な笑みを浮かべて、楽しいからやらせてと言う始末だ。

はあ……と、我に返ったアシュデルはため息をついた。彼女は何者だ?と何人の人に聞かれるのだろうかと、今から頭が痛い。なんて説明しよう?アシュデルが本気で悩んでいると、泣きそうな顔でミモザが戻ってきた。

「師匠……シェラ連れて、島巡り行ってきてくださいよ~。ボク、身が持ちません~」

そうだろう。花の中級精霊であるミモザにはアシュデル以上に、花の姫は恐れ多くて尊い。同じ空間にいるのは至福だが、彼女を働かせるのは気が引けるの騒ぎではない。

アシュデルは席を立った。

「シェラ、街を歩こう?あなたも何か感じるかもしれないし」

「そうね、行きましょう」

アシュデルが声をかけて、ヤンワリとほうきを取り上げた。取り上げられたシェラは、なぜか名残惜しそうにしながらも、言葉に従ったのだった。


 時計屋を出ると、シェラは吹き抜けてきた風にスカートを押さえた。そして、ウッドデッキの向こうの穴だらけの雲海を見た。

「こんな高いところまで、潮の香りがするのね」

気持ちよさそうにシェラは胸いっぱいに空気を吸い込んだ。潮の香り……?アシュデルは空気に鼻をひくつかせた。確かに、潮の香りがする。

「しなかったんだ。潮の香り」

シェラに並んだアシュデルは呟くように言った。

「ここはむしろ、花の香りがしてた。その花も、何の花なのかわからなかったけど」

「花……全体にしていたの?」

「うん。でも今考えると変なんだ。ここには、花壇はたくさんあるけど、そこまで香りの強い花は咲いてない。それなのに、いつも同じ匂いがしてた」

いつ来ても同じ香りがしていた。まるで、誰かが故意に香水をばら撒いているかのように。だが違う。香っているのは直に咲いている花の香りだ。

「それは、この山の香りなのかしら……アシュデル、この辺りに山肌に触れられる所はあるかしら?」

「うーん……ここは、観光地で全部建物で埋まってるかなぁ?あれも同じ山なのかわからないけど、巨人の角だけだと思う」

「儀式を行う場所ね。行ってみましょう」

シェラは積極的だった。おっとりしているようで、風護る戦姫の異名を持つ勇ましい姫だ。リティルがシェラを遣わせたのには、やはり理由があるようだ。

「ごめんなさい」

「……えっと、なんの謝罪?」

「わたしがつくことになってしまって。インファは、本当はゾナを巻き込みたかったの。ゾナはイシュラースの三賢者の1人だわ。弟子のあなたとなら、この島を救えるかもしれないのに……」

そういうこと。とアシュデルは少しだけ背筋を伸ばして、ため息をついた。

イシュラースの三賢者、末席、時の魔道書・ゾナ。時間という力を司る、不可侵の精霊の1人だ。彼は時の力を殆ど使わないが、彼は魔導書に宿る意志という魔人という存在が精霊に転成したために、数々の魔法に精通した大賢者なのだった。ゾナはアシュデルの、幼少期に魔導を教えてくれた師だ。今では大魔導の異名のあるアシュデルも、まだまだ遠く及ばない。

「師匠は隠者だ。グロウタースに関わるべきじゃない。インファ兄もわかってるよ。リティル様が首を縦に振らない理由も」

それでも……と俯くシェラに、彼女がインファの肩を持ちたいことを知った。

リティル様は本当に大変だな。アシュデルは小柄で童顔な、笑顔の明るい風の王に想いを馳せながら、風の王妃を見下ろした。

「ボクが一家に入れば、利益になる。ボクはそう言って、リティル様に自分を売り込んだんだ」

 シェラが顔を上げた。モノクルの奥、少し哀しげに優しげに微笑む、切れ長な瞳と目が合った。幼少期、目つきは悪かったがもっと明るく笑う子供だった。それを知っているだけに、彼の瞳にある哀しみの理由を知っているだけに、シェラは、苦しくなる。

自分では彼を救うことができないもどかしさ。

あなたのせいではないと、繰り返すことしかできず、その言葉を、彼は欲していない事実もわかるだけに、寄り添えない辛さが付きまとう。

「ボクは、ゾナ先生の弟子だ。ボクが動けば、師匠は手を貸してくれる。現に、海の水と土を分析してくれてる。インファ兄はつれないよね。ボクに相談、してくれればよかったのに。大魔導のボクも、結構やるよ?」

フフと笑って、アシュデルは前を向いてしまった。結わえ損なった深い緑色の髪が、彼の横顔にかかり、その表情をぼかしてしまう。

「成果出せば、インファ兄はボクを、一家だと認めてくれるかなぁ?」

「アシュデル……無理を、していない?」

「ううん。調べたり研究したり、机の前で物を作ったり、そういうことのほうが向いてる。これは、ボクの仕事だよ」

この子は、大丈夫なの?シェラは、アシュデルが散ってしまいそうなそんな危うさを感じていた。

風を愛するなら、絶対に散ってはならない。

誰よりもこの世界を慈しむ風の精霊は、とても傷つきやすくて涙脆いから。

安定してるとはいえ、この、故意の犠牲の上に成り立つ世界を、リティルも放ってはおきたくない。しかし、手が出せない。

王であるリティルは、自分の主観や感情で世界に介入することはできない。

安定しているのなら、それを見守り続けることも風の王の宿命だ。

誰から見ても、どんな常識で見ても、それは間違っているということも、その中心にいる者にとっては絶対的な正義で、正しいことなのかもしれない。そのすべてを『あり』だと、受け入れることも風の王の責任なのだ。

だからリティルはこの件には一切関わらない。巨人の捻れ角の根幹に関わることだ。精霊的な要因で存続が危ぶまれるなら介入できるが、生け贄の儀式はこの島のサイクルだ。風の王の仕事ではない。

 故に、インファは今まで孤立無援だった。

アシュデルの霊力が奪われ、グロウタースにありながら、精霊に干渉できる存在の調査という大義名分を得ることができたのは、インファにとっては渡りに船だ。この機会を逃したくないインファが無茶をしなければいいと、ペオニサが案ずることを、リティルも案じている。

「安心して。ボクは散らない。ボクも、幸せを、願っていたいから。それにしても兄さん、あんな押し強いんだね」

フフと楽しそうに思い出し笑いをして、シェラを再び見下ろしてきた。

「ええ、インファに対しては日常だわ。ペオニサには感謝しているわ。あの子は、セリアと連携してインファを守ってくれているの。インファの事には敏感で、危険だと思うと絶対に離れないわ」

「愛だね。あそこまで想える兄さんが、羨ましいよ」

「ウフフ、インジュが最近楽できると言っていたわね。アシュデル、あなたは一見頼り甲斐がありそうで心配だわ」

「ええ?それでも心配してくれるの?シェラ様は本当に尊いね」

ははと笑ったアシュデルは、強い風に遊ばれる髪を押さえて、雲海を見た。シェラもスカートを押さえてそちらを見ると、翼鯨が雲を突き抜けてくるところだった。

「……浮力が落ちてる?」

シェラには、銀色の翼ある無機物が空を飛ぶ様は圧巻以外の感想を抱けなかったが、この光景を日常で見ているアシュデルには思うところがあるようだ。目つきの悪い瞳が更に凄みを増していた。

「シェラ様、リティル様の風、持っているよね?」

「えっ?え、ええ……」

リティルの風を持っているか?と聞かれ、シェラは瞬間動揺してしまった。アシュデルは、ホンノリ頬を赤らめたシェラを不思議そうに見ていたが、ハッとしてこちらは耳まで真っ赤になった。

「あ……その……すみません……下世話なこと……」

霊力の交換。それは、婚姻を結んだ精霊同士が行える特別な魔法だ。不老不死故に子を成す必要のない精霊は、交わりによって相手の霊力を得ることができる。大地に近い花の精霊が、産まれながらには持つことができない風の力も、霊力の交換を使えばもらった分だけ持つことが可能だ。方法が方法であるだけに、もう何百年も夫婦をしているというのに、精霊的年齢19才で、転成前とあるグロウタースの国の姫君だったシェラは、未だに情事を匂わすようなことを言われると照れてしまうのだった。

「ご、ごめんなさい!慣れなくて。昨夜もらったから、たくさんあるわ」

「さ、昨夜!?……あああ……ちょっとどう反応していいのかわからない……」

中年の知識が恨めしい。子供だったら「?」で済むところがそうならない。成人後いきなりこの姿のアシュデルは、実は性欲を感じた事がなく、知識はあっても今まで考えたことすらなかった。故にこんなとき、どう躱せばいいのか未知すぎた。

「~~~~!」

失言に気がついたシェラが混乱している。それを見たアシュデルも、どうすればいいのかわからなくなる。

「待って!わかったから。ちょっと落ち着こう。あ、あの、風の力があれば浮力の計測ができるかなぁと思って」

「ふ、浮力?やり方がわかれば、できるかもしれないわ」

「ボクも六属性使えるけど、風はやっぱり不慣れだから……って、適任いた」

アシュデルの視線の先には、向こうから歩いてくる派手な女性物の着物を着崩した華やかな男性と、そんな彼と柔らかく微笑みながら連れだって歩く、遠目にもその美しさがわかる青年がいた。

「十華、インファ兄!」

 アシュデルが声をかけると、2人は同時に気がついた。ペオニサが大きく手を振って、満面の笑みで駆けてきた。

うわあ……もの凄く注目されてる……。呼ぶんじゃなかったとアシュデルは若干後悔したが、後の祭りだ。

「アッシュ~!なになにデート?」

この恋愛脳のバカ兄貴!とアシュデルは心底呆れた。こんな中年親父と可憐なシェラでは、美女と野獣を通り越して犯罪だ。

「バカ言わないの。ボクと噂が立ったらシェラに傷がつくからやめて」

「あっはは!ごめんごめん。どうしたんだよ?おまえが昼間に出歩くのって珍しくない?」

「ああ、巨人の角を見に来たんだ」

「へえ、奇遇だねぇ。オレ達もなんだ。中に入る許可もらってきたから、アッシュ達も行く?」

「ああ、うん。いいなら」

「普段立ち入り禁止ですから、もっと渋られると思ったんですが、案外すんなりでした。しかし、どうしたんですか?」

「この上層、いつも花の香りがしてたんだ。それが今は、潮の香りしかしなくて、この辺りで地表に触れられるところないかと思って」

「花の香り……ですか。確かに、潮の香りがしますね。雲の上だというのに」

「それと、インファ兄、浮力って計測できる?」

「浮力ですか?できますが、何を測ればいいんですか?」

「翼鯨。飛び方が微妙に無理して見える。今の浮力の限界高度が知りたいんだ」

「わかりました。次の翼鯨の航行は何時ですか?」

「ええと……あと2時間後かな?」

アシュデルは懐から懐中時計を取り出すと、文字盤を見つめながら言った。

「翼鯨の航行なら、巨人の角からでも見えるねぇ」

ペオニサが柵の向こうにそびえ立つ捻れた黒い角のような巨大な岩と、雲海とをキョロキョロと見た。

「そうですね。とにかく行きましょうか?」

インファに促され、観光客で賑わう巨人の角を望むウッドデッキの広場へ足を向けた。


 巨人の角は、木の低い柵の向こうにそびえ立っていた。柵は低いが魔法の壁があるので、柵の中へは入れない。

アシュデルは、突き刺さるような視線に晒され緊張していた。ここは観光客も多い上に、有名人の宝城十華と恋人のインファが一緒だ。そして、可憐で美しいシェラだ。見目麗しい者がこれだけ集まれば、十華達を知らなくても人目を引いてしまう。インファは柵にかけられた鍵を外すと、皆を先に中へ入れ、自分は最後に柵を越えると、再び鍵をかけた。

柵の中も、ウッドデッキが通され、ウッドデッキに空けられた穴から細長い岩が突き出している。一応転落防止の腰高の柵はあるが、下から吹き上がる風で、心許ない。

「大丈夫?シェラ様」

アシュデルはシェラを巨人の角側へ移動させ、自分は外側へ立った。

「ありがとう」と笑うシェラに「どういたしまして」とアシュデルは微笑んだ。ほのぼのとしていると、前を行く2人が騒がしくなった。

「なぜあなたが外側なんですか?」

「ええ?だって、オレの方が大きいでしょ?そんな細いインファが外側なんか歩いて、落っこちたらどうすんの?」

「男性としては平均的な身長ですよ。十華、ではせめてもう少しこちらを歩いてください」

肩も手も触れない距離にいたペオニサの腕を、インファが引っ張った。

「や、大丈夫だって!」

バッとインファの手を振り払ったペオニサは、蹌踉めいて柵にぶつかっていた。アシュデルはインファが慌てるのを見た。再び腕を掴まれたペオニサとインファが騒いでいるのを、アシュデルはシェラと視線を交えて苦笑した。

しかし、柵のこちら側に入ったときから、別の緊張をアシュデルは強いられていた。平然としているペオニサは感じているのかいないのかわからないが、インファは何かを感じているらしい。少々過剰にペオニサに構っている気がした。

「シェラ様」

「ええ、歓迎されているようだけれど、あまり気分のいいものではないわね。儀式の行われる場所についたら、この岩を調べてみましょう」

シェラの言葉に、アシュデルは頷きながら、頑なに外側を譲らないペオニサの背中を見つめていた。

 儀式を行う広場は、ウッドデッキから見えない位置にあった。それはそうだろう。ここから巫女は身を投げるのだ。殺しの場面を、島民や観光客に見せるワケがない。

「この下?」

アシュデルが唯一手すりのないウッドデッキの端から下を覗いていると、ペオニサが隣に並んで来た。吹き上げてくる風に警戒しながら、アシュデルは頷いた。

「何か感じる?」

「まあ、ね。インファはやらないよ。誰にもね!」

「え?インファ兄?」

「声がするんだよ!明らかに誘ってる!」

ペオニサは怒り心頭だった。

アシュデルは驚いていた。アシュデルには、声なんて聞こえないのだ。ただ、嫌な、まとわりつくような視線というか気配というかを感じる程度だ。そう言えば、インジュが島の反対側の光貝のたくさんいる海岸の穴で、何かに語りかけられていたことを思い出した。

花の精霊じゃなくて、風の精霊が本命?でも、この真下の穴で霊力を盗られたのは僕だったけど……。アシュデルは考え込みながら飛び込み台から離れていた。

 ウッドデッキから突き出した岩では、シェラとインファがそれを調べていた。

「かすかに、生命反応を感じるわ」

岩に触れたシェラは、手の平に感じるかすかな力の流れを感じ取っていた。

「……これがアシュデルの言っていた、花の香りですか?」

インファは岩に触れながらかすかに感じた香りを追って、岩に鼻が触れるくらいにまで近づいていた。

「インファ、あまり嗅がない方がいいかもしれないわ。かすかだけど、媚薬のような香りがするわ」

「では、この精霊獣は、花か宝石……香りのことも考えると、花ですかね?」

花の精霊は、実を結ばせる為に性的魅了の力があり、宝石の精霊には、心を奪う魅了の力がある。

「……インファ、あなた何も感じていないの?」

飄々としている息子に、シェラは睨むような視線を向けた。

「何か、求められているような感じはしますが、そんなに深刻なんですか?」

「インジュも何か声を聞いたと言っていたわね。インジュは宝石の精霊の血を引き、花に縁のある精霊と夫婦だわ。あなたは宝石の精霊と婚姻を結び、花の精霊に愛されているわ。……リティルは、どうかしら……」

リティルは、宝石の精霊とは結びつきがないが、花の精霊と婚姻関係にある。風の精霊が狙われているの?とシェラは深刻そうだった。

「母さん、風は花を守ろうとします。花は風に尽くそうとしますよね?」

「え?ええ、そうね……」

「風の精霊を餌に、花の精霊をおびき寄せるとしたらどうですか?」

「なぜ?」

「この儀式で犠牲となるのは、女性です。花と風を男女と考えると、どちらが女性ですか?」

「……花ね。けれども、今はどちらの性もいるわ」

「すみません、性別ではないんです。産む力と死の力ですよ。精霊は、属性によってその力を男女ともに当たり前に持っていますが、グロウタースの民は違います。グロウタースの民で、産む力を持っているのは、女性だけなんです」

「産む力ね……何とかしてそれを注ぎ込めれば、犠牲は出さずにすむかな?」

「アシュデル、聞いていたの?」

「うん。シェラ様、あなたも花の精霊だよ?危険度はボクと兄さんと同じだ。大丈夫。この島の上にいる分には、島もボク達に手は出せないと思う。ミモザも体調不良とかないし。……戻ろうか。思いの外気分悪い」

そうねと、シェラは頷き、ハッとした。男2人がどうしたのかと首を傾げた。

「ペオニサ、ペオニサはどこ!」

兄さんならさっき飛び込み台の……とアシュデルが思いながら飛び込み台を振り返ると、ゴッと風が吹いた。

「ペオニサ!」

インファが風の中を走っていた。

アシュデルの見開いた瞳の中で、航路を大きく外れた翼鯨が雲海を抜け、巨人の角のウッドデッキスレスレを通っていく。

雲海に背を向け、顔を庇いながら足を踏ん張るようにしているペオニサの体が、翼鯨の起こした風に巻き込まれるように僅かに浮かび、彼の足が蹈鞴を踏んで蹌踉めいた。

走ったインファの手が彼をつか――んだように見えたが、ペオニサはその手を振り払っていた。振り払われると思っていなかったのだろう、インファが蹌踉めいてウッドデッキに尻餅をついた。

「バカ兄さん……!」

アシュデルは咄嗟に片手に分厚い魔導書を開くと、大地の魔法を展開していた。

トンッと岩に手をつくと、岩に絡まるように太い蔓が出現し、ビュンッと風を切り裂いて蔓が伸びる。風に攫われ、空中へ放り出されたペオニサに向かって。

「動かないで!インファ兄!!」

強風の中、立ち上がろうとするインファに叫びながら、アシュデルは風に負けそうになる蔦を歯を食いしばって操る。ペオニサの背中から、黒い靄が滲むように見えたかと思うと、一瞬だけ彼の体がその場に留まったように見えた。ペオニサの闇の守護精霊・ノアが微力ながら力を使ってくれたようだ。蔓は、ウッドデッキの向こうへ落ちそうになったペオニサを、すんでのところで絡め取っていた。アシュデルがグイッとたぐり寄せるような仕草をすると、蔓も動き、ペオニサはウッドデッキに蔓に絡みつかれたままドッと投げ出された。

「ペオニサ!オレの手を振り払わないでください!」

「あたたたた」と体を半分起こしたところで、ペオニサは駆けつけたインファに怒鳴られていた。

「あ、はは……ごめん……インファが巻き込まれると思ってさ。よく考えたらここ、死角だったね。羽根出せばよかった」

焦ったーと後頭部を掻いて笑うペオニサを、インファは抱きしめていた。

「危険な真似はしないと、約束したでしょう……!」

ここにいることを確かめるように、抱きしめてくれたインファの腕が震えているのをペオニサは感じていた。

「あっはは、ごめんごめん。ノアちゃんにも怒られた。もうしないから、許して?あと、インファ力強いねぇ。痛いよ」

腕緩めてと、戯けた調子で言いながら、トントンッとペオニサはインファの背中を軽く叩いた。

「生きた心地が……しませんでしたよ……」

インファがペオニサの肩に顔を埋めたまま、呟いた。深呼吸を繰り返すようなインファの息に、彼の心配と安堵が伝わってきて、ペオニサは思わず泣きそうになって、それを振り払うように元気に言った。

「生きてるって!大丈夫だからさ、インファ、オレが触っちゃう前に放して?ね?」

そう言ったのだが、インファはしばらく放してはくれなかった。


 あの日から一夜明け、アシュデルは店番をしていた。

インファとペオニサは、図書館に行くと言っていた。

あの時、ペオニサが落ちていたとしても、彼もあの場にいた皆、空を飛べる精霊だ。大事なく助かっただろう。

しかし、インファは過剰なまでに取り乱した。あの、冷静沈着なインファ兄が……とも思ったのだが、その原因が、空中へ攫われそうになったペオニサに、手を振り払われた事にあると、リティルから知らされた。

 リティルは、アシュデル達が店に引き返すと、すでにカウンターの間に腕を組んで立っていた。そして「おまえら、顔貸せ」と顎で工房の扉をさすと、さっさと行ってしまった。

店番していたミモザは「リティルがすごく怒ってるんですけど、師匠何したんですか?」と可哀想なくらい怯えていた。リティルは突然来て「おい、今すぐ店閉めろ!」と反論を許さなかったらしい。

リティルの横暴な態度に驚きながら「ボクは、何も……」と言葉を濁した隣で、ペオニサがいつになく真剣な眼差しをしていた。その顔が、心なしか青かった。

 工房に入ると、座れと促された後、リティルは言った。

「無事でよかったぜ。オレは、現段階じゃこの島に関われねーんだよ。脅かすなよな!」

リティルはさっきまでの怒りが嘘のように、ホッとした顔で笑っていた。

「花はな、風にとって特別なんだよ。オレもな、怖いぜ?シェラだけじゃなく、おまえやペオニサに何かあったら、冷静じゃなくなる自信がある。だからな、無茶するなよ?」

リティルはそう言って、座っても背の高いアシュデルの首を強引に引き寄せるようにして抱きしめてくれた。巨人の角で味わった、気持ちの悪かった心が解きほぐされ、思わず泣きそうになってグッと堪えた。

風の王・リティルは、抱きしめることで発動する固有魔法・無性の愛で、正常でない心を癒やしてしまう。彼に抱きしめられて、抱きしめ返して泣いてしまったとしても、一家の皆の前では恥ずかしいことではないのだった。だが、やはり、恥ずかしい!

「はは、強情なヤツだな」と手を放したリティルに苦笑されたが、中年の矜持は死守したアシュデルだった。

 「さて」と、リティルはペオニサに視線を向けた。ペオニサは、リティルに頭にゲンコツを落とされていた。

「インファはな、おまえに守ってもらわなくても強えーんだよ!拒絶するようなマネしてんじゃねーよ!おまえ、インファを殺す気かよ!」

実父・ジュールとは違った凄みがあった。

「ごめんなさい!」

1度も顔を上げないまま、ペオニサは深々と頭を下げた。

あの兄が、茶化さないで謝るなんて……!しかしながらアシュデルも「バカ兄さん!」と舌打ちしたくらいだ。あれはなかったと思う。

「父さん……もう、そのくらいにしてください。ペオニサから離れた、オレの落ち度です」

「いや!違うくて!オレが油断してたんだよ!あ、あのさ……下から何かに見られてる気がしてさ、探してたんだ。そしたら、急に翼鯨が……」

インファが責を負おうとするのを聞いて、ペオニサがガバッと顔を上げた。

「浮上してくる翼鯨を見たの?」

「あ、ああ、焦ってる操縦士と目があった。ぶつかるっ!て正直思ったよ。でも、直角に急浮上したように見えたなぁ。あんな動きできるもんかなぁ?」

「そんな動きできるのは、鳥の中でも限られるぜ?あんな馬鹿でかい機械が、そんな繊細な動きできるわけねーよ。インファ、調べられるか?」

「ええ」

「ちょっ!インファ!?」

当たり前のように頷くインファに、ペオニサが思わず腕を掴んで、慌てて放していた。

「立ち止まるわけには、いかないんです。ペオニサ、手伝ってくれませんか?」

「う、うん。そりゃなんだってするけど……。はあ、わかったよ!そんな顔しないでよ。そばにいるからさぁ」

「……ありがとうございます」

力なく笑うインファに、ペオニサは顔を歪めたが結局何も言わなかった。言えなかったのだ。そんな2人を、リティルはフッと笑って見守っていた。


 あの後リティルは、すぐに帰ってしまった。

帰るリティルに、アシュデルは採取していた巨人の角の欠片を、ゾナに渡してと託した。先に分析を頼んでいた水と土は、何の変哲もない海水と砂だった。花の香りのしたあの岩の欠片から、何か出ることを期待するしかない。

「あとは……光貝側のあの穴かなぁ……」

インジュに影響を及ぼしたあの穴。昼間、人目のある中で潜るわけにはいかない。とすると、また夜だが……。

「どこかへ行くの?」

「え?うん……でも夜だし、インジュに付き合ってもらうよ。危険かもしれないけど」

「そう。アッシュ、昼間ならわたしも行っていいかしら?」

「……シェラ、インファ兄のこと、ひきずってるかもしれないけど、のめり込むのはよくないよ?ボク達のしてることは、この島の均衡を崩すことなんだ。慎重にしないと、リティルの手を煩わせることになる」

「あの人は、そんな狭量じゃないわ。むしろ、期待されているわ。今回のこと、あの人は手を出せないから……」

シェラは辛そうに瞳を伏せた。

「リティルは、これまでずっと、光貝の祭りを見届けてきたわ。生け贄となった魂は、この島から解き放たれないから、導かなくてはならない者は誰もいないのに。百年毎同じ時期に、リティルがコッソリここへ来るから、インファが気がついてしまったの。リティルの哀しみを知って、インファは……インファはこれまで1人でこの島のことを調べていたわ。風の仕事でないことに、一家を巻き込めないから。それでも、ゾナもルディルも助けてくれていたの。けれども、ゾナは風の王の許可なくグロウタースに出られないわ。ルディルも、リティルを差し置いて動くわけにはいかないわ」

「ルディルまで巻き込んでたんだ……。父さんは?」

夕暮れの太陽王・ルディル。イシュラースの半分である昼の国・セクルースの支配者だ。彼の暮らす太陽の城に、花の王家族は居候している。幼少期から太陽の城にあまりいなかったアシュデルは、ルディルとは疎遠だが、風の城と懇意なのはよく知っている。

「ジュールには、捨ておけと言われてしまったみたいね」

「ああ、父さんらしい」

アシュデルが冷ややかに呟くと、シェラは首を横に振った。

「アシュデル、違うのよ?ジュールは、どうにもならないこともあると、営みを見守ることも風の義務だと言ってくれただけ。滅びるなら、それはさだめ。このグロウタースは、繁栄と、衰退の異界。だから……」

滅びるモノそして産まれるモノがある。この島も、海中に没するとしても、そこから産まれる何かがある。

「わたしを関わらせろとリティルに助言したのは、ジュールなの」

「――え?」

「インファが、ペオニサに知られてしまったことを悔やんでいたから、リティルが太陽の城に世間話しに行ったのよ」

シェラはウフフと笑った。リティルが見かねて太陽の城を訪ねたとき、気になっていたシェラも共に行ったのだ。


 ペオニサは、執筆に没頭して見えるが、インファの事となると嗅覚がもの凄い。

インファが、巨人の捻れ角島を調べていることを嗅ぎつけた。インファははぐらかして隠していたのだが、グイグイくる彼に根負けして、百年に1度の犠牲の儀式のことを明かしてしまった。

為す術のないインファの様子に、ペオニサが何を考えつくのか、それを推測するのは容易い。口も手も出す気はないのだが、対策はしておかないとなと、リティルは風の城の応接間にある大鏡を抜け、太陽の城を訪れた。風の城の大鏡と、太陽の城の姿見は次元を越えるゲートの力で繋がっているのだった。

 出迎えてくれたのは、城の主である夕暮れの太陽王・ルディルだった。

オレンジ色の伸ばしたい放題伸ばした髪の、ずぼらで荒々しい上半身の逞しい丈夫だ。

ルディルは、初代風の王で、幽閉されていたところをリティルに助け出され、当時の太陽王を討ち、証を奪って転成した。その為、彼の背にはオレンジ色になってはしまったが、風の王の証であるオオタカの翼が今でもあった。

「おう!リティル、シェラ!何か起こりやがったか?」

豪快な笑みを浮かべる、身長190センチの大男は温かく迎えてくれた。

「ああ、ちょっと話聞いてくれよ」

苦笑いを浮かべたリティルは、彼に促され、高い階段の上から出入り口の大きな扉まで飛び降りた。

今は姿見しか置かれていないこの部屋は、かつての玉座の間だ。金糸で太陽の模様が描かれた細長い絨毯が、真っ白な床の上を1直線に扉と姿見までを繋いでいた。太陽を描いた細長く、巨人でも通れるのでは?と思えるほど大きな扉を開き、廊下へ出る。

廊下も風の城の応接間に迫るほどの天井の高さだ。溝のある柱が立ち並び、上部は枝を広げる木々のような梁がアーチを描いていた。どこもかしこも光り輝くような白さで、柱や壁には、這うような植物の絵が描かれている。

 ルディルは風の王夫妻を、サロンへ連れてきた。

「待っていたぞ?リティル。おお、シェラ、今日も麗しいな」

太陽を模したシャンデリアの輝くサロンには、所狭しとテーブルと1人掛け、2人掛けの籐の椅子がランダムに置かれている。

そのひとつ、花の王・ジュールが座っていた。

「お見通しかよ?ジュール」

「まあな。これでも父親なのだ」

待ち構えていたことがわかるルディルとジュールの様子に、リティルは苦笑しか浮かべられなかった。

「巨人の捻れ角のことだろう?」

「ああ。インファが悪かったな」

ジュールは華やかな笑みを浮かべて、首を横に振った。

「つれないことしか言えず、すまなかったな」

「いや、おまえは正しいよ。インファもわかってるんだ。オレの方が酷いことしてるぜ。一見協力してるようで、何もしてやってねーからな。なあ、あの島は、いつからあるんだ?」

「わたしが、風の王を務めていた頃にはすでにあったな。ルディル、おまえはどうだ?」

花の王・ジュールも、元風の王だ。彼の場合、死して代替わりした5代目風の王だ。

ある事案で、彼の心を呼び出したとき事件が起こり、ジュールは存在を賭けて花の王として生まれ変わった。故に、彼の背にあるのはキシタアゲハの羽根で、風の王の証であるオオタカの翼はない。

とはいえ、風の王だった頃の記憶も知識も健在で、賢魔王と呼ばれた歴代1の頭脳は今も衰え知らずだ。娘である智の精霊・リャリスを押さえ、イシュラースの三賢者の筆頭だ。

「それなんだがなぁ、気がついたらありやがったわ」

「脳筋長兄に期待したわたしがバカだったな」

「誰が長兄だ!誰が!あの頃はなぁ、そこら中でボコボコ大陸やら島やら精霊やらグロウタースの民やらが誕生してた時期だ。把握なんざできねぇわ!」

風の王に縁のあるリティル達は、兄弟の杯を交わしている。否定しているが、夕暮れの太陽王・ルディルを長兄、力の精霊・ノインを次男、花の王・ジュールを三男、15代目風の王・リティルを末弟と位置づけていた。ちなみにルディルは、創世の時代から生きている、古参の精霊だ。

「いつから、あの儀式してるんだ?」

「オレが風の王やってた時はなかったぞ?」

ルディルは言った。

「わたしの時代では、すでに行われていた。女性の断末魔は何度感じても慣れるモノではないな」

ジュールは嫌そうに、その甘やかな顔を歪めた。ジュールは風の王時代、稀代の色欲魔として数々浮名を流していた過去がある。今は、一途な初恋を実らせて、妃一筋だが。

「男の断末魔にも同情しやがれ!あの、光貝ってヤツもいなかったな。インファがあれの光が魂の輝きみたいだと言っていやがったが、おまえはどう見てる?」

「ああ、同意見だよ。けど、あれはあれで生き物だぜ?ちゃんと魂があって、死ねば、風が導く。還れねーのは、生け贄の魂だけだ」

「島に、喰われいやがるのか?」

「わからねーんだ。ただ、海に落ちた生け贄から魂が解放されずに、海の底に沈むみたいに、オレでも感じられなくなっちまうんだ」

「ああ、そうだったな。なんというか、心穏やかではいられなくてな、あの儀式のあと大嵐にしてしまったことがある」

あれから1度も見に行っていないと、ジュールは嫌そうだった。

「はあ?おまえが感情的になるなんて珍しいな?ああ、それで関わりたくなかったのか。ごめんな、そうとは知らずにインファの奴」

「謝るな。ろくに話も聞かず追い返してしまった。わたしの方こそ、すまなかった。インファは孤立無援だろうに……」

「まあな……落ち度がねーからな、オレじゃ手が出せねーからな……。けど、気にするなよ?あれはあいつの我が儘だ」

「とはいえな……インファが躍起になるのは、おまえのためだろう?」

「それ言われるとな……で、相談なんだよ」

「おう、いいぞ?なんでも言ってみやがれ」

精霊的年齢32の大男が、キラキラした瞳で見つめてきて、リティルは苦笑した。その隣で、精霊的年齢25には見えない落ち着いた様子で、ジュールが微笑んでいた。

「ペオニサがな、暴走しそうなんだよ。止めるにはどうしたらいい?」

「はん!あのバカが!大方、自分が大地の礎を使い、島に力を与えようとでも言うのだろう?グロウタースの民とはいえ、百年毎に犠牲を強いるあの島では、ペオニサが犠牲となってもせいぜい1万年だ。そんな微々たる人数しか救えず、あのバカは百年もインファから離れるつもりか!やるのなら、根本からやらねばならん。インファの苦悩をわからんのか!」

「お!」と声を荒げた魔王に、ルディルが巨体を揺らした。

「だよなー。花の精霊がやっても、1万年だよなー。で、百年も寝ちまうのか?インファ、確実に病むな。ペオニサな……インファが絡むと1直線だからな」

「花だな」

ルディルが腕を組んで、大きく頷いた。

「紛れもなく花だ。男だがな!まあ、それは花の宿命だ。許せよ」

「ああ、感謝してるぜ?あいつのおかげで、ずいぶん仕事がしやすくなったからな。あいつ、ホントに男か?ホントは女なんじゃねーのか?」

「ああん?なんだリティル、そんなのひん剥いてやればすぐわかるんじゃねぇ?だが、どうしやがった?そんなインファと危うい関係なのか?」

「治癒の力が強すぎるんだよ!治癒の力ってヤツは、生命を作り出せる女性のほうが得意だろ?あいつの治癒能力な、歴代1のシェラと同格なんだぜ?おかしくないか?」

花の姫・シェラは、致命傷すら一瞬で癒やし、魂についた傷さえも癒やす、常識を越えた治癒の力を持っている。それに追従しているのが、牡丹の精霊・ペオニサだ。

確かに、秀才だが、それにしてもインファに遠慮しなくなってからというもの、メキメキと治癒の力を上げている。そのうち、毒や麻痺などの状態異常も治してしまうのでは?と一家に期待されている。

「生物学上、男性のはずだがな……インファが好きすぎて性転換してしまったか?」

「そんなことありか?このオレより華奢だが、あの体格で襲いかかりやがったら、インファ、ひとたまりもないぞ?」

「それはねーから安心しろ」

「すげぇ自信だな、リティル」

「あいつはインファの嫌がることはしねーからな。それと、幸せも壊さねーよ。肉体関係になったら、確実に夫婦関係が壊れちまうだろ?」

「ああ、なるほどなぁ。セリアのヤツもペオニサがペオニサがって楽しそうだしなぁ。オレからすりゃぁ、変な夫婦だ」

男3人の会話を聞いていたシェラが、ウフフと楽しそうに笑った。

「ペオニサの治癒能力は、固有魔法よ?ちゃんと男の子だから、安心して」

「そうなのかよ?」

「ええ、百華の癒やしね。あの子が笑顔を絶やさなければ、わたしと同じ、致命傷も魂についた傷も癒やせるようになるわね」

「すげーな、ペオニサマジック」

「風を得た花は最強なのよ?」

「ハハ、そうだな」

リティルとシェラは顔を合わせて笑った。そんな仲睦まじい風の王夫妻に、ジュールとルディルは優しげに微笑んだ。

「リティル、あのバカにバカな真似をさせん対策だが、アシュデルを使え」

「アシュデル?いや、それは……」

アシュデルと聞いて、リティルは難色を示した。そんなリティルの態度を見越していたのか、ジュールはリティルの隣のシェラに視線を合わせた。

「シェラ、アシュデルを助けてやってくれんか?」

「わたしが役に立つかしら?リャリスの方がいいのではなくて?」

「考えることは、アシュデルに任せておけばいい。君はリティルと一心同体ゲートで繋がっている。あの島に関わる3人の危機を、いち早くリティルに知らせられるだろう?それに、愚息達に一目置かれているからな」

「オレが行ったところで、どうにもならないかもしれないぜ?」

「いや、おまえは何とかする。ペオニサもアシュデルも、おまえの言葉ならば聞く。インファもだ。そうだろう?」

「まあな。これでも王だからな。はあ、騒ぐぜ?これは……」

リティルはドサッと、椅子の背もたれに背を深くもたれかけさせた。

「アシュデルもやんちゃなのか?」

「いや。すげー安定感だぜ?さすが大魔導、さすが中年だぜ?そうじゃねーんだ。やっぱり花だよな。アシュデルのことを、インジュとラスが気にしてるんだよ。あいつを使うとなると、四天王が大騒ぎだ」

「恋心を拗らせている、不甲斐ない花だがな。受け入れられているようで、何よりだ」

「うん?奴さん想い人がいるのか?」

「何を言っている?イリヨナだ」

「あー……魔性の童顔、翳りの女帝か。ん?両思いじゃねぇの?」

「魔性ってなんだよ?イリヨナは正統派に可愛いだろ?両思い……っぽいけどな……」

「なんだ?違うのか?」

「いや、それは当人の問題だからな。なるようになるだろ?お互いに大人なんだからな」

「上手くいきやがったら、イリヨナをからかってやろう」

「ハハ、すげー怒りそうだな」

 そんな会話を交わし、シェラを送り込むタイミングを図っていたリティルは、ついに実行したのだ。

アシュデルは、ジュールが助言したことが信じられない様子だが、シェラはジュールは優しいと知っている。しかし、おそらくアシュデルはジュールを許さないだろう。実の息子に実験を施して、ペオニサを歪ませた父を、ペオニサを慕っているだけに許せない。

アシュデルが一家に入ったのは、歪みに苦しむペオニサを助ける為だったのだから。歪みを受け入れ、インファの幸せを守るペオニサはもう心配いらないが、それでも、許せるものではないのだ。

「ミモザ!シェラとちょっと出てくるよ」

「はい!ごゆっくり!」

工房にいたミモザに声をかけると、彼はすぐさま飛んできて店番を代わってくれた。


 アシュデルは、日が落ちてから来てくれたインジュと店にいた。

閉店後と約束したはずだったが、インジュは閉店前から来たのだった。

インジュはニコニコと楽しそうに笑っていた。店にはまだ客がいて、カウンターの脇に立って、カウンターの中の椅子に座っているアシュデルに話しかけている彼を、チラチラと観察する視線がある。

「目立つ」

「あはは、そりゃ、ボクですからねぇ」

「それ、慣れるまでにどれくらいかかったの?」

わざと目立っているような彼に、アシュデルは頬杖をつくとジッと見上げた。

「そうですねぇ……どれくらいでしょうかねぇ。案外慣れるものですよぉ?それより、アッシュも隅に置けないですねぇ」

「なに?」

「昼間、シェラと下層に行ったんでしょう?女性に睨まれたって言ってましたよぉ?」

「女性?………………」

はて?身に覚えがない。

「眼中になさそうですねぇ」

「あり得ないから。インジュ、少し離れてて。みんなレジに来られないみたいだから」

「あはは、お邪魔しました」

インジュは笑うと、そそくさと店内を物色しに行った。すると、気まずげに客が近づいてきた。

 会計を数回こなすと、店内にはインジュ以外誰もいなくなった。

「君は芸能人か?って聞かれたよ」

「へえ?そんなふうに見えますぅ?」

「別のところで歌手してるって言っておいた」

「……嘘ですよねぇ?」

「嘘。別のところに住んでる友人だって言っておいた」

「当たり障りないですねぇ」

「当たり障りないよ?あ、そう言えば、昼間付き合いのある問屋の娘さんに会って、シェラのこと根掘り葉掘り聞かれたなぁ」

「なんて答えたんです?」

「友人の奥さんだって言っておいた。ボク、あんな大きな娘がいるように見える?」

「……………………ちょっと若いですかねぇ。二十歳近い娘がいるお父さんってすると」

そうだろう。昼間会ったフィーインは、シェラを見るなり、絶望したような顔をして「娘さん、ですか?」と聞いてきた。シェラと思わず顔を見合わせて、違うと否定してから、えっと、なんて言えば?と困っていると、シェラが言ったのだ。

「アッシュは、夫の友人なの」と眩しく微笑んだ。親戚の娘とかいろいろあっただろうに、なぜに既婚者?とは思ったのだが、フィーインがあからさまに安堵していて、見上げてきたシェラはいい仕事をしたような顔をしていた。

なぜなんだろうか?未だにわからない。

さすがに昼間は、シェラを連れて漁場へは行けず、工房街をフラフラしただけだったが、シェラは大いに興味深げで楽しそうで、行ってよかったなと思わず和んでしまった。あれ?これってただデートしただけでは?と思って、アシュデルは時間を無駄にした?でも、シェラをもてなせたし……と変な葛藤をしてしまった。

「でもアッシュくらいの年だと、結婚してる人多いですよねぇ。聞かれません?」

「たまに。縁談持ってくる人もいる」

「そういうとき、どうする――」

「んです?」と聞こうとしたとき、カタンと音がした。インジュが振り返ると、店の中にいつの間にか女性がいた。

インジュがいつの間に?と思っていると、彼女は後ずさりした。ガタンと背後で音がして振り返るとアシュデルが立ち上がっていた。

「待って!ツアナさん!」

アシュデルの大声に、インジュが「え?」と戸惑っていると、普段は動作の緩慢な彼がカウンターから走り出てきた。ツアナはというと、すでに扉に向かって走っていた。足の速い女の子ですねぇ。ツアナはアシュデルに逃走を阻止される前に、店の外へ飛び出していた。

「――っていうか、アシュデル君そういう?」

可愛い子だったですねぇ。そう思って、ふとインジュは誰かに似てる?と首を傾げ、ああ前に悩んでた()かと思い出した。

「ってことは、イリヨナ失恋決定です?」

それはそれで、イリヨナが可哀想と思ったが、彼女はあれからアシュデルになんの行動も起こしていない。それでは、いつかこうなっても文句は言えないかと少し複雑だった。


 店を飛び出して行ったツアナを追ったアシュデルだったが、追いついて何を言えばいいのかわからなくて、足が止まりそうになった。だが、ここで彼女を逃せば今度はいつ会えるか、もう来ないかもしれないと思うと、捕まえないわけにはいかなかった。

それにしても、足が速い!こんなところまで、イリヨナに似てるのかー!とアシュデルは憎らしくなった。イリヨナは運動神経がよくて、アシュデルは鈍臭くて、1度もかけっこで勝ったことがないのだ。彼女は確か、闇や影に紛れるように消えてしまうとミモザが言っていた。路地に入って、煙に巻くのが上手いのだろう。

「はは……そんなところも、君みたいだ」

会いたいのは、いったい誰だ?わからないまま、彼女を捕まえて、ボク達3人は不幸になるんじゃないか。そうも過ったが、足は止まらなかった。

「ツアナさん!待って!」

アシュデルは叫んでいた。息が切れる。もう、これ以上は走れなかった。

声が聞こえたのだろう。驚いたように、ツアナが振り向いた。振り返った拍子に、フワリと2つに縛った髪が浮かんだ。振り返る姿まで、イリヨナに似ていた。

「ど……して、逃げ――」

幼少期より体力はあるはずだったが、こんな全力疾走は想定外だ。

「お、追いかけて……?」

「はい」

息が整わない。軽くしか息が切れていない彼女が恨めしい。ツアナは、純粋に追いかけてこられたことに驚いている様子だ。ここまで追いかけてしまったアシュデル自身も、実は驚いている。イリヨナのこと以外で、こんな熱い真似ができることに驚いていたのだ。

「どうして?」

「逃げる、から」

アシュデルがはあーと1度息を深く吐いて、一歩距離を詰めると、彼女は少し身を退いたが、ギュッと右手で左腕を掴んで留まってくれた。

「あなたは……誰なんですか?」

「え?」

「宝城十華の関係者?だとしても、なぜ、ボクに近づいたんですか?」

「わ、わたし……」

十華とは関係ないと、言ってほしかった。ただ、純粋にあの時計の――フェアリアのファンなのだと言ってほしかった。しかし、彼女は答えてくれなかった。言うことを躊躇って、何も口には出してくれなかった。

「この島を、離れて」

俯いて視線を彷徨わせていたツアナが、顔を上げた。

「もうすぐ、百年に1度の祭りがある。あなたが、この島の出身だとしたら、危険かもしれない」

彼女が、光貝の巫女に選ばれたらと思うと、体の芯が冷えていく。誰かになすりつけて、どこかへ攫って行きたいと思ってしまう。

まだ、彼女を好きかどうかもわからないのに。

心のありかを、確かめる術がわからない。アシュデルは足を彼女に向かって進めていた。

「何者でも構わない。あなたが無事なら、それでいいから……」

手を伸ばしたら、届いてしまうのだろうか。

幼少期、手を伸ばしたいと思っていたら、イリヨナを、失わずにすんだのだろうか。

どうして、伊達眼鏡?見上げる黒い瞳に、イリヨナの面影を見る。

「好きだった人に、あなたは似てる」

「……フェアリア?」

ツアナは呟いた。アシュデルは頷いた。

「20近く、彼女とは年が違うんだ。ボクが、想うわけにはいかない人だ。ごめん……あなたは彼女に似ていて、重ねてしまった。最低だよ。だからもう、あなたには会いたくない」

「アシュデル――」

「君がこの島出身の魔導士なら、すぐに島を出て。狡くてもなんでも、君を守りたい」

それだけだから……。アシュデルは彼女の答えを聞かずに、背を向けた。

 胸が痛い。まるで、2度も君を手放したみたいだ。アシュデルは駆け出していた。早く、ツアナから離れたかった。視界がぼやけたが、アシュデルは店まで走りきった。扉を開き、鍵をかけると、アシュデルはズルズルとその場に座り込んでいた。

「大丈夫です?」

インジュがそっと背中をさすってくれたが、上がった息は戻らなかった。

「……イリ――ヨナ・・・」

呟く名がこれでは、ツアナに申し訳ない。しかし、しかたないのだ。

ツアナを想うとき、イリヨナが重なる。どちらを想い続けるのか?と問われれば、イリヨナを選ぶ。アシュデルは精霊なのだ。グロウタースの民であるツアナを、選ぶわけにはいかない。心を得たとしても、その先はない。彼女が大事だから、選ぶことはできない。

「期間限定でも、いいんですよぉ?」

「でも、ボクは――」

「はい。グロウタースの民が夢見る幸せはあげられませんねぇ。でも、それを理解してくれる人、もしくは、手放す覚悟があれば、いいんじゃないんです?」

アシュデルはインジュを見ないままに、首を横に振った。できないのだそんなこと。アシュデルは、花を咲かせて実を結ぶ、花の精霊なのだから。グロウタースの民のツアナが身ごもれない関係にはなれない。それだけが幸せではなくとも、花の精霊の理がそれは不幸なのだと決めつける。命を繋ぎ生きていく、グロウタースの民には血をつなげていってほしいのだ。精霊同士なら花の理には縛られないでいられる。イリヨナとなら、子供のことは考えなくても済むのだ。

「ボクは、リャリスの前に愛した人が2人います。2人とも、グロウタースの民でしたねぇ。2人とも、ボクの正体を知って、それでもボクを選んでくれました。もちろん子供はいませんよぉ?ボク、受精させる力の化身なんで、1発で孕ませちゃいますからねぇ。アシュデル君くらいの魔導士なら、避妊できません?そしたら、命の終わりまでは一緒にいてあげられますよぉ?」

「ボクには……無理だ……。求められたら、返してしまう……。欲望は際限がない。初めは、それでよくても、いつかきっと、ボクは過ちを犯す。それに、わかったんだ」

アシュデルは涙を拭った。

「ボクは……イリヨナが好きだ。好きなんだ……」

言葉にしたら、また、涙が溢れてきてしまった。インジュは「そうですか」と静かに呟くように言うと、それっきり喋らずに背中を撫で続けてくれた。


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