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一章 港町の時計屋

 朝日が、白い泡立つような波を金色に輝かせながら、家々の窓を照らした。

ウッドデッキの広い道に立つ、猫背だが背の高い男は、打ち寄せるようなたゆたうような、雲海を、眩しそうに目を眇めながらモノクルの奥から見つめていた。

 ここは、生きとし生けるものの異界・グロウタースにある、巨人の捻れ角島、天空の止まり木と呼ばれている港町だ。

ここは、グロウタースでも珍しい、空飛ぶ船の運航、製造を行っている土地だった。グロウタースは海に支配されている世界で、島や大陸間の交流は海を渡る技術を持つ場所に限られる。その中で空を飛ぶ技術を持つ巨人の捻れ角島は、他の土地と広く交流がある。

港町・天空の止まり木は、そんな他国との玄関口だ。

この島は、雲を貫く柱のような形をしていて、所々に張り出した地面の上に街が築かれている。天空の止まり木は、その頂上にあり、坂と階段の多い、街で1番低いウッドデッキから見ると、家々に家々が乗っかっているような錯覚を覚えるほどの急勾配だ。

 雲海を突き抜け、銀色の鯨が男の目から朝日を遮って現れた。

通称・翼鯨と呼ばれる、飛行船だ。夜中航海してきたのだろう。

鳥の翼のような羽根が流線型のその胴体から生えていた。 

振り返ると、ウッドデッキの道沿いに並んだカフェや軽食を出す店々が、開店準備に追われていた。1番船の乗客は食事を取る者が多い。乗船場に近いこの場所は、こんな早い時間からかき入れ時なのだ。

 短い、朝の静寂が終わる。男は、ゆっくりとウッドデッキの道を歩き始めた。

彼の、襟足で束ねた長い深緑色の髪を、翼鯨の起こした風が撫でていく。男の着る、袖が袋状に垂れ下がるこの島では珍しい、魔導士が好んで着るローブの長い裾も、風が遊ぶ。

店々に、開店を告げるプレートがかかる頃、男の姿はウッドデッキから消えていた。


 アシュデルが朝の散歩から店に戻ると、鍵がかかっていたはずなのに、開店前の店の中に誰かが立っていた。

壁掛けから懐中時計まで、様々な時計に埋もれているような店内で、ガラス細工の少女の人形が立っている宝石箱を手に取っていた彼は、扉の開く音で顔を上げた。この箱も、れっきとした時計だ。ガラスの少女が丸い文字盤を抱えている。

「アシュデル、邪魔しているぞ」

明るい緑色の波打つ髪の、やけに優しい顔をした美しい男性だ。40代前半の見た目のアシュデルより、15は若く見える。女性を惹きつけて止まないだろうなと思える、甘い笑みを浮かべていた。

「何か用?父さん」

フフと不敵に微笑むこの若い男性の正体は、精霊だ。花の王・ジュール。見た目は逆転していても、ミモザの精霊・アシュデルのれっきとした父親だ。

「相変わらず連れない奴め。ペオニサのほうがよかったか?」

猫背のひょろ長い巨体を揺らし、アシュデルは父王には目もくれず、目つきの悪いモノクルの奥の瞳をいっそう険しくして、レジの置かれたカウンターの向こうへサッサと移動した。

「兄さんで事足りるなら、その方がいい」

素っ気ない対応だが、ジュールは気分を一切害した様子はない。むしろ楽しそうでもあった。

「ペオニサでは優しすぎるからな。わたししか言えんのだ」

カウンターの後ろは、時計を作る小さな作業場になっていた。

アシュデルは、グロウタースに暮らすことを許された数少ない精霊で、異界に暮らししてるが、れっきとした風の王・リティル率いる風一家の一員だ。父親とはいえ、庇護下からも、管理からも外れている。アシュデルに命令をできるのは、風の王・リティルと副官、雷帝・インファのみだ。

「アシュデル、3代目翳りの女帝・イリヨナに会え。恋心を拗らせていいことは何一つない」

幼なじみの精霊の名を出され、アシュデルは怪訝そうに顔を上げた。

「もう、彼女に心はないよ。会わなければならない必要性を感じない」

彼女に会う気は、毛頭ない。

イリヨナが知ってるミモザの精霊・アシュデルは、もういないのだから。

「では、問題ないな。イリヨナに会え」

「話を聞いていた?」

「ああ、聞いていたとも。翳りの女帝をそろそろ解放してやれ。おまえに会いたいそうだ」

イリヨナが……ボクに……?戸惑いを見透かされ、ジュールは満足そうに笑った。その微笑みに苛立つ。

「おまえも、決着をつけろ」

ではな。と言い、父王は鍵を店の出入り口の鍵穴に差し込むと回した。扉の鍵は開いていた。とすれば、鍵を回せば閉まるはずだったが、彼は扉を開き、中へ消えていった。

アシュデルの鍵は、イシュラースにある風の城の応接間と、アシュデルの工房を繋ぐ魔法の鍵なのだった。

ジュールは今頃、風の城だ。

 ハアと、アシュデルはため息を付いた。

兄――ペオニサは、おそらくジュールがここを訪ねたことを知らないだろう。父王は、アシュデルが拒否しないように、先手を打ってきたのだ。ペオニサでは「会うか?」とアシュデルの意思次第のような話し方をするだろうからだ。

「恋心を……拗らせて……ボクは、いつまで経っても花の精霊の名折れだ……」

好きだ。イリヨナが……。だから、会えない。

まさか、こんな姿で定着するとは思わなかった。

ずっと、12年もちっとも背の伸びない幼い少年の姿だった。イリヨナも、小さな女の子の姿だった。今の彼女がどんな姿なのか、アシュデルは知らない。故意に避けてきた。だが、中年女性の姿だとは思えない。背も、こんなに高いとは思えない。

こんなこんな……なぜ、精霊的年齢42才の、身長190センチの、気難しげな目つきの悪い男になってしまったのだろうか。

幼少期も、目つきの悪い子供だったが、この姿は、小さなアシュデルしかしらないイリヨナには、恐ろしげに映るのではないだろうか。きっと、可憐な少女の姿で定着しているだろう彼女に、幼なじみのアシュデルだと名乗る勇気は、何年経っても持てるものではなかった。

こんな、欲望を伴う、好きだという気持ちに、気がつきたくはなかった。

子供のままいられたなら、アシュデルの好きは、友愛だったのに!

これは、花の精霊だから?欲望を伴う恋愛感情を司る精霊の性?

「知りたくなかった……イリヨナ……」

父は正しいのだ。恋愛感情は恐ろしい力だ。拗らせれば、どんな魔物を産み出すかしれない。産み出された魔物と戦うのは、風の城だ。終わらせなければ、アシュデルから伝播して、この街の誰かを魔物に変えてしまうかもしれない。いろんな危険を、アシュデルは今内包している。アシュデルが、花の精霊であるがために。そして、アシュデルはまだ死ぬわけにはいかないのだから。

 アシュデルは、ここ以外にも、数々の島や大陸に工房を持っていて、鍵1本で行き来している。ここでは時計屋だが、別の場所では調香師をしている。また別の場所では、女性物の首飾りや指輪などの装飾品を作っている。それらすべてが、恋に効くおまじないのアイテムとして定評があった。

「おはようございます。師匠!」

奥の工房から、元気に扉をひらいたのは、小柄な青年だった。緑色の色素の薄い髪の明るい表情の彼は、アシュデルが造った特殊中級という人造精霊だ。どう見ても人間にしか見えない彼が、アシュデルの代わりに店番から雑用に至るまでをやってくれているのだった。

表向きは、弟子として街の皆には紹介していた。各地の工房にも、彼と同じ特殊中級精霊が弟子としていて、管理していてくれる。アシュデルはたまに足を運べばいい状態なのだった。

「ミモザ、ボクは奥にいるから、いつものように」

「はい!任せてください」

ハキハキと気持ちのいいミモザは、ほうきとちりとりを持って店の外へ走り出ていった。彼のような性格だったなら、中年男性となってしまっても彼女に逢えたのだろうか。アシュデルはそんな不毛なことを思ってしまった。


 アシュデルは、店の奥にある工房で時計作りに没頭していた。

一度、食事と、材料の貝殻を持ってミモザが部屋に入ってきたが、それ以外は何事もなかった。精霊に食事は必要ないのだが、グロウタースの民に身をやつしている以上、不審がられる要素はなくしたほうがいいのだ。精霊にも味覚はあり、ミモザはなかなかに料理もうまい。

「師匠ー!十華(じっか)とインファが来ましたよ?」

ヒョコッと扉から顔を覗かせたミモザが、苦笑いしていた。

それもそのはずだ。

インファは言わずと知れた、十華――ペオニサもなかなかに美形だ。2人が表から来ると、店の中は騒然となる。なおかつペオニサはグロウタースで、官能小説家・宝城十華(ほうじょうじっか)としても活躍しており、派手な女物の着物を着崩して羽織り、両耳の上に牡丹の花を咲かせている彼は、この街の名物男でもあった。 

 今行くと言って、アシュデルは腰を上げ、店へ向かった。

窓から差し込む日の光の中、微笑を浮かべるインファと、明るい表情で何か話すペオニサの姿は、ただ立って話しているだけなのに、なぜか同性の恋人のように見えてしまうから不思議だ。

「ああ、アッシュ!」

明るい笑顔で、ペオニサがグロウタースでのアシュデルの名を呼んだ。

「ああじゃないよ。裏からおいでよ、裏から」

アシュデルが苦笑いを浮かべると、インファは少しすまなそうな顔をした。どうやら、表から行こうと言い出したのはこの兄――ペオニサだったようだ。それにしても、ペオニサではないが、インファはいつ見ても綺麗だなと思う。金糸のような金色の長い髪を、肩甲骨の辺りから三つ編みに結っているが、そんな髪型も似合う、美貌の持ち主だ。金色の切れ長な瞳は、柔らかく解れていて、微笑むその様は同性でも見惚れてしまう。

「すみません、この人目立ちたがり屋なんです」

「いいじゃない。せっかくインファと来たのに、コソコソしたくないしさ」

ということは、街を歩いてきたのか?とアシュデルは思わず店の外を窺ってしまった。

「気配は消してきましたよ?」

「……売り上げ貢献ありがとう……」

おかしいと思った。この時間に客が1人もいないのは、不自然だ。修理の依頼だったり、観光客が1人2人はいる。

これは、暗黙の了解で、宝城十華が恋人と知り合いの時計屋に入ったので、事情を知る地元民が人払いしたのだ。この2人が街を練り歩くと、街全体の店の売り上げがあがるのだ。そんな恩恵もあって、この街の商売人から、大事にされている2人なのだった。

「ミモザ、外の人に、2人は裏から出たって言ってきて」

「はい!」

アシュデルは人騒がせな2人を工房へ押し込めながら、ミモザに指示を出した。ミモザは切れのいい返事をして店の入り口へ走っていった。

 工房には、普段人を入れない。

ここへ入れるのは、風の城の精霊だけだ。父親のジュールも絶対に入れない。

コーヒーをマグカップに用意していると「3つは持てないでしょう?」とインファが2つ持ってくれた。

そして、すでにペオニサが座っている机まで来ると「十華」と言って、彼の前にマグカップを置いた。すかさず「ありがと」と笑顔で返すペオニサは、なぜ、インファと恋人関係を疑われるのかわからないと言っていたが、本気だろうか。

インファ兄もインファ兄だと思うが、数々恋愛を書いているというのに、本気でわからないのだろうか。確か、同性愛も得意としていたと記憶しているが……。呆れて見ていると、気がついたインファがフフと笑った。

……この人、わざとか。風の精霊は、事象の解決のためにグロウタースに潜入する事が多々ある。その時には、現地の民に身をやつすことになるが、職業から経歴まですべてを演じることになる。世界の手助けもあり、すんなり溶け込めるのだが、辻褄の合わないことはできない。潜入をよくするインファとリティル、そして補佐官の煌帝・インジュはかなりの役者だ。そこに最近ペオニサも加わったというのだから、気が気ではない。

兄は、戦わない精霊なのだから。

「十華は素ですよ?」

「知ってる。インファ兄、苦労するね」

「アッシュ、オレを兄と呼ぶ必要はありませんよ?」

「そうだね。でも、都合がいいんだ。兄弟子とでもしておけばいい。そうだな……歌かピアノの」

「ピアノがない場所は……ありませんね。では、ピアノの兄弟子ということにしておきましょう」

歌と言わなかったのはおそらく、歌ってと言われるリスクを減らすためだろう。歌は風の精霊の十八番だ。というより、歌が上手く歌える精霊は、風の精霊と風と強い縁のある精霊以外いないのだ。アシュデルは風一家だが、この通り風の城には住んでいず、風の精霊と魂で繋がるほどの絆もない。歌ったことはないが、壊滅的だとみて不思議はなかった。

「練習しに行くよ。教えて」

「いいですよ。腕が鳴りますね」

ニッコリと微笑んで快諾してくれるインファは、幼少期を世話になったアシュデルにとって、血の繋がりはなくとも本物の兄だ。

「贅沢だねぇ。この人、元プロよ?」

インファとインジュ親子は、風の仕事でグロウタースのある大陸に潜入した際、プロの歌手をしていた時期があったのだ。

「十華だって、歌習ったんだろう?」

「オレのは仕事の一環。はあ、手取り足取りで役得だった……」

この言動だから……と脱力していると、インファは和んだように笑っていた。

「これで癒やされるインファ兄も、インファ兄ってことだね」

「風の精霊はどこか歪んでいますからね」

「ええ?オレ、愛されてるんじゃないの?」

ようもようも、これだけ軽口がポンポン叩けると思う。しかし、インファの方が一枚上手だった。

「愛していますよ?疑うんですか?十華」

インファ兄ってこんな甘い顔できるんだ。と、アシュデルが花の精霊みたいだなと好奇心で観察していると、途端に挙動不審になったペオニサが、顔を背けて両手で視界も遮った。

「……いや、ごめんなさい……調子乗りました。さすがに息の根止まる」

顔を見ないペオニサの、視界遮る両手の片手首を、インファは掴んだ。ギョッとしてペオニサが視線をインファに戻す。

その視線を受けて、インファが挑戦的に微笑んだ。

凄い。この色気は花の精霊でもなかなか出せないよ。ボクには無理だな。観察対象として、なんて魅力的な人なのか!とアシュデルは更に観察を続けていた。

「息の根が止まったら蘇生してあげますよ?オレが、物理的に。もちろん、いいですよね?」

ゆっくり、強調するようにインファは言ってのけた。ガタンと、ペオニサは反射的に逃げようとしたようだが、片手首をガッチリ掴まれて動けない。

「や!わかった!わかったから、やめて!妄想を頭と心が拒否してっから!ホント、インファはさ、外だと絶好調だよね」

現実を引き合いに、白旗を振ったペオニサの手首を、やっとインファは放した。

「城でまで演じる必要はないでしょう?それとも――」

足を組み直して、インファがペオニサの顔を下から覗き込むような仕草をした。

「常にしてほしいんですか?恋人扱い」

「!!!!?!!」

声にならない悲鳴を上げて、ペオニサが机の上に倒れ伏した。それを見下ろして満足げに、インファは声を上げて笑ったのだった。

「あなたは、本当にオレのことが好きですね」

こんなインファは、妻子持ちだ。

「もお……それ、今言っちゃダメなヤツ……」

長いため息を付いたペオニサは「ホント容赦ない」と呟いた。

 インファの瞳が健全な色を纏い、アシュデルに合わさった。

「アシュデル、イリヨナに会う気はありませんか?」

来た。インファから直球とは思わなかった。が、ペオニサがインファを連れてきたのはこういうわけかと思った。

「それは、命令?」

「いいえ。ただ、そろそろ会ってほしいところではありますね。あなたが一家に入ったことを、父さんは妹に伝えていなかったんですが、ペオニサがうっかり漏らしてしまいまして」

リティル様が伝えていなかった?アシュデルは自ら会いに行くまでと、風の王・リティルが娘に伏せていたことを知った。

「……わかった。会うよ」

「アシュデル、オレのせいだけど、おまえの気持ち優先でいいんだ」

アシュデルは首を横に振った。

「イリヨナは、リティル様の、ボクの主君の娘だ。一家に入った者が挨拶しないのは、礼儀に反する」

「場所はどこにしますか?風の城なら、人払いしますよ?」

「ここで。明日の、閉店間際」

「了解しました。妹に伝えておきます」

「インファ兄」

「はい」

「店の外に、いて」

「わかりました」

その後、何を話したのか覚えていない。

どんな言葉で、この想いを終わらせればいいのか、思い、つかなかった。


 目の前では、ペオニサが突っ伏していた。

「ごめん……言わせちゃって」

「いいえ、上手くいく恋愛が信条のあなたでは、荷が重すぎます」

インファとペオニサは、まだ巨人の捻れ角島にいた。宝城十華がこの島に来ていることは知られている。であるなら、天空の止まり木くらいはそれなりに歩かなければ、皆がガッカリしてしまう。

2人は雲海を望む、ウッドデッキ沿いのカフェにいた。程なくして、店員がコーヒーとケーキを持ってきて、ペオニサは体を起こした。

「やっぱ、振っちゃうつもりだよね……」

ペオニサは、目の前に置かれたオレンジ色と白のシマシマが綺麗なケーキを見つめていた。新作のケーキの試食を頼まれたのだ。インファの前には、青と白のシマシマのケーキが置かれていた。

「オレは、恋愛には疎いですが、そのつもりだと思います。そうでなければ、これまで会わないことは不自然ですからね」

インファが、ケーキをフォークで切り口に運んだ。

「はあ……そうだよね……」

インファに習って、ペオニサもケーキを一口頬張る。瞬間、ペオニサは目を見張り「うまっ!」と呟いた。

「そちらは、柑橘系ですか?イリヨナはアシュデルを好きなんですか?」

「ああ、たぶんオレンジ?そうだと思うよぉ?アシュデルの話題出すとさ、なんか違うんだ」

ペオニサは「食べる?」とフォークを置くと皿をインファの方へ置いた。するとインファも当然の様に、ペオニサの方へ自分の皿を寄越してきた。ペオニサは何も考えずに、インファのケーキをフォークで切るとパクッと食べた。すると周りから、何やら歓声のようなどよめきが起こった。ような気がした。

「こっちはブルーベリーか。オレ的には、もうちょっと甘い方が――え?どしたの?」

ペオニサがケーキを味わいながら視線を上げると、インファが片手で口を覆って俯いていた。どうやら、笑っているようだ。

「これは、乗るべきですよね?」

まだ笑いが収まらないながら、インファは顔を上げた。

「え?な、なに?なんの話?オレ、何かした?」

「フォークですよ」

「は?フォーク?………………!あー…………みんなすげぇ……」

期待してたのか……てか、気がつかなかった……。ペオニサはやられた気分だった。

「ベタですからね。ファンサービスかと思いましたよ」

「なんにも考えてなかった。インファ相手だと、平気で酒の飲み回しとかしちゃうからなぁ。あ、インファはしなくていい……ってどっちもオレ、使っちゃったか」

「いいですよ?嫌ならその前にとめてますから」

「あっはは!そうだね。って、間接キス……」

「今更照れますか?ああ、こちらの方が甘いですね」

口を覆って俯いたペオニサを尻目に、インファはペオニサのケーキを口に運んだ。

「なんつうタイミングで食べるかなぁ!すげぇ、大好物!」

ペオニサは口を押さえたまま、何かを耐えるように眉間にしわを寄せながら、グッと親指を立てた。その顔が、心なしか赤かった。

「お気に召したようで、よかったですね。どちらが好みですか?」

「ん?んーオレンジかな?オレ、甘党だったか……なんか敗北感」

今更ですか?とインファは遠慮なく笑った。

「では、返しますよ」

「はい」とインファはフォークを置いて皿を返してきた。

「インファさん、フォークネタはもういい」

「フフ、そうですか。フフフ」

楽しそうに笑うインファを見ながら、ペオニサは頬杖をつくとどこかホッとした様な顔で微笑んだ。「なんですか?」と問われ、ペオニサは小さく首を横に振った。

「あんたが笑ってると、オレ、幸せなんだよなぁと思ってさ」

「安上がりですね。それだけでいいあなたが、信じられませんよ」

「そうかなぁ。そういう好きも、ありだと思うけど?」

「官能小説家の言葉とは思われませんね。欲望を否定しては、成り立たないんではないんですか?」

ペオニサは何でも書く。男同士も女同士も複数も、それこそ何でも。しかし最後は必ずハッピーエンドになる。

「そだね。でもさ、インファに対してはいいんだよ。オレ、あんたが幸せならそれでいいんだ。あんたからほしいものなんてない。ホントだよ?」

「知っていますよ。オレは、求められる立場ですからね。何も要求してこないあなたが、時々心配になりますよ。あなたが苦しくないのならいいと、オレが願うのはそれだけです」

「あっはは!あんたのそれも愛だよね?安心してよ。オレのこれも愛だから。かわらないよ。オレはそういう存在だからさ」

「あなたが、あなたであることを、オレは喜ぶべきですね」

「あっはは!苦労人!そうそう、素直に喜んで?オレ、あんたにとって最大の安全パイよ?なんたって、あんたのために生きてんだからね」

牡丹の精霊・ペオニサは、雷帝・インファの為に生み出された精霊だ。そうとは知らずに互いに出会い、互いを友と呼んだ。そして今、こうして時を共有している。

奇跡だよ。そう思うのは、こんなとんでもない理を持っているというのに、受け入れ友と呼ばれているペオニサのほうだ。「そばにいてください」と泣いてくれたインファを、ペオニサは置いては行かない。何もないのに、ただの友人なのに、どこへ行っても恋人だと誤解されても、もう、それを引け目に離れたりしない。

インファを泣かせない。それが、ペオニサにできる唯一のことなのだから。

「ねえ、インファ」

ペオニサは、コーヒーを飲むだけで絵になる友人を見ながら、明るく笑った。

「はい」

「オレ今、すげぇ幸せ!」

 満面の笑みでインファの顔を見て笑う彼の姿を見て、ただの友人と見る者はいないな。とはインファも思う。

「今日はサービスがいいですね」

切れ長の瞳に優しげな笑みを浮かべ、インファは呟いた。

ペオニサの笑顔には力がある。

人を幸せにする力だ。その笑うと発動する固有魔法に、インファは『百華の癒やし』と名をつけた。戦い続ける風の城の中核にいるインファは、そんなペオニサを手放せない。彼のくれる笑顔の恩恵を、1番受けているのは、紛れもなくインファなのだから。

そんな、育まない関係があってもいいのではないか。

インファとペオニサは、際どく見えても、お互いの体を求めることは一切ない。考えもつかない。しかし、お互いに相手を想う心を、愛だと感じている。

欲望の伴わない愛……だから、友愛だと認識している。

アシュデルが、イリヨナと会うことさえ拒むのはなぜなのか。

欲望があるのだなと、インファは認識している。そして、変わってしまったその心に戸惑っている。

もう一度出会ってしまったら、終わってしまう。

そう思っている2人が再会して、終わるものなのか?インファには、それも信じることはできなかった。


 夜の帳が降り、時計屋は閉店を迎える。

ミモザに、閉店を告げるプレートを出してもらい、そのまま奥へ下がらせた。

彼女は、来ないのではないか。そんな淡い期待をしていた。いや、来てほしいという期待か。アシュデルはチラリと店内に溢れる時計の中から1つを無作為に選んで時を読む。

あと10分。

彼女が来なければ、入り口の鍵は自動的に閉まる。そして、アシュデルはしばらくここへは来ない。父王のジュールには、絶対に伝えない。リティル、インファ、ペオニサには義務として伝えるが、彼らはアシュデルの気持ちを汲んでくれるだろう。

あと、5分。

アシュデルは、たくさんある窓にカーテンを引いて、店内をグルリと一周した。

あと……2分。

明かりを1つ、また1つと消していく。

キイ……と音がして、小柄な人影が入ってきた。

「……お待ちしていました。イリヨナさん。ですか?」

反射的に、そう声をかけていた。淡くなったランプの光の中、緊張気味に、黒いフワリと巻かれた髪に縁取られた、真っ白な肌の女性が、不安そうにアシュデルを見ていた。

君は……綺麗になったね。

羽根の装飾が美しい金色の華奢な王冠が似合う女王になると、彼女は頑張っていた。そしてその王冠は、彼女の頭に、そこになければおかしいような顔をして、乗っていた。

「アシュデル……ですの?」

扉は閉めたものの、イリヨナは足を一歩も踏み出さなかった。

「さて、ボクはただ、あなたに会えと言われただけですので」

「会いたくはないと、そういうこと……」

「答えられません」

イリヨナは俯いた。店の奥にいるこの中年男性が、アシュデルだとは思いもよらないだろう。

「あなたは、会いたかった?」

問えばイリヨナは、俯いたまま小さく笑った。

「ただ、怖かった……私の知っているアシュデルではなくなっているのだと、知ることが怖かったのですの。成人して、自由に城を出ることを許されたのですの。けれども、アシュデルのいる、太陽の城へは、どうしてもいけなかった」

「なぜ?」

「いつも来てくれたアシュデルが来ないということは、会えない理由があるのだと、思ったからですの。……いえ……ただ、会いたくないと、思われているのでは?と思って、しまって……」

「会った感想はどう?イリヨナ」

口調を普段に戻して問う。彼女は信じるだろうか。この男があの、アシュデルなのだと。

「……その姿が、理由なのですの?」

ある程度予測していた。そんな反応だった。それとも、アシュデルがこんな姿だと知っていたのだろうか。

「姿だけだと思う?」

「見せてくれなければ、なんとも……」

「へえ?」

カタン。わざと音を立てて、イリヨナに顔を上げさせ、アシュデルはゆっくりと入り口から動けない彼女に近づいた。

「君は今、アシュデルに何を思っているの?」

「え?」イリヨナは、何を聞かれているのかわからない様子で、答えに窮していた。そんな彼女に、アシュデルは距離を詰めていった。

「君の想いは、昔のまま?」

「アシュデル……?」

イリヨナが怯えたのがわかった。

「ボクの想いは、変わってしまった。だから、イリヨナ……」

イリヨナがなぜか瞳を見開いた。

「だからイリヨナ、ボクは君に、会うわけにはいかなかったんだ」

「アシュ……デル……」

こちらを凝視する、彼女の黒い瞳が、とても綺麗だと思った。

そらさないで。そらして?受け入れることと、拒絶すること、どちらを望めばいいんだろうか?わからなくなる。アシュデルは触れてしまいそうになる手を、必死に押し止めていた。

こんな瞳で見つめられ続けたら、その赤く粧した唇に、キスしてしまうと思った。

「帰って」

「……え?」

「もう二度と、ボクには会わないで」

身構えたイリヨナを無視して、アシュデルは彼女の後ろの扉を開いていた。腰の退けていたイリヨナは、多々良を踏んで店の外へ出されていた。

「アシュデル!」

「さようなら」

イリヨナは動けなかった。心を閉ざしていく彼の心に飛びついて、こじ開けることができなかった。立ち尽くしたイリヨナの目の前で、扉が、閉ざされた。


 あまりに短い再会で、何も話すことはできず、ただ拒絶された。

放心状態で、インファに闇の城に連れ帰られ、様子がおかしいとルッカサンが風の城に泣きつきでもしたのだろう。なぜか朝からペオニサとサンルームで向き合っていた。

「あー……なんて言っていいのか、ごめんね?」

朝だからと、メイドのナナが気を使ってくれたのだろうか。目の前のお皿タワーには一口サイズのサンドイッチとスコーンが積まれていた。

あの子は、どこまで軽食とお菓子の腕を上げるつもりなのだろうか。精霊には必要のない食べるという行為だが、これはなかなかストレス解消に一役買ってくれる。

「ペオニサのせいでは、ないのですの。私……何も言えなくなってしまって……アシュデルは傷ついたのかもですの」

「傷ついたのは、君だよ?」

はっきりキッパリ言わないでほしい。今、味方をされたら、脆く崩れてしまう。

「……あの、さ……今聞くのは卑怯かもしれないけど、イリヨナちゃん、あいつのこと、好きだった?」

泣き出したイリヨナは、ペオニサに同情的な声色で問われていた。イリヨナは、わからないと首を横に振った。振るしかなかった。だって、記憶の中のアシュデルは、幼い少年だった。だのにあんな、男性になっているなんてさすがに思いも寄らなかった。イリヨナは衝撃を受けていたのだ。それからまだ立ち直っていない。向き合えない。

「………………イリヨナちゃん……」

ペオニサが、言いにくそうに言葉を探すのを、初めて見たかもしれない。彼はいつも楽しくて、仕事で疲れた心を和ませてくれる。明るく華やかに、空気を変えてくれる。

「オレじゃ、ダメかなぁ?」

え?――イリヨナは驚いて涙が止まっていた。視線を上げると、いつになく神妙に、ペオニサがこちらを伺っていた。

「インファ兄様は、いいのですの?」

ブッとペオニサは息を吹き出すと、頭を抱えた。

「あのねぇ!インファは友達!……ごめん……オレじゃ、気持ち悪いだけだね」

「いえ!そんな……ことは……」

ペオニサはいい人だ。でも、そんなふうには考えられない。彼は察して、冗談だったと弁解した。させてしまった。

「いいんだ。忘れてよ。あいつに何言われたかしらないけど、会いたいなら逃がさないから、いつでも言ってよ。その時は、インファも付き合ってもらうから」

「付き合わせては、悪いですの。兄様は副官ですの!」

何でもいい。理由がほしい。変わってしまったあの人に会えないのだという理由が。ペオニサを言いくるめても、何にもならないのに。

「今ね、魔物が少ない時期だって、リティル様が言ってたよ。それよりインファ!あの人、オレがグロウタース行くって言うと、すげぇいい笑顔で付き合いますよ?って!オレ、勘違いしていいかなぁ?そんで、セリアに殴られたい!いや、踏んでも、鞭打ってもいい!」

「正妻に制裁されたい愛人って、なんなのですの……?」

思わず半眼で目の前の人を見てしまった。

「あっはは!イリヨナちゃん、上手いこと言うね」

「風のお城の皆さんは、インファ兄様が手込めにされていることを、知らないのですの?」

「嫌だなぁ。オレ、手込めにしてないよ?オレの方が、手込め――」

「そういう否定はいらないですの!どっちが上か下かなんて、しりたくないですの!」

「わーお、イリヨナちゃんもいける口だねぇ?」

「仲間のように見ないでくださいですの!私、どこに出しても恥ずかしくないレディなのですの!」

「あっはは!」

ああまた、有耶無耶にされてしまう。イリヨナは、ハアと息を吐くと、話は終わったと思っているペオニサを見た。

「友情と恋心の違いは、なんですの?」

「欲望のありなし」

ペオニサは即答で返してきた。

「オレ、インファの事すげぇ好きだけど、感じちゃうとこに触られんのは絶対ヤダ。インファもセリア一筋だし、オレにとってもインファは安全なんだよね」

ペオニサは、嬉しそうに笑っていた。インファと気兼ねない関係でいられることが、心底幸せらしい。

「アシュデルが、想いが変わってしまったと言ったのですの。だから、もう二度と会えないと……。私たちは、確かに、友達だったはずなのですの。とすると、アシュデルは――」

と言ったところで、イリヨナの顔が見る間に真っ赤になった。

「だ、大丈夫?イリヨナちゃん」

「嘘ですの!アシュデルが、私に……?」

欲望を持っている?それはつまり、体に触れたいと、そう思っているということ?想像がつかない。アシュデルとあんなことやこんなことを?イリヨナの脳内は、どっちのアシュデルでするのか揉めてしまっていた。

「あー……イリヨナちゃん、欲望ってさ、何も肉欲だけじゃないよ?心を得たいとかも、欲望だと思うよ?うん」

「ペオニサは、インファ兄様の心もいらないんですの?」

「いらないなぁ。オレ、インファが幸せならそれでいいんだよね。インファはたまに、申し訳なさそうにするけどさ、なんでなのかわかんねぇ。知ってる?」

「ええと、兄様はたしか……ペオニサはくれるけど、ほしいモノがないから返せないと言っていたような?」

「ええ?何言ってんの!?あの人。オレ、愛でられたらそれでいいって言ってんのに!まぁだ、そんなこと言ってんだ?イリヨナちゃん、オレ帰る!」

「はい?」

唐突だ。

「インファに言ってやる。これ以上オレに遠慮したら、アシュデルんとこ行ってやる!って言ってやる」

「ええ?それ、きっとダメですの!」

本気!?いや、そんなことはないと思いながらも、イリヨナはペオニサを止めていた。

「とめないで、イリヨナちゃん!」

「ダメですの!ペオニサ、インファ兄様に監禁されますの!」

「ええ?いやいやいや、そこまでしないでしょ?って、やるかもね……オレ、前科あるし。あ、でも大丈夫、オレ、逃げ足だけは速いからさ!」

「思っていることを、伝えることが、怖くは、ないのですの?」

「怖かったよ?でもさ、そうやって怖がった結果、オレもインファもかなり痛い目見た。もう、あんな想いはさ、嫌なんだ。だから、オレはインファに遠慮しない。オレが伝える手段はさ、言葉しかないからね。言葉責めだよ?最近じゃ、インファも容赦ないから、オレ、負けてばっかだけどね」

「触らないのは、なぜですの?抱きしめあったら、言葉以上に伝わるのではないのですの?」

「そうだなぁ……うーん……インファが嫌がりそうだから?オレが触りたくないからかなぁ?インファは、遠慮してるんだと思ってるよ。だからさぁ、インファはよく触ってくるかなぁ?」

「兄様が、ペオニサに触るんですの!?」

どこに、どうやって……?イリヨナは、色気が凄いと定評のある兄に色気を感じたことはない。いったい、兄様のどこを見てそんなふしだらなことを思うのか?と疑問だったが、ペオニサに触るインファを、彼の書く小説の一幕で想像してしまい、心臓が跳ねた。

「え?うん。この前、二日酔い治した時も、頭にオレの手乗っけて気持ちよさそうにしてたなぁ。オレ、手の平にも癒やしの固有魔法あんのかなぁ?」

ペオニサはマジマジと自分の手の平を見つめていた。

「あ……そういう……」

18禁ではなかったと、イリヨナはホッと胸をなで下ろした。それを見逃してくれるペオニサではない。

「なに?なんだと思ったの?オレとインファ、余っ程危ない関係に見えてるんだねぇ」

そんなことを言いながら、ペオニサはまったく後ろ暗いところのない、明るい笑顔で笑っていた。

 ペオニサは、イリヨナの前では暗い顔を見せない。

しかし、ここへ来るまで、たくさん悩んで傷ついてきたのだろうなと思う。

そうでなければ、風の城の中核を担う精霊達が、彼をここまで手厚く護ったりはしないだろう。世界の刃である彼等は、たった1人に割いている時間などほぼないに等しい。そんな彼等を動かしたペオニサは、それだけのことを、彼等にしてきたのだ。

ペオニサに返せないと寂しそうに笑うインファを見ているだけで、その貢献と献身を感じられる。何もいらないと、明るく笑うペオニサの見せない何かを、インファは知っているのだ。

「羨ましいですの……」

「羨ましいの!?公認になりつつある雷帝・インファの愛人が!?」

「違いますの!その、絆?」

「絆かぁ……あるかなぁ?オレ、好き勝手やってるだけだし。インファはただ、面倒見がいいだけかもよ?」

ペオニサは見せない。彼の光は強すぎて、その中心にある闇を、見通せない。

その様は、インファに似ている。とイリヨナは思う。

闇を完璧に封じ込めて、飄々とすべてを躱していく美しい兄――

「ペオニサ、アシュデルを観察したいのですの。何か、知恵はありませんこと?」

「え?知恵?それ、オレに聞く?」

ペオニサは意表を突かれた顔をして、大いに悩んでくれたのだった。


 巨人の捻れ角島、天空の止まり木街にあるアッシュの時計屋は、巨人の捻れ角島でしか取れない貝殻を使ったモノが人気で、客入りは緩やかだがそこそこ潤っている工房だ。

アシュデルはチラリと顔を上げた。

また、来てる。

その人に気がついたのは、2ヶ月くらい前だった。それも、自分で気がついたのではなく、ミモザが言ったのだ。

「3日おきくらいに、足繁く通ってくるお客さんがいるんですよ。あれ、師匠が目当てじゃないんですか?」

その話を聞いたときは「はあ?」だった。それしか感想は出なかった。あまりに実感がなく「君目当てじゃないの?」とミモザに真面目に返してしまった。

容姿を聞けば、まだ20代に見えるという。後半であるようだが、それにしても、陰気な40代男性が目当てとは考えにくい。20代前半の容姿で作ったミモザの方が、別段美男子でなくても、人受けはいいのだ。ミモザ目当てと言われたほうが、シックリくる。

「違うんです。ボクが店番してると、ちょっと店の中見て、すぐ出てっちゃうんですもん。あれはたぶん、師匠が目当てなんですって!」

工房にあるテーブルで、昼食のスープとパンを一緒に食べながら、ミモザは目をキラキラさせて力説した。

「はあ。あり得ない」

アシュデルは一言で切り捨てた。

「代わってください。店番!ボク、すごく興味あります」

「……君が恋するのは別に構わないよ?」

ミモザは、アシュデルの頭に咲くミモザの花から作った特殊中級精霊だ。弱いながらも花の精霊の特性がある。

「そっちは適当に、いえ、健全にやるんで大丈夫です!」

「あ……いるんだね?恋人。進展したら教えてね。リティル様に頼んで、人間に転成させるから」

「師匠~!ボクを見限る発言しないでください!泣きますよ?」

「誰か選ぶんなら、それは祝福すべきことでしょう?君は育めるよ?そういうふうに造ったし。さて、ボク時計仕上げるから店番よろしく」

アシュデルは取り合わずにさっさと席を立ち、工房の作業台へ向かった。ミモザはテーブルの上を片付け、渋々店の扉に消えたが、彼が諦めていなかったことを、後日知った。

 店番は、ミモザだけがしているのではない。

アシュデルも週に1、2回は店に立つ。そして、見掛けた。彼女を。

黒い波打つ長い髪を、耳の下辺りで2つに束ねた、女性の平均的な身長の20代後半の容姿をした人だった。白い肌と、赤い口紅が、イリヨナを思わせて、アシュデルは落ち着かなかった。1つ違うところをあげるとすれば、眼鏡をかけているところか。

彼女は何をするでもなく時計を物色し、しばらくすると何も買わずに店を出て行く。その日を境に、アシュデルが店番をする日の夜は、必ずと言っていいほど彼女は姿を現した。これは、ミモザがアシュデルの店番する日を漏らしているとみて間違いない。

しかし、何か被害があるわけではない。目的はわからないが、アシュデルはミモザを咎めずに、そのままにしておくことにした。

 それにしても、話しかけてもこない彼女は、本当にミモザのいうようにボクが目当てなのだろうか?解せないなぁと思いながら、温かい午後に空気の中店番していると、扉が開いた。

「アッシュー!元気?」

「ああ、今日もそっちから来たんだね。奥にどうぞ、十華、インファ兄」

規則正しい時計の音を掻き消して、華やかな男が満面の笑みで入ってきた。彼の後ろには、苦笑するインファもいた。

確か今日は、恋愛相談やら恋愛話をする集い『宝城十華と語る会』があったはずだ。ペオニサのあの様子から、満足のいくイベントとなったようだ。インファは、イベント会場には入らないらしい。この街の一階層下にある、宝城十華名義の出版社にいるようだ。

「どうしてついてくるの?」と問うとインファは当然の様に「オレは、宝城十華の恋人ですからね」と返された。徹底してるなと、感心する。

「今日はね、客なんだよ」

「は?」

客?客ということは何か買う?時計を?兄さんが?短い疑問が頭の中を駆け巡った。そんなアシュデルの様子に、ペオニサはニヤリと微笑むと「これ」と指さした。

それは、時計の文字盤を抱えたガラスの少女が上に立っている、宝石箱だった。かなり豪華な造りで、値段もかなり張るために、ある意味店のディスプレイになっていた品だ。

「高いよ?」

「うん。オレ、お金あるから」

「オレが買いますよ?」

「ダーメ!これは、出版社の備品だから!それに、ここでインファに買ってもらっても誰にも知られないでしょ!オレがニコニコして持って出ればそれでいいんだって!」

「ああ、それもそうですね。しかし……大丈夫ですか?」

今店内にはペオニサ達以外、客は誰もいない。誰が代金を支払っても、ペオニサの態度次第で皆邪推する。インファは納得したが、値段を改めて見て顔をしかめた。ペオニサは、小説と『宝城十華と語る会』で得た金で出版社を運営している。こんな散財大丈夫か?と思ってしまったのだ。

「大丈夫。これ買うこと、隊長了承してるから」

隊長とは、宝城十華親衛隊の隊長だ。『宝城十華と語る会』を運営してくれている従業員のことを、親衛隊と呼び、隊長とは宝城十華の秘書のことだ。ペオニサは「お金もらってきた!」と胸を張った。

「宣伝してくれるなら、ちょっと値引きするよ?ずっと売れなくて、埃かぶってるし」

「だろうね。こんな高いの買えないよ。どっかの国の王子くらいしか」

ペオニサは、マジマジと件の時計を見た。そういうペオニサは、花の王子だ。

宝石箱の部分は、アメジスト製でどうやって継いでいるのか、金で縁取りされている。四角い箱形で、1段の引き出しがついていて、引き開けるとキチンと指輪やイヤリングなどの小振りな装飾品が納められるようになっていた。

ガラスの少女の細工も巧妙で、色はないのだが蝶の羽根が生えていることがわかる。風に遊ばれたようなツインテールが揺れる様も、見事に表現されていた。

「そりゃ、この子作るの苦労したからね。わざと吹っ掛けてあるんだよ」

「売ってくれるの?」

「いいよ。兄さんにならね。それにね『フェアリア』はすでにブランドになってるしね」

そう言ってアシュデルは、そばの机を指さした。見れば。ガラスの少女によく似た少女の横顔をあしらった時計がいくつもあった。中でも、少女の横顔に、風になびく髪に絡め取られたような文字盤の金色の置き時計は、可憐で誰かにプレゼントしたくなるできだった。

「案外人気だよ?じゃ、すぐ包むね」

そう言うとアシュデルは、名残惜しそうな素振りなく宝石箱を抱えてカウンターへ向かって行った。

 カウンターに時計を置き、梱包を始める。

女々しいなぁ。とは思う。

『フェアリア』のモデルが誰なのか。きっと、ペオニサもインファも気がついている。

当時の彼女よりも年上に、体つきも幼女ではなく少女に寄せて作ったが、これは、イリヨナだ。第1号として作ったこの宝石箱は、彼女を想って作った。

実は、前にも売ってくれと言ってきた人がいた。売り物じゃないと断ったが、食い下がられ、それは売れないが、別のモノをオーダーメイドすると言って躱した。

それが、ペオニサの手に渡るなら、それでいい。今の彼女に逢えて、もう、満足した。

――さよなら。ボクのフェアリア

アシュデルは箱の蓋を閉めた。

 もう、手放したつもりだった。

だが、まさか、この時計がなくなったことで、止まっていた時が動き出すとは、思いもよらなかった。


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