②
「白銀……?」
そっと、呟くように翠琉が呼ぶ声は、だけど静寂に溶けていった。
瞳は開けど、その視界には何も映りはしない。
いつも傍にあるはずの存在から、何の返事もない事に不安を覚え、辺りを手で探る。
しかし、そんな些細な動作にも、無理を強いた上、操鬼の怨気を浴びた身体は悲鳴を上げる。
「……っ……」
それでも今度は起き上がろうと何度も試みるが、身体は軋むばかりで思うように動かない。
ようやっとのことで身体を起こすが、息が上がってそれも長くは保てない。
揺らいだ身体を誰かが抱きとめ、そっと布団に横たわらせる。
「今は、ゆっくり休め」
聞きなれない声
その持ち主に、気だけを頼りに視線を向ける。
向けたところで見えるはずがないのだが、何故かそうせずにはいられなかった。
「……だ、れ……?」
―― 何故だろう。すごく懐かしい……安心する
―― まさか……っ……でもッ……
そんなことが、あるはずがない。
そう、自分に言い聞かせる。
―― だって、父様は……
もういない。いるわけがない
動揺しているのが判ったのか、翠琉の耳に相手の苦笑が聞こえてくる。
そして、暖かい手が優しく頭を撫でる感触が伝わってきたかと思うと、心地良い呪文が聞こえて来る。
翠琉は必死に抗おうとするが、それも無駄に終わり、夢の中へと誘われてしまった。
少女が……翠琉が眠ったのを見届けてから少年は今一度、翠琉の頭いとおしそうに撫で、その部屋を後にした。
部屋を出ては見たものの、その場から動くことが出来ずに物思いに耽ったまま佇んでいると、後ろから静寂を裂くように遠慮のえの字もない能天気な由貴の声が聞こえてきた。
「ひっきセンっパイ!!」
本人は脅かしたつもりなのだろう。
後ろから少年 ――
緋岐の背をばしっと叩く。
それを煩そうに冷めた目で見ているのだが、見られている本人は全く気付いていない様子で満面笑顔のまま続ける。
「また来てたんだ。まあねえ~、確かに美人だけど。……っていうかさ、世界にはどっぺる玄関が3人いるって本当なんだなあ」
しみじみと、腕組をして納得している大馬鹿に、緋岐は尊大な溜息を付きながら頭を容赦なく殴る。
「いってえぇ!何すんだよ!滅茶苦茶、痛いじゃんか!」
ど突かれた頭をさすりながら、涙目で必死に睨んで反撃する。
「うるさい。どうせ、それ以上馬鹿になるにも成りようがないだろ?それに、何だよ、どっぺる玄関って。それをいうならドッペルゲンガーだろ?」
「……あッ、……まっ、まあまあ!ほら、“ごぼうの筆のあやとり”ってコトワザもあるし!」
ここまできたら、馬鹿にもほどがあるだろう。
冷たい空気が二人の間に通り抜ける。
「あ、あれ?……違ったっけ?」
本気でまだ自分が間違ったことに気付いていない由貴を見て、緋岐は思わず溜息を付いた。
「お前、よくうちの高校通ったよな」
その皮肉をほめ言葉と受け取ったのか、得意そうに言う。
「任せて!俺、運だけはいいから!マークシート適当に塗りつぶしてたら合格出来た!」
ガッツポーズまでおまけに付けて得意げに言う由貴を見て、何かが緋岐の中で切れた。
がしっと音が付きそうなほど勢いよく拳を握った両の手を由貴のこめかみをあてて、ぐりぐりと動かす。
「こんの馬鹿があ!誰のお陰だと思ってるんだ!誰の!受験前の1週間、救いようのない馬鹿タレに根気強く徹夜で勉強教えてやった、俺のお陰だろうが!何が運だ!ふざけんなあぁぁあああ!!」
「いたたたたた!痛いって!」
痛いと叫ぶ由貴など、完全に無視して続ける。
この由貴の頭を本気で押しつぶすように拳を立ててグリグリしている少年の名は、鴻儒 緋岐という。
道場の門下生だ。何か訳があるのだろう、由貴の家の近くにある児童養護施設で育った。
昔からの顔馴染みで、由貴とは仲が良い。
容姿端麗
文武両道
沈着冷静
まさに、欠点なしの理想の男性像を地で行っているような少年である。今は、同じ施設で育った同級の少年と共にアパートで共同生活を送っている。
因みに、由貴が頭の上がらない先輩というのも緋岐のことだ。
他にもまあ、色々と複雑な事情を抱えているのだが、由貴にとって一番不思議なのは、「いつの間に姉ちゃんとあんなに仲良くなったのか」ということだった。
今の緋岐と紗貴 ――……
由貴の姉‥‥は「仲良く」どころの問題ではないほど親密な関係だったりするのだが、それは由貴の知るところではない。
とりあえず、紗貴の手にも負えないほど悲惨な状態の成績を見かねて……というか、余りの出来の悪さに紗貴が緋岐に頼んで、1週間のスパルタ勉強会が始まったのだった。
なので事実、由貴の合格は緋岐なしには有り得なかったといえよう。
だから、地獄だったのは由貴だけではないわけで……
由貴の勉強のために一番被害を被ったのは、誰でもない緋岐なのだ。
「大体なあ、“ごぼうの筆のあやとり”ってなんだよ!それを言うなら“弘法も筆の誤り”だろうがあ!」
「いたたたたたた!ごめん!俺が悪かった!ごめんなさいっ!」
本気で痛がる由貴を見て、ようやく気が済んだのか。
緋岐は由貴を放す。
座り込んだまま頭をさする由貴をちらりと見てから、緋岐はすぐに視線を逸らして続ける。
「しっかり看病しろよ?」
「……?う、うん……」
その言いように、多少の疑問を感じたのだろうか。
小首を傾げながら、由貴は頷いた。
それを確認してから、緋岐はその場を去った。
由貴と離れてから、少し歩いていると自然と溜息が漏れた。
—— と、いきなり襲ってきた殺気にばっと庭を見る。
そこに立っていたのは……
「白銀」
名を呼ぶと、更に鋭く睨まれる。
その鋭い視線に射抜かれたように、緋岐はその場を動けなくなった。
「今更、何の用だ」
「……え……?」
「とぼけるな!私がいない時を見計らい、翠琉の部屋へ出入りしていたことは先刻承知している!」
返す言葉が見付からない。
緋岐はただ黙って言葉を受け止める。
まるで、自分には反論する余地などないとでも言うように。
「お前には、もう関係ないはず。それとも、まだお前の両親の仇と翠琉を怨んでいるのか!?」
「!?……っ……それ、は……」
思わず、反論して顔を上げる。
だが、声が詰まって言葉が出てこない。
『……緋岐……』
愛おしそうに呼んでくる声。
だけど、ソレは化け物だといわれ続けてきた。
恨め
憎め
厭え
お前からすべてを奪ったバケモノだ。
信じて疑わなかった。
“母”だと信じていたから
—— だから……
愛おしそうに
慈しむように
名を呼ぶ視線から
—— だから……
縋るように
求めるように
伸ばされる手を
拒絶していたのに……
―― 思い出すのは、一面の鮮やかな赤
そこに佇むのは
血の臭イの充満しテイる部屋ニ
壊れタ人形のヨうニ
タだ座り込んデいルノは‥‥
「……図星、か。結局、お前もあいつらと変わらぬ!」
――……そう……
“モノノケ”と嘲る奴らと
“バケモノ”と罵る奴らと
「何も知らぬのに、お前に翠琉を責める権利はない!お前が翠琉に近付き更に追い詰めるようならば、私が容赦せん」
「判っている……もう、近付かない。翠琉には、近付かないさ」
白銀から逃げるように、緋岐はその場から立ち去った。
一刻も早く、その場から立ち去りたかった。
「まあ、今の翠琉には、お前の姿は見えぬがな」
だから、独りその場に佇み呟いた白銀の言葉を、緋岐が聞くことはなかった。