⑨
由貴に施された力を封じる為の術式に、図らずも触れた事によって、術者の思念が戒都に流れ込んできたのだ。瓦礫の中を、慎重に……だが急ぐように進んでいく一つの影。雨が、全てを洗い流すように降っていた。
(由隆、キサッ……)
それは、大事な弟の名まえと、修行を共にした親友の愛称で……
『もうすぐ、会えるの』
臨月を迎えた妃咲は、愛おしそうにお腹を撫でる。その隣で、弟もこの上なく幸せそうに微笑んでいて。
『姉さん。お願いがあります……もしも、万が一の事があったその時は……』
由隆の声が、耳に響く。だけど、信じたくなかった。
血の、成せる業とでもいうのだろうか……嫌な予感がした。外れて欲しいと切に願いながら駆けつけた先で待ち受けていたのは、想像をはるかに超えた惨状だった。
不意に、強かに打ち付ける雨音の中から耳に届いた泣き声。消え入りそうな、か細い泣き声は、だがしかし、確かに彼女の元へと届いていた。
雨に濡れるのにも構わず、無我夢中で駆け寄る。そこには……
『キサ……?』
死んでいるとは思えない、安らかな……笑みすら湛えたまま横になっている親友の姿があった。泣き声は、その腕の中からだった。大事に、壊れ物でも扱うように、そっと抱き上げる。
『……ッ……』
赤ん坊の重みを、温もりを感じた時、堪えていたものが溢れ出した。
―― この子だけは、守り通す……
―― “破魔”なんてものに、関わる必要はあらへん
『堪忍してな?由隆、キサちゃん……』
―― この子を苛むだろう、過去に蓋をする事を
―― この子の親に、私がなる事を
「母……さん……?」
それは、桜の過去だった。
「そっか……俺達の事を話さなかったのは……お前が傷付くのが、怖かったからなんだな」
どうやら、戒都と同じものを視たらしい由貴に聞こえないように、呟いた。
「桜が……早貴さんや正宗殿が、お前を大事に育ててくれたんだな」
「ありがとう、戒都さん……俺さ、何か色々吹っ切れた」
そう言って顔を上げた由貴は、気丈にも笑っていた。
―― あんたと過ごした16年間って、血の繋がりくらいで揺るぐような、そんな薄っぺらいものだったの?
そんな、姉の叱咤する声が耳を掠めた気がした。
―― そうだよな。何を、今更この後に及んで迷ってるんだか
割り切れない、弱い自分に思わず苦笑が漏れる。
「俺の名前、何で“由貴”なんだろうって、ずっと不思議だったんだ」
名前で、幼い頃は良くからかわれたものだった。“ユキ”なんて、何で女の子のような名前なんだと、母親に詰め寄ったことも少なくない。
―― けど……
「だけどさ、この名前は……父さん達がくれた名前だったんだな」
『本当の両親の事を話してやれない。話す勇気がない……なら、せめて名前だけでも……』
「俺、そう考えたら、超お得なんじゃね?父さんも、母さんも2人ずつ居るなんてさ。勇気100%じゃん」
ニカッと、破顔一笑してみせた由貴の様子を見て、呆れたような笑みを浮かべて周が口を開いた。
「アイツの、あのポジティブさは一体どこから来るんでしょうねえ?」
「だが、その前向きな姿勢に……皆が救われる、そうだろう?」
―― え……?
周は一瞬、自分の目を疑った。翠琉が、微かに笑んだ様に見えたのだ。だが、もう一度見てみれば、やはりそこには何の感情も見えては来なくて。
瞳は、闇を写したままだった。何と声を掛けるか考えあぐねていた、まさにその時。
「誰だ!?」
誰何の声を上げて、まず振り向いたのは、誰でもない翠琉だった。
そこに立っていたのは……
「姉ちゃん!無事だったんだなッ!」
何の疑いも持たず、由貴が駆け寄る。
「待て、由貴!様子がッ……」
戒都の声は、だが間に合わなかった。鋭い一閃が、由貴を襲う。間一髪のところで飛び退きながら、由貴は自分の目を疑った。
「どうして……何で?……姉ちゃん、だよな?」
紗貴の形をした闇が、ニタリと由貴の言葉を肯定するかの様に、不気味に哂った。
〈第七章・了〉




