泥中の蓮③(回想)
『初めまして……に、なるのう。儂は瑞智 正宗という』
神羅本家のような立派な屋敷ではなかった。だけど、澄んだ空気が気持ちよくて、とても温かな場所で……こんなところもあるのかと、驚いたのを覚えている。
『……緋岐だ』
『本当に、お主の名は“緋岐”なのか?』
責めるのではなく、優しく諭すようにそう尋ねられて、思わず反射で顔を上げた。
『き、気付いたのか?』
だけど、期待した返事とは程遠くて。
『否。……お主のことを、知らせてくれた者がおっての』
逆に、謎が深まるばかりだった。
『俺は、詆歌だ。緋岐は双子の弟……今は、深いところで眠ってる』
ぶっきらぼうに言えば、『そうか』と一言だけ返された。
『お主らは、今日から“鴻儒”を名乗ると良かろう。お主らの父方の姓じゃ。ここで、お主らの父も母も過ごしておったでの……いつでも、話を聞かせてやろう』
だけど、ここに住むことは出来ないんだと言った。
ここに住めば、“破魔の業”に触れることになる。それを厭う者が……俺たちが縛られることを望まない者がいるのだと、優しく諭すように教えてくれた。
まず初めに浮かんだのは、母さんの存在だった。母さんがもしもの場合に備えて、前もって伝えてくれていたんじゃないか……そう思うと、罪悪感に胸が押しつぶされそうだった。
だって、そうだろう?守ろうと必死に手を広げてくれていたのに、俺は……何もできずに……何もできないどころか、亡骸すら消し去ってしまった。
お茶を運んできたのは、和服姿の女の人だった。朗らかな雰囲気が母さんに似ていて、無性に胸が苦しくなった。
『初めまして、瑞智 桜いうんよ。よろしゅうな?……早速なんやけど、急いで決めなあかんことがあるんよ。堪忍な?』
そう、優しく言いながら、判りやすく説明をしてくれた。
今は何らかの要因……おそらくは、翠琉にかけられた呪術の影響……で、俺の“呪力”が隠ぺいされている状態らしい。
だけど、その術が綻んできている。術が解ければ、“呪力”が溢れて“神羅”にその存在がバレるのも時間の問題だと教えてくれた。
そうすれば、また神羅に呼ばれる可能性もあるとも。
『もし、このまま破魔と関わらずに生きていく言うんやったら、その力を完全に隠さなあかん』
迷いはなかった。
捨てられたんじゃない……俺が、捨てたんだ。
「いらないよ。使うこともない……もう、こりごりだ」
そうして、俺の“呪力”は完全に封じられた。
それから、瑞智家の……瑞智道場のある長い石段を降りた先にある“児童養護施設 陽だまりの家”に預けられて、“家族”を知った。
将や楼条院と会って、頼れる友人のいる心強さを知ったた。
紗貴と出会って、本当の強さを……優しさを知った。
緋岐も元気になって、普通に話せるようになった。
そして、見えてきたのは神羅の異常性だった。
真耶は、緋岐と俺に時々会いに来ては翠琉の状態を教えて行った。その頃には、憎悪は罪悪感に変わりつつあって……
それを、決定付けたのは14歳の誕生日を迎えた日のことだった。
何の用があったのかは、覚えていない。瑞智 正宗……正じぃの部屋を訪ねた時、中から声が聞こえた。珍しく、桜さんと深刻そうに話していた。
なんとなく、これは緋岐に聞かせてはならない気がして、そっと蓋を閉じるように俺の中にいる緋岐と外界との繋がりを一時的に断つ。
『……どうやら、翠琉が神羅の次期巫女媛となることが決まったそうじゃの』
まさか、ここで名まえを聴くことになるとは思っていなくて……思わず、耳を襖に当てて耳を澄ませた。
『学校にも、行かせてもろうてへんようです』
『まさに、飼い殺し……か。流石に、こちらから手を出すわけにはいかぬでな……琉歌と緋翠殿には申し訳ないことじゃが……』
心臓の音が、耳元で響いているみたいに煩く鳴る。
『兄達を守るんに、必死なんでしょうねぇ』
『まさか、この様な手紙を7歳の子どもが書くとはのう』
そこまでだった。バンと音を立てて襖を開け放てば、まさか俺がそこにいるとは思っていなかったようで、2人ともしまったと目を見開いたまま固まってしまった。
正じいの手の中にある手紙らしき紙を無理やり取って、目を通して……そして……その場に崩れ落ちた。
拙い……お世辞にも、上手とは言えない筆跡は、恐らく翠琉の……妹のものなのだろう。
みずち とうしゅさま
ととさま、かかさまが しりあいだとききました。
しろがねにそうだんしたら、あにさまがた を おねがいするなら、みずち とうしゅさまがよいと、ききました。
しんらは、わたし が、はまのごうを、“じゃがり”をがんばるかぎり、あにさま に は てをださないと、やくそくしてくれました。
あにさま には、“はまのごう”を、せおわせたくありません。“じゅりょく”がなければ、しんらはきっと、あにさま を、しばらない。
あにさまは、ふたりいます。ひとりは、ひきにいさま。もうひとりが、ていかにいさまです。ていかにいさまは、とてもつよい“じゅりょく”をもっています。でも、きっと、はま と、かかわったら、つらいおもいをしてしまいます。
だから、どうか、あにさまがた を、おねがいします。
しんら すいる
どんな、想いで書いたのだろう。
どんな、気持ちで受け止めたのだろう。
ふと、母さんの言葉を思い出した。
『……お願い……翠琉を……たった一人の妹を、助けてあげて……』
そう、異様だった。異常だったのだ、神羅は。
幼い子どもに、「呪力が強いから」とすべてを押し付けて……整えられた、きれいな場所……あれが、張りぼてだと、心のどこかで気づいていたのに。
「こんな、どうしようもない兄貴でッ……ごめん。翠琉……」
ドロドロに膿んでいる……狂っている……それが、今の神羅の実情だと、身を以って実感した。今、神羅に戻れと言われても絶対に嫌だと言うだろう。
どうして、気づかなかったのか。
どうして、ぶつけることしかしなかったのか。
「ご、めんッ……ごめん、翠琉ッ……」
ぐしゃりと、握りしめた手紙の上に、ぽたり、ぽたりと雫がこぼれる。
泣く資格など、有りはしないのに。
何もわかっておらず、知ろうともせず……ただ、責めてばかりだった自分が情けなくて、歯痒くて。
『お主のことを、知らせてくれた者がおっての』
ここに来た当初、そう正じいは言った。
“破魔の業”に触れることになる。それを厭う者が……俺たちが縛られることを望まない者がいるのだとも言っていた。
母さんが、俺たちのことを案じて、先手を打ってくれていたのかと思っていたのに。俺のことを知らせてくれて、必死に……俺たちよりも小さな身体で懸命に守ろうとしてくれていたのが、まさか憎んでいた妹だっただなんて。
逆恨みもいいところだ。本当なら、あの時、あの場所で言い訳をしても良かったのに、責められるいわれなんて、これっぽっちもなかったのに……それでも、静かに、俺からの理不尽な怒りに、ぶつけられた暴言に耐えていたのかと思うと、どうしようもない想いに囚われた。
―― あの時……
初めて会った時、ギュッと握られた手は、震えていなかっただろうか。
自分が苦しいからと、辛いから代われというのではなく。
半分背負えと押し付けるのでもなく。
関わらなくていいように
負わせないように
“呪力”を隠してくれた翠琉は、きっと誰よりも破魔の業を正しく理解していた。一族の中にあって、その歪さも、醜さも把握していたのだ。
ふと、『泥中の蓮』という言葉が、脳裏をよぎった。
汚れた環境の中でも、それに影響されずに清らかに、美しく咲く……それは、まるで翠琉のようで……
「必ず、助けに行く……今度は、俺が守るからッ……」
今更だと罵られても仕方がない。どうして押し付けたのだと責められて当たり前の状況だ。でも、きっと、それでも……
「翠琉、お前はきっと俺たちを……俺を、責めないんだろうな……」
ぶつけた言葉が、どれほど傷つけたことか。
後悔しても、もう遅い。だからこそ、誓う……今すぐには無理だとしても、必ず、いつか……あの時伸ばされた小さな手を。
突き放してしまった、あの、小さな手を、今度こそ掴むと。
そう、静かに誓った瞬間だった。
〈泥中の蓮・了〉




