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沙羅夢幻想~ さらむげんそう ~  作者: 梨藍
地上編 【閑話休題】
56/108

泥中の蓮①(回想)

8歳の誕生日……


俺は母を騙る女と、母を殺した。


それは、揺るぎない事実だ。


―― それでも……


あの、暗澹とした宮崎での暮らしが終わるのだと。


やっと、誰かに……今まで見向きもしなかった一族に認められるのだという、仄暗い喜びがあったのも確かだった。


だけど、今思う。


どうして、俺はあの時……


あの手を取らなかったのか



―― 緋岐の双子の兄・独白 ―—



母親を騙る女は、今考えると静かに、密やかに狂っていた。俺達に……いや、俺の弟に見せる執着は常軌を逸していた。


物心ついた時には、既に父はいなかった。母だと信じていた女から「父親は、悪い女に誑かされた。だけど、いつか戻って来る」と言い聞かせられていて。


それを疑う余地は全くなかった。


俺たちにとって、屋敷の中が全てだった。宮崎の奥地にある、磐墨(いわすみ)家に預けられた俺たちの情報源は、母だと信じていた女一人。それ以外の人で会うのは一言もしゃべらない使用人だけ……そんな状態で、他の何を信じろって言うんだ。


静かに、密やかに狂っていた女……今考えると、本当に狂っていたんだと思う。


緋岐(ひき)、アナタは私から離れてはだめよ?』

『愛しているわ……』


幼い子どもに囁くには、あまりにもねっとりとした熱を帯びた響き。それは、今も呪いのように耳の奥に残っている。


完全におかしくなったのは、父の訃報と妹の存在を知らされた時。


『奪われた……殺されたッ……どうして、戻って来てくれなかったの?どうして私を見てくれないの?こんなに愛しているのにッ……』


まるで呪詛のように呟く様は、とても恐ろしくて……


それでも、緋岐は言った。


『きっと、父さんが亡くなったことがショックだったんだよ』


―― と……


俺は、だけど……母を騙る女を包むようにとぐろを巻く黒い靄が見えて、すごく気持ち悪くて……段々と嫌悪するようになった。


『緋岐、母さんはおかしい……あれは、普通じゃない』


『仕方ないよ……父さんが、他の女に騙されて……妹がいるってことは、父さんには俺たち以外の家族がいたってことだろう?母さんだって辛いんだよ』


緋岐が言うなら、そうかもしれない……だなんて、あの時思わなければ……もっと強く反抗していれば、何か変わっていたんだろうか……


『緋岐、一緒に行きましょう……私たちの緋翠様を……あなたのお父様を誑かした妖に会わせてあげる』


そう言って手を引かれて連れて行かれたのは、屋敷の地下牢。


不気味な呪符が張り巡らされた牢の中に繋がれていたのは、黒い翼の美しい女性の形をしたバケモノだった。


翼を広げた状態で、杭で留められている様は、蝶の標本を彷彿させた。身体中に巻かれた鎖がジャラリと音を立てる。


長い金糸の髪に湖面を思わせる淡い青色の瞳が、人ではないと暗に告げていた。


俺は、なんとなく怖くて……だけど、緋岐は心惹かれたらしい。


それから、毎日の習慣になった。母に連れられて地下牢のバケモノの前で、いかにコレが醜悪なモノなのか。


耳元で、ずっと囁かれ続けたのは、呪詛のような怨恨の数々。


『アレは魔性のものなの。だからほら、ご覧なさい……薄気味悪い……もう飛べないように、羽を杭で打ち付けたのよ』


そして、本家で、大事に育てられている妹の存在。妹のせいで、自分たちは冷遇されているのだと。


父を奪い

生活を奪い

居場所を奪った、憎むべき存在。


それが、妹であると……


“母”と信じていた女は、優しく、穏やかに、毒を注ぐ。


それでも、緋岐は心惹かれたようだった。人目を盗んでこっそり会いに行くようになったのだ。行けば、いつも柔らかい笑みで迎えてくれた。


他愛無い話をして……緋岐はすごく嬉しそうだった。だけど、その時の俺はどうしても、『父親を騙して、唆した(あやかし)』だという敵意を捨てられなくて。


だから、すごく驚いたんだ。


『ねえ、緋岐の中に……もう一人、いるわね?お話し、しましょう?』


俺はその頃、表に出る術を知らなかった。


あんまり、楽しい話ではないが、俺は生まれてすぐに殺された。双子は禁忌とされていて、古い因習に従って弟が殺されるはずだった……けど、俺は赤い目をしていて、そして何より、一族で禁忌とされる“(とが)()(びと)”の証しである紋様があったからっていう理由で俺が殺された。


正直な感想だと、「良かった」と思った。だってそうだろう?弟が殺されるくらいなら、俺が殺された方が比べ物にならないくらいマシだ。


でも、俺は消えなかった。顔も知らない父さんが、名まえをくれた。その“名まえ”が、俺の“存在”を固定したんだ。


そして、気づいた時には、弟の中に“いた”。


弟である緋岐だけが、俺の存在を知っていた。それでもいいと思っていた。


自分が身体の主導権を握るだなんて、考えたこともなかったから。だからこそ、俺も……もちろん緋岐も、“俺”という存在に気付かれたことに、驚いた。


『そう、外に出る術が判らないの……いつか、お話しできたら嬉しいわ』


そう言って微笑を向けられた瞬間、初めて外に出たいと思った。話してみたいと……触れてみたいと思った。


―― まさか……


あんな形で、その願いが叶うだなんて、思ってもみなかった。


今考えるとおかしな話だけど、俺たちは小学校にあがる歳になっても、屋敷の中から出たことがなかった。勉強は家庭教師を家に招いて教えてもらっていた。その家庭教師も男性ばっかりだったのは、やっぱり今思い返してみると異常な状態だ。


だけど、それが物心ついた時から普通で……俺たちは、なんの違和感も抱いていなかった。なんの不自由もしていない……と、錯覚していた。


それは、8歳の誕生日だった。その頃には、俺も緋岐と同じで地下牢に行くことが楽しみになっていた。


『ケーキ……喜んでくれるかな?』

『きっと、喜んでくれるよ』


いちごの乗ったショートケーキを二人分、盆に載せて慣れた足取りで真っすぐ地下牢に向かえば、いつものように温かな笑みで出迎えてくれて……


だけど、それが、最後だった。


『お誕生日、おめでとう』


柔らかい笑みを浮かべて、そう言葉をかけてもらった瞬間、泣きたくなった。俺も、緋岐も触れたくなって……牢の中に手を伸ばした瞬間。


“母”だったものが、豹変した。


『やっぱり、お前もバケモノの子どもね!!外見が緋翠(ひすい)兄さまに似ているから、たくさん愛してあげたのにッ!!やっぱり、そのバケモノを選ぶなんて!!』


『かあ、さん……?』


戸惑いながら呼ぶ緋岐の声に、ニタリと不気味な笑みを浮かべる。ゾワリと嫌な予感が背筋を走った。


『いらない……私のモノにならないなら……お前も、いらない……』


その手に握られているのは包丁。切っ先は、真っすぐ俺たちに向けられていて……突然のことに、身動き一つ出来ず、固まってしまった。


そんな背後から、悲鳴のような叫びが響いた。


『やめてッ!!私が口を噤めば……何も話さなければ、子ども達には手を出さないと約束したはずよッ』


耳を疑った……振り返った先にいたのは、必死になってそこから抜け出そうと足掻く女性……否、母の姿。


―― そう……


『お願いッ……私はどうなっても構わない。だから、子どもたちには手を出さないでッ!!!』


必死に、縋るように懇願する。その時、俺も緋岐も理解した……否、本当は心のどこかで判っていたのかもしれない。


この人が、本当の母親だと。


『緋岐ッ!!!危ないッ……』


声に導かれるように再度振り返れば、狂気に染まった、母を騙る女が包丁を振り上げながらこちらに迫っていて。


(緋岐!!避けろッ!!!)


だけど、俺の声にも緋岐は反応できなくて……そりゃあ、そうだよな。今まで、俺たちの世界を支配していた存在が、実は“偽モノ”だっただなんて……母だと信じていたものから、殺されそうになるだなんて……たった8歳の子どもに受け止め切れるわけがない。


『私のモノにならないのなら、お前もいらないッ!!殺してやる!!!』


金切り声を上げながら向かって来た凶刃を避けることが出来ず、緋岐がギュッと目をつぶった瞬間……望んでやまなかった優しい温もりに包まれた。


向けられた殺意に動けなくなった緋岐を抱きしめるようにして、その凶刃から守ってくれたのは、母だった。


無理やり杭を引きちぎって、鎖から抜け出して……どういう原理でかは判らないが、牢を破った母は、そのまま俺たちを……緋岐を守るように抱きしめてくれていた。


『ごめん、なさい……辛い思い、させてしまってッ……』


背後から、何度も、何度も包丁で貫かれながら、それでも母は微笑む。


『ねえ、緋岐……詆歌……お願い……翠琉を……たった一人の妹を、助けてあげて……』


喚く女の声なんて、耳に入らなかった。甘ったるい生クリームの香りに独特の血の臭いが混ざり合う。


『愛してるわ……私の、可愛い坊や……』


それが、最期の言葉だった。


『愛してる』


いつも、母を騙る女から囁かれていた気持ち悪い言葉だ。だけど、母から……本当の母さんからもらった『愛してる』は、泣きたいほど嬉しくて……悲しくて、切なくて。


こと切れた母さんの後ろから、バケモノがニタリと嗤う。

母さんの血で真っ赤に染まり上がった姿で、妖艶に嗤う。


『アハ……あははははは!!!ここまでしないと、死なないなんてホントにバケモノじゃないッ……こんなバケモノの胎から生まれてきたんだから、アンタも人間じゃないわ』


―― やめろ……


『バケモノは退治しなきゃね?アンタの妹は優秀よ?緋翠兄さまの血をしっかりと継いで……祓師として、本家で大切にされているものね!!!』


―― これ以上、弟を苦しめるなッ


『可哀そうなバケモノ!!!ここで、私が退治してあげるわッ!!!』


目を見開いたまま動けない緋岐……否、すべてを諦めてしまったんだと、絶望してしまったんだと俺には判った。


真っすぐに、緋岐に向かって振り下ろされる刃を見た瞬間。


『やめろおおおおお!!!!!!!』


俺の中で、何かが弾けた。そして、感情の向かうまま声を上げた。


―― そう……


声をあげられたのだ。初めて“俺”が……詆歌が外に出た瞬間だった。初めて、力が顕現した瞬間……過ぎる力は暴走し、そして母を騙っていたモノも、母さんの亡骸も……何もかも、すべて消し去ってしまった。


自分たちの中に会った感情は、虚無。感情が追い付かない状態だった。



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