泥中の蓮①(回想)
8歳の誕生日……
俺は母を騙る女と、母を殺した。
それは、揺るぎない事実だ。
―― それでも……
あの、暗澹とした宮崎での暮らしが終わるのだと。
やっと、誰かに……今まで見向きもしなかった一族に認められるのだという、仄暗い喜びがあったのも確かだった。
だけど、今思う。
どうして、俺はあの時……
あの手を取らなかったのか
―― 緋岐の双子の兄・独白 ―—
母親を騙る女は、今考えると静かに、密やかに狂っていた。俺達に……いや、俺の弟に見せる執着は常軌を逸していた。
物心ついた時には、既に父はいなかった。母だと信じていた女から「父親は、悪い女に誑かされた。だけど、いつか戻って来る」と言い聞かせられていて。
それを疑う余地は全くなかった。
俺たちにとって、屋敷の中が全てだった。宮崎の奥地にある、磐墨家に預けられた俺たちの情報源は、母だと信じていた女一人。それ以外の人で会うのは一言もしゃべらない使用人だけ……そんな状態で、他の何を信じろって言うんだ。
静かに、密やかに狂っていた女……今考えると、本当に狂っていたんだと思う。
『緋岐、アナタは私から離れてはだめよ?』
『愛しているわ……』
幼い子どもに囁くには、あまりにもねっとりとした熱を帯びた響き。それは、今も呪いのように耳の奥に残っている。
完全におかしくなったのは、父の訃報と妹の存在を知らされた時。
『奪われた……殺されたッ……どうして、戻って来てくれなかったの?どうして私を見てくれないの?こんなに愛しているのにッ……』
まるで呪詛のように呟く様は、とても恐ろしくて……
それでも、緋岐は言った。
『きっと、父さんが亡くなったことがショックだったんだよ』
―― と……
俺は、だけど……母を騙る女を包むようにとぐろを巻く黒い靄が見えて、すごく気持ち悪くて……段々と嫌悪するようになった。
『緋岐、母さんはおかしい……あれは、普通じゃない』
『仕方ないよ……父さんが、他の女に騙されて……妹がいるってことは、父さんには俺たち以外の家族がいたってことだろう?母さんだって辛いんだよ』
緋岐が言うなら、そうかもしれない……だなんて、あの時思わなければ……もっと強く反抗していれば、何か変わっていたんだろうか……
『緋岐、一緒に行きましょう……私たちの緋翠様を……あなたのお父様を誑かした妖に会わせてあげる』
そう言って手を引かれて連れて行かれたのは、屋敷の地下牢。
不気味な呪符が張り巡らされた牢の中に繋がれていたのは、黒い翼の美しい女性の形をしたバケモノだった。
翼を広げた状態で、杭で留められている様は、蝶の標本を彷彿させた。身体中に巻かれた鎖がジャラリと音を立てる。
長い金糸の髪に湖面を思わせる淡い青色の瞳が、人ではないと暗に告げていた。
俺は、なんとなく怖くて……だけど、緋岐は心惹かれたらしい。
それから、毎日の習慣になった。母に連れられて地下牢のバケモノの前で、いかにコレが醜悪なモノなのか。
耳元で、ずっと囁かれ続けたのは、呪詛のような怨恨の数々。
『アレは魔性のものなの。だからほら、ご覧なさい……薄気味悪い……もう飛べないように、羽を杭で打ち付けたのよ』
そして、本家で、大事に育てられている妹の存在。妹のせいで、自分たちは冷遇されているのだと。
父を奪い
生活を奪い
居場所を奪った、憎むべき存在。
それが、妹であると……
“母”と信じていた女は、優しく、穏やかに、毒を注ぐ。
それでも、緋岐は心惹かれたようだった。人目を盗んでこっそり会いに行くようになったのだ。行けば、いつも柔らかい笑みで迎えてくれた。
他愛無い話をして……緋岐はすごく嬉しそうだった。だけど、その時の俺はどうしても、『父親を騙して、唆した妖』だという敵意を捨てられなくて。
だから、すごく驚いたんだ。
『ねえ、緋岐の中に……もう一人、いるわね?お話し、しましょう?』
俺はその頃、表に出る術を知らなかった。
あんまり、楽しい話ではないが、俺は生まれてすぐに殺された。双子は禁忌とされていて、古い因習に従って弟が殺されるはずだった……けど、俺は赤い目をしていて、そして何より、一族で禁忌とされる“咎落ち人”の証しである紋様があったからっていう理由で俺が殺された。
正直な感想だと、「良かった」と思った。だってそうだろう?弟が殺されるくらいなら、俺が殺された方が比べ物にならないくらいマシだ。
でも、俺は消えなかった。顔も知らない父さんが、名まえをくれた。その“名まえ”が、俺の“存在”を固定したんだ。
そして、気づいた時には、弟の中に“いた”。
弟である緋岐だけが、俺の存在を知っていた。それでもいいと思っていた。
自分が身体の主導権を握るだなんて、考えたこともなかったから。だからこそ、俺も……もちろん緋岐も、“俺”という存在に気付かれたことに、驚いた。
『そう、外に出る術が判らないの……いつか、お話しできたら嬉しいわ』
そう言って微笑を向けられた瞬間、初めて外に出たいと思った。話してみたいと……触れてみたいと思った。
―― まさか……
あんな形で、その願いが叶うだなんて、思ってもみなかった。
今考えるとおかしな話だけど、俺たちは小学校にあがる歳になっても、屋敷の中から出たことがなかった。勉強は家庭教師を家に招いて教えてもらっていた。その家庭教師も男性ばっかりだったのは、やっぱり今思い返してみると異常な状態だ。
だけど、それが物心ついた時から普通で……俺たちは、なんの違和感も抱いていなかった。なんの不自由もしていない……と、錯覚していた。
それは、8歳の誕生日だった。その頃には、俺も緋岐と同じで地下牢に行くことが楽しみになっていた。
『ケーキ……喜んでくれるかな?』
『きっと、喜んでくれるよ』
いちごの乗ったショートケーキを二人分、盆に載せて慣れた足取りで真っすぐ地下牢に向かえば、いつものように温かな笑みで出迎えてくれて……
だけど、それが、最後だった。
『お誕生日、おめでとう』
柔らかい笑みを浮かべて、そう言葉をかけてもらった瞬間、泣きたくなった。俺も、緋岐も触れたくなって……牢の中に手を伸ばした瞬間。
“母”だったものが、豹変した。
『やっぱり、お前もバケモノの子どもね!!外見が緋翠兄さまに似ているから、たくさん愛してあげたのにッ!!やっぱり、そのバケモノを選ぶなんて!!』
『かあ、さん……?』
戸惑いながら呼ぶ緋岐の声に、ニタリと不気味な笑みを浮かべる。ゾワリと嫌な予感が背筋を走った。
『いらない……私のモノにならないなら……お前も、いらない……』
その手に握られているのは包丁。切っ先は、真っすぐ俺たちに向けられていて……突然のことに、身動き一つ出来ず、固まってしまった。
そんな背後から、悲鳴のような叫びが響いた。
『やめてッ!!私が口を噤めば……何も話さなければ、子ども達には手を出さないと約束したはずよッ』
耳を疑った……振り返った先にいたのは、必死になってそこから抜け出そうと足掻く女性……否、母の姿。
―― そう……
『お願いッ……私はどうなっても構わない。だから、子どもたちには手を出さないでッ!!!』
必死に、縋るように懇願する。その時、俺も緋岐も理解した……否、本当は心のどこかで判っていたのかもしれない。
この人が、本当の母親だと。
『緋岐ッ!!!危ないッ……』
声に導かれるように再度振り返れば、狂気に染まった、母を騙る女が包丁を振り上げながらこちらに迫っていて。
(緋岐!!避けろッ!!!)
だけど、俺の声にも緋岐は反応できなくて……そりゃあ、そうだよな。今まで、俺たちの世界を支配していた存在が、実は“偽モノ”だっただなんて……母だと信じていたものから、殺されそうになるだなんて……たった8歳の子どもに受け止め切れるわけがない。
『私のモノにならないのなら、お前もいらないッ!!殺してやる!!!』
金切り声を上げながら向かって来た凶刃を避けることが出来ず、緋岐がギュッと目をつぶった瞬間……望んでやまなかった優しい温もりに包まれた。
向けられた殺意に動けなくなった緋岐を抱きしめるようにして、その凶刃から守ってくれたのは、母だった。
無理やり杭を引きちぎって、鎖から抜け出して……どういう原理でかは判らないが、牢を破った母は、そのまま俺たちを……緋岐を守るように抱きしめてくれていた。
『ごめん、なさい……辛い思い、させてしまってッ……』
背後から、何度も、何度も包丁で貫かれながら、それでも母は微笑む。
『ねえ、緋岐……詆歌……お願い……翠琉を……たった一人の妹を、助けてあげて……』
喚く女の声なんて、耳に入らなかった。甘ったるい生クリームの香りに独特の血の臭いが混ざり合う。
『愛してるわ……私の、可愛い坊や……』
それが、最期の言葉だった。
『愛してる』
いつも、母を騙る女から囁かれていた気持ち悪い言葉だ。だけど、母から……本当の母さんからもらった『愛してる』は、泣きたいほど嬉しくて……悲しくて、切なくて。
こと切れた母さんの後ろから、バケモノがニタリと嗤う。
母さんの血で真っ赤に染まり上がった姿で、妖艶に嗤う。
『アハ……あははははは!!!ここまでしないと、死なないなんてホントにバケモノじゃないッ……こんなバケモノの胎から生まれてきたんだから、アンタも人間じゃないわ』
―― やめろ……
『バケモノは退治しなきゃね?アンタの妹は優秀よ?緋翠兄さまの血をしっかりと継いで……祓師として、本家で大切にされているものね!!!』
―― これ以上、弟を苦しめるなッ
『可哀そうなバケモノ!!!ここで、私が退治してあげるわッ!!!』
目を見開いたまま動けない緋岐……否、すべてを諦めてしまったんだと、絶望してしまったんだと俺には判った。
真っすぐに、緋岐に向かって振り下ろされる刃を見た瞬間。
『やめろおおおおお!!!!!!!』
俺の中で、何かが弾けた。そして、感情の向かうまま声を上げた。
―― そう……
声をあげられたのだ。初めて“俺”が……詆歌が外に出た瞬間だった。初めて、力が顕現した瞬間……過ぎる力は暴走し、そして母を騙っていたモノも、母さんの亡骸も……何もかも、すべて消し去ってしまった。
自分たちの中に会った感情は、虚無。感情が追い付かない状態だった。




