⑧
緋岐は思いの他軽い妹の身体を、しっかりと抱き締める。腕の中からは、規則正しい寝息が零れていた。口元に残る吐血の痕を、何の躊躇いもなく自身の拳で優しく拭ってやる。
「翠琉を、眠らせてくれたのか」
恐らく近くで見守っていたのだろう白銀が、機を見計らったかのようにそう言って姿を現したのは、月がだいぶ西へと傾いた刻限だった。
「目元の隈、凄かったから……やっぱり翠琉は……」
「ずっと、眠りは浅い」
緋岐の言葉を最後まで聞かずに白銀は言う。強制的にとはいえ、久方ぶりに深い眠りに就いたらしい翠琉に、白銀は自然と顔が綻んだ。
緋岐は知らずに身を固くした。今なら、どんな言葉もしっかりと受け止められる気がした。言われてもしょうがないくらい、自分が情けない兄であると自覚もしていた。
だが対する白銀の行動は、緋岐の予想を裏切るものだった。突然、白銀は頭を下げる。
「翠琉は、全てを諦めている。だからどうか……その心を救って欲しい」
その言葉の真意を量り兼ねて、緋岐は言葉を返せない。その心情を白銀は悟ったのか、ふっと笑んで言葉を続けた。
「私はかつて、憎んでいた」
―― そう、厄災だと私を闇へと永久追放したこの世界を
「そんな常闇から私を救い上げて下さった」
―― その恩、如何程か……
共に笑い
共に泣き
―― 時に些細な事で仲違いをし
過ごした日々は、決して恵まれたものだとは言い難い。
―― だが……
「翠琉の隣に在れた日々全てが、私の宝だ」
―― 身勝手な事は百も承知している
「現金なものだな。あれだけ世界が憎かったというのに」
―― 今はただ、ひたすらこの世界が愛おしい。
「翠琉の生きる……生きていく世界。壊させるわけにはゆかぬ」
―― 願うは唯一つ。
「この先、翠琉の暮らす世界が光で溢れること」
―― だがそれは……
「私が隣にいる限り、叶わない夢想に終わる」
何が言いたいのか、緋岐には判らなかった。判らなかったが、何か硬い決意の様なものを感じて、緋岐は黙って耳を傾ける。
「“血は汚い”とは良く言ったものだな」
―― 悔しいが……
「お前以外に翠琉を託せる者が思い浮かばぬ」
その言葉に、だが緋岐は悔しそうに俯いた。
「でも、俺には翠琉を護ってやれるだけの力がない」
それは、愚痴のようなもので……自身の無力さは、先の戦いで嫌というほど思い知らされた。由貴と組んで、やっとの思いで倒せた。これから対峙する敵は、話を聞くだけでもその力量は自分のそれを遥かに凌ぐであろう事は一目瞭然で。
「力が、欲しいか?」
「え?」
思わぬ問い掛けに、緋岐は思わず聞き返す。
「力が手に入ると言ったら、どうする?」
―― 但し、それなりの苦行が待ち構えてはいるが
その問い掛けには、考えるまでもなく緋岐の心は決まっていた。
※※※※※
「これで、お前は満足か?」
緋岐が翠琉を抱かかえて去ったその場に、白銀はただ一人空を仰ぎ見ていたが月が雲に隠された瞬間、振り返った。そこには一人の少年が佇んでいる。確かに誰もいなかった筈のその場に、ふっと沸いて出たように突如現れた少年に驚きもせず、再度白銀は口を開く。
「満足、しているのか?」
長身の少年は、フッと笑むと「ああ」と応えた。
「勿論……時は動き出した。もう誰にも止められない。アンタだって、判ってて乗ったんだろう?」
暗に「お前も共犯だ」と伝えてくる少年に、白銀は胡乱気な視線を向ける。が、笑みを崩さない少年に苛立ちを覚え、白銀は視線を逸らした。
「重々承知している」
そう短く言葉を吐き捨てたのだった。色んな思惑を乗せて、時はただ静かにその針を進める。
それぞれの思いを乗せて、夜が明けようとしていた。
〈第六章・了〉




