③
伸ばした手は虚しく空を切る。翠琉の手を取ろうとしたのだが由貴の方が一瞬早かったのだ。残された緋岐と白銀の間を重い沈黙が支配する。
覚悟していた筈だった。
―― どんな罵詈雑言も受け止めると……
『翠琉には近付かない』
そう宣言したと言うのに、一日と経たず反古にした後ろめたさも手伝って、白銀と視線を合わせる事がどうしても出来ない。だが、そんな緋岐を白銀は責めるでもなくただ静かに……観察するかの様に見定めていた。そして、微動だにしない緋岐へと徐に口を開いた。
「先に行く」
一言そう言い残すと、呆けた顔で「え?」と呟く様に訊き返してくる緋岐に敢えて気付かない振りをして白銀はさっさとその場から立ち去った。身構えていた分、脱力したのは緋岐だ。
白銀がどんなに翠琉を大切に想っているのか、重々承知していた。
―― だから、翠琉を裏切り続けた俺が赦せないんだから……
緋岐が翠琉に接触する事を快くは思っていない事を窺い知ることは容易い事だ。故に絶対にあってはならないのだ、こんな事は……白銀にとっての緋岐は、危険分子の一つに過ぎない。
―― その事に、俺は勝手に安心もしてたんだ
そう、身勝手な事だと知りつつ緋岐はその白銀の態度に安堵していた。翠琉を守ろうとするその白銀の心情だけは信じられたから。そんな白銀から見れば、今回緋岐が翠琉に接触した事も赦せるはずがなくて。何も言葉なくしてその場を去った白銀に、一抹の不安が胸を過ぎたのだった。
※※※※※※
「すまなかった」
状況整理がついて一段落したのを見計らったように、そう言って頭を下げたのは誰でもない翠琉だ。
「頭を上げなさい、翠琉さん。あんたは何にも悪かない」
正宗は相好を崩して、優しい笑みを浮かべると、翠琉の隣に膝を付き宥めるように背を撫でてやる。
「護ろうとしてくれたんじゃろう?この家を、白銀殿を周さんを……わし等を巻き込まぬようにと慮っての事じゃろう?」
それは翠琉に訊いている筈なのに、確信があるような響きを帯びていて。
「……っ……だが、私の早合点が招いた結果がこれだ。私が安易に奴等の策に嵌ったからッ」
尚も言い募ろうとする翠琉を止めたのは、由貴だ。
「止めだ、止め!後ろ向きな事を話してたって、しょうがない。とにかくどうやって母さんを助け出すのかを考えようよ!」
すかさず異を唱えようと翠琉は口を開くが、それは紗貴によって遮られた。
「たまには良い事言うじゃないの、馬鹿の癖に」
因みに、ちゃっかりウサギさんのアップリケ付き頭巾は外していたりする。
「馬鹿は余計だよ、姉ちゃん。俺はいつでもポリエステルなんだ!」
「うん、いつもの馬鹿っぽさに姉ちゃんは安心したわ、弟よ。それを言うならポジティブね」
普段と何等変わらない兄弟のやり取りが、無言のうちに翠琉を励ます。
―― 大丈夫だ
―― 独りじゃない
言葉を掛けられるよりもそれは心の奥の、そのまた奥に響いて
―― じんわりと、温かいもので満たされる感覚に
―― 無条件に与えられるその優しさに
嬉しいはずなのにどうして涙が出るのか判らず、翠琉は狼狽えた。
(こんな感情、私は知らない)
“涙”は辛い時にしか出ないもので、とても冷たいモノだと思っていた。
―― ……でも……
(こんなに温かい)
今、自分の頬を伝うそれは温かくて。
「うわっ!ちょっと翠琉!ほら誰も何とも思ってないって!3人集まって文殊の知恵が出るなら、こっちは……えぇっと……何人いるんだ?」
「あぁ~あ。あんたの馬鹿さ加減に、翠琉ちゃん泣いちゃったじゃないのよ。責任取りなさいよ、アンタ」
「俺かっ!俺のせいなのか!?」
翠琉の涙を見て、更に由貴が慌てて、それを紗貴がからかって。そんな様子を正宗は一歩下がったところから優しい眼差しで見守っていた。だが、緋岐の視線にある人物は違っていた。
そこに居るのは、白銀だ。いつもならば、すかさずフォローに入るであろう白銀は、だがしかしただ静観しているだけだ。
(やっぱり、おかしい)
でも、訊くに訊けない。無論、緋岐自身の置かれている立場の問題もあるのだが、何より翠琉を見るその視線が余りに切なく哀しいものだったのだ。だから、掛ける言葉が見付からなくて。緋岐はそっと視線を逸らした。
「お取り込み中んとこ、悪いんやけど」
静かに襖が開いた。
そこに立っていたのは……
「蕎っ!お前、もう大丈夫なのか!?」
そんな緊張感に今一つ欠けた間抜けな声音で聞いて来る由貴に、蕎は溜息を零した。
「こないな時に、いつまでも寝てられへんわ」
そして、淡々とそう宣った。そんな蕎の声に続く声が
「同感です。一刻の猶予もない、早く動かないと」
その隣に、周が並ぶ。因みに二人とも包帯グルグル状態だ。
「……周……」
「私ッ……私、姉さまに任されていたのにッ!……背中を任されていたのに、護りきれませんでした」
翠琉の呼び掛けに応える様に、周は肩膝を付いて頭を下げる。
『後ろは任せた』
本当に嬉しかったのだ、その一言が。失った筈の信頼はだが壊れてはいなかった。
“姉”と仰いだその人の心根は変わらず真っ直ぐで。だからこそ、今度は必ず護ってみせると固く誓った。
だのにこの体たらく。自分の非力さをこれほど恨んだ事があっただろうか?
「周、頭を上げてくれ。周が謝る事は一つもない……むしろ謝るのは私の方だ。黙って出て行ってすまなかった。ただ、私は周を」
「判っています。姉さまのお気持ちは」
続く翠琉の言葉を悟り、周は遮る。そして「判っています」と噛み締めるようにゆっくりともう一度口にしてから言葉を続けた。
「姉さまは私達を危険に巻き込むまいと、行動された。そうでしょう?」
―― でも……
「お願いです。私じゃ力不足かもしれないけど、私は姉さまの隣に立ちたい。姉さまと共に在りたいんです」
―― 蚊帳の外はもう懲り懲りだ
―― とうに覚悟は出来ている
……そう、言外に翠琉へと訴える。
「周、ありがとう」
それは、翠琉の心からの感謝の言葉で。案外、涙脆い紗貴は思わず涙腺が緩んでしまって目頭をそっと拭った。が、その視線の端で捉えた姿にこめかみがピクリと引き攣るのを感じた。




