哀傷歌
―― 少し、いいかの?
あの、激闘を繰り広げてから3日経ったある日、東雲医院に大事を取って入院している緋岐と翠琉を尋ねてきたのは、瑞智 正宗その人だった。
―― 付いて来なさい
そう一言だけ告げると、手提げを右手に、柄杓と菊の花を入れた桶を左手に先導する。
最初は、緋岐にとっては通いなれた瑞智道場と瑞智家に繋がる石段を進んでいたのだが、途中まで来ると雑木林の中に入った。
そこには、整備がなされていないものの、何度も誰かが往来したことを示すような、自然に出来た細い道が続いており、通い慣れたと思っていた緋岐も驚きを隠せない。
少し歩いた先に、開けた場所に出た。
そして、そこにあるものに緋岐と翠琉は目を見開いたのだった。
そこにあったのは、鴻儒家と書かれたお墓だ。
茫然と佇む緋岐と翠琉を他所に、持って来ていた菊の花をお供えする。次いで、供えられている湯呑を濯いでから、新しい水を溢れんばかりに注いでから、正宗はゆっくりと振り返った。
「黙っておって、すまんかったのう」
言うなり、静かに頭を下げる。
「どういうことなのか、聞いてもいいか?」
喉が渇いて、うまく言葉が出てこない。
正宗は、緋岐と翠琉を順に見やり、寂しそうに、昔を懐かしむように笑みを浮かべて口を開いた。
「お主らの母親……本当の名まえは、リュカリエルというのだと言っておった。ここに、倒れておったところを保護してのう……そのまま、行く当てがないと言うもんじゃで、養子として迎えて、瑞智 琉歌として暮らしておった」
まさかの、全く予想だにしていなかった正宗の言葉に、緋岐と翠琉は、ただただ驚くばかりだ。
「早貴……倅の妹として、役に立ちたいと積徳寺に修行へ行っての。そこで、緋翠殿……お主らの父親と出逢うたらしい」
『お義父さま……私、この気持ちを告げるつもりはないんです。だって、身分も、住んでいる世界も……何もかも、違うんだもの』
そう言って諦めたように笑っていた琉歌を追いかけてきたのは、鴻儒 緋翠その人だった。
「二人の仲睦まじい姿を見て、これならばと送り出したんじゃがのう……」
言いながら、振り返るのは墓碑だ。
それまで、とても大きく見えていたというのに、どこか愁いを帯びたその背中はとても小さくて。
一度だけ、緋翠が正宗を訪ねてきた。
『お義父上……琉歌を守ることが出来ず、申し訳なく思っております。……身勝手は承知の上……ですが、もう、頼れる人が……信じられる人がいないのです……』
そして、託されたのが子どもたちのことだった。
緋岐には、出来れば破魔とは無縁の生活を送って欲しいということ。
その、緋岐の内にある双子の兄の魂を気にかけてやって欲しいということ。
そして、末子である翠琉を神羅から守ってやって欲しいということ。
「何一つ、守れんかったのう」
破魔と無縁である為には、なるべく内部事情を漏らさないようにする必要があった。
また、東西不可侵の不文律を、東方守護総代 筆頭分家である瑞智家が破るわけにもいかず、翠琉の現状を知れど、何も打つ手がない状態だったのだ。
だが、緋岐が西方守護総代 神羅一族の宗主の座に就くことを決心した。
翠琉も、此処に在る。
(もう、隠し立てする理由はなかろうて)
「気休めにしかならぬ。ここに、身体は眠ってはおらぬでな」
―― それでも……
「気休めでも、お主のことを見守れる場所に、せめて墓をと思うての」
その言葉に促されるように墓碑の隣まで足を進めてから目線を下に向ければ、かつて緋岐と双子の兄が過ごした児童養護施設があった。
ふと、横にある墓碑に刻まれた名を見て、緋岐が目を見開く。
「こ、れ……」
そこに刻まれていたのは、父母の名まえだけではなかった。かつて喪った、かけがえのない半身。大切な、何にも代え難い……
「詆歌ッ……」
それは、今はもういない双子の兄の名まえだった。
「儂の、エゴじゃよ」
名まえだけ刻んだところで、ここには何も眠っていない。
だけど、刻まれた名まえが、確かに存在したという証のようで。
「俺……思いもよらなかった……こんなッ……」
独りだと思っていた頃があった。
父親に棄てられたのだと……父親にとっては、翠琉しか必要ないのだと……
もう、どこにも痕跡のない兄は、このまま存在自体が喪われてしまうのだと
酷い喪失感が身を焦がした。
でも、それは違った。
ずっと、守られていた。
ずっと、傍にいてくれた。
ずっと、きっと、心配を掛けてしまっていた。
「ありがとう……正じい……」
涙を堪えて絞り出した声は、震えていた。
ふと、佇んだまま動けなくなってしまった翠琉に気が付く。
「翠琉、こっちおいで」
緋岐の言葉に、だけどビクリと身体を揺らすだけでその場から動くことが出来ない。キュッと口を引き結び俯いてしまった翠琉の心情が手に取る様に判って、緋岐は後悔と自責の念に押しつ潰されそうになる。
(でも、その後悔もここまでだ……)
その決意を踏みしめるように、一歩、また一歩と翠琉に近付くと腰を屈めて翠琉の顔を覗き込む。
「翠琉のせいじゃ、ないからな?」
きっと、色んな事を押し殺してきた。
誰かを恨むでもなく
誰かを憎むでもなく
ただひたすら、自分を責めて苦しんできた。
『なんでッ……こちら側に来たのですかッ!!!力を手に取るなんて、馬鹿なことをッ!!!』
耳によみがえる、翠琉の泣き叫びながら訴えて来る声。
「父さんも、母さんも……詆歌だって……翠琉のことを、恨んでなんかない。憎んでなんかない……絶対にだ」
優しく、だがしっかりと断言するように言いながら頭を撫でれば、僅かに目を見開いた。
「で、すが……私は、バケモノで……人、ではないから……」
『可哀そうに……バケモノだって言われて……でも、仕方がないよね?』
優しい、偽りだらけの言葉の毒が注がれる。
『誰も、不幸を呼ぶバケモノなんて愛さないよ?』
じわり、じわりと浸透していく。
『実の兄弟にも否定されて可哀そうに……でも、大丈夫。俺が愛してあげる。俺が、人にしてあげる』
長い時間を掛けて翠琉の裡を蝕んだ呪詛の様な言葉が胸の落ちてジワリと広がり、翠琉は緋岐の言葉を否定するように緩く首を振る。
「誰が、何と言おうと、鴻儒 翠琉は人間だ。俺の、たった一人の大切な妹だ」
暗に、“神羅”ではないのだと告げる。だけど、それは翠琉にとって大きな意味を持っていて。
(わた、しも……)
名乗っていいのだろうか?
父と母と、兄と同じ名を……
「翠琉さん……いや、孫に“さん”はおかしいの。翠琉……こちらにおいで」
正宗が優しく声を掛ける。
緋岐が背を伸ばすと、促す様にそっと翠琉の背を押す。
2人が揃って自分の後ろに立ったことを確認すると、正宗は持ってきた手提げの中から蠟燭を取り出して、墓前の燭台に灯りを点す。
そして、一束の線香を焚くと、屈んで手を合わせた。
「……琉歌、緋翠殿、詆歌、ようやっと、連れて来ることが出来たでな。お主らの大切な家族じゃ。緋岐はのう……ちいとばかし、暴走しがちでの、思慮深いと思いきや、猪突猛進なところがあるでな。いつか、大きな怪我をせねばよいがと懸念が絶えぬ」
そこで一息吐くと、正宗は更に続ける。
「翠琉のこと……神羅から、ようやっと取り戻すことが出来たでな。遅くなってしまい、ほんにすまなんだ……」
何度、一族の掟だの、不文律だのを無視して取り戻しに行こうと思ったことか。
だがしかし、それが許されない立場にあることも痛いほど判っていた。身勝手に動くことによって、失われるものが多すぎたのだ。
「もう、神羅には渡しはせぬ。鴻儒 翠琉もまた、儂の孫じゃ、大切な家族じゃからの……」
正宗の言葉を肯定するように、翠琉の肩を抱く手に緋岐はそっと力を込める。
蝕むように広がり、翠琉の心を縛り上げていた呪いの様な鎖が消え去っていく。
神羅ではなく、鴻儒だと……家族なのだという、たったそれだけのことなのに、自分の存在を肯定されたような気がして。思わず、翠琉は震える声で小さく訴える。
「私は、まだ……なにも、差し出していません……」
「家族なんだから、当たり前だろ?損得勘定なんかない。気持ちが、心が勝手に動くのが、家族なんだよ」
緋岐の言葉に、だけど初めてのことで戸惑いを隠せない翠琉は不安に揺れる瞳を緋岐に向ける。今まで、“人”であるためには代償が必要だった。
“バケモノ”である自分は、それでも人でありたいと……あさましくも願うのだから、差し出すことは当たり前だと信じて疑わなかった。
だけど、緋岐はきっぱりと否定する。何もいらないのだと。
「ああ、いや……一つだけ……望んでいることはあるかな?」
それは、たったの数日前に翠琉が口にした言葉だった。
「平穏な日々を送ってほしい」
『平穏な日々を送ってほしい…… 』
だが、それは似て非なる言葉で。
「俺の、傍で……」
『私のことなど、忘れてくれて構わない』
翠琉は、とうとう返す言葉がなくなってしまい、見開いた瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
そんな二人の孫の様子に、正宗は相好を崩した。
「翠琉や、隣を見てごらん」
優しい声音で導く正宗の声に誘われるように緋岐と翠琉が視線を向けた先にあったのは、真新しい二基の墓標。そこには、白銀の名と水比奈の名が刻まれている。
「儂はのう……供養とは、死者の為ではのうて、“今を生きる者の為に行うもの”じゃと思うておる」
喪ったものは取り戻せはしない。
二度と、会うことは叶わない。
ましてや、忘れてしまうことなんてあり得ない。
だから、“供養”という形で向き合うのだ。
寂しさに負けない様に、心細さに挫けない様に、故人と語らうのだと、正宗は緋岐と翠琉に説く。
「故に儂は、ここに“身体”はなくとも、“心”はあると信じておるんじゃよ」
―― さあ……
「心ゆくまで、話しておいで……」
そう言って、正宗はゆったりと立ち上がると、その場に泣き崩れてしまった翠琉の頭をひと撫でして、来た道を一人で帰って行った。
(心は、ここにある)
寄り添うように、緋岐は翠琉の隣に膝をつくと、そっと翠琉を抱き寄せる。
一頻り泣いて落ち着いた翠琉が、ポツリと呟く。
「白銀と……水比奈だけだったのです……何の、見返りも求めず、ただ傍にいてくれた……」
「ああ」
「だから、喪いたくなかった……のに、……」
「白銀と水比奈にとっても、翠琉が大事だったんだよ」
そこまで言うと、緋岐はそっと翠琉の身体を自分から離す。
そして、まだ涙の残る翠琉の頬を優しく両手で拭ってやってから、徐に立ち上がった。
「顕現せよ。參乃型 壬 閼伽邪の剣」
その言葉に言葉に応えるように姿を現わしたのは、水の刃を持った一振りの刀を象った、霞幻刹劫真具だ。
緋岐は刀の柄をしっかりと持つと、そのまま何のためらいもなく自身の髪を後ろに束ねて持つと、ザクッと切る。
―― 伸ばした髪は、願掛けだった……
兄への未練そのものだった……のかもしれない。
(だけど、その迷いも、躊躇いも、後悔も……今日で終わりにする)
切った髪の束をそっと白銀の墓前に供えると、手を合わせる。翠琉にも届くように、しっかりとした声音で告げた。
「改めて、ここに誓うよ……鴻儒 緋岐は、家族として……兄として、鴻儒 翠琉の傍にいる。絶対に守る……もう、一人にはしない」
そこまで言うと、振り返る。そこには、枯れることを知らない涙がぽたぽたと零れ落ちる翠琉の姿があって。
緋岐は、どこかすっきりした微笑を向けて言う。
「俺の妹は、泣き虫だったんだな?」
言いながら涙をもう一度、手で拭ってやってからそっと引き寄せると、そのまま優しく抱き締めた。
「……おかえり、翠琉」
バケモノだと称され続けた“神羅 翠琉”ではなく、一人の少女である“鴻儒 翠琉”が、兄の元へと本当の意味で帰って来た瞬間だった。
<哀傷歌・了>




