唯一無二の④
とにかく、離れなければならない。
自分が傍にいると、また奪ってしまう。
目を閉じると、あの、悍ましい夢の光景が鮮明に蘇って。
判っているのだ。あれは夢だと。
だが、あれが正夢にならないと、誰が言い切れるだろうか。
激しく降り注ぐ雨の中、当てもなく翠琉は歩いていた。
―― 居場所も……
―― 帰る場所も……
(もう、ない……私が、自分で壊してしまった……)
覚えていない、向こう側の記憶の中で微笑む父親の声が思い出せるはずもなく。
『忘れなさい……こんなことは、覚えていなくていいんだよ』
どんな声だったのか思い出せないのに、その言葉だけは覚えていて。真っ赤に染まった手が、頬に触れた感触だけが生々しく思い出される。
何があったのかすら、覚えていないというのに……伐折羅の愉悦混じりの嗤い声と、父親の優しい手の温もりだけは、そこにあって。
―― 私が、消えれば……
(私さえ……いなければ……)
ふと、立ち止まって天を仰ぎ目を閉じる。
(真耶の仇を取るなど……茶番もいいところだ)
判っていた。誰でもない……真耶の命を奪ったのは自分だと。
それでも、それを認めてしまったら一歩も動けなくなりそうで。
(あのまま、止まってしまえばよかったんだ……)
歩く軌跡は、血に濡れていくばかり。
ゆっくりと横を向けば、降りしきる雨によって濁流と化した川が目に入った。誘われるように、一歩、また一歩と近付いて行く。
―― もう、終わらせなければ……
(私は……)
『お前みたいなバケモノが妹なわけないだろう!! 』
かつて、兄から投げつけられた言葉。
反論なんて出来るわけがない。
(事実、なのだから……)
風が吹く。まるで、翠琉を留めるように。
だけど、翠琉は構わず……まるで吸い込まれるように川に身を投げ出した。
―― まさに、その瞬間……
背後から、抱き締められるように引き留められる。
「は、なせ……ッ……離せッ……」
自身の身体を拘束する力から抜け出そうと足掻くが、びくともしない。それどころか、翠琉を抱き締める腕に更に力が込められた。
そのまま抱き上げると、橋の下まで移動したところで、そっと翠琉の身体を解放した。自然と、正面から向き合う形になると、翠琉は鋭く相手を睨みつける。
「余計なことをッ……」
見上げて抗議の声を上げるが、最後まで続かなかった。向き合う形でそのまま強く、再度抱き締められたのだ。
「良かったッ……間に合った……」
落とされた呟きが切羽詰まっており、それが本心であることを翠琉に訴える。余りにも強い力で抱きすくめられて、翠琉はただ茫然とするばかり。それでも、ここで終わらせなければならない。
どこか、遠くに行かなければ……離れなければならない。
その一心で口を開いた。
「お前の、主の為だ……」
「主も、翠琉……貴女を案じておられる」
「いらない。必要ない……」
「貴女には必要なくても、主には必要です」
そこまで大人しく腕の中に囲われていた翠琉は、力任せに身体を離すと挑むように真紅の瞳を睨み上げた。
「璃庵。お前の主の命を、私が奪うかもしれないんだぞ!!」
だけど、璃庵はそんな翠琉の訴えは意に介さず、ふっと微笑んだ。
それは、どこか寂しそうで……
「私が、主を守りますから……貴女にも奪わせません」
そっと、真意を隠して告げる。
「貴女には、もう、何も奪わせない……。私は、貴女の傍にいます。でも……貴女のためには死にません。私の主はただ一人ですから。貴女を一人にはしません……」
―― 何で……
出会って間もないはずだ。
何の縁もゆかりもない。
なのに、何故ここまで心を砕くのか。
何故、ここまで寄り添おうとするのか。
翠琉には理解できなくて、「どうして」と問おうとした、まさにその時……
「翠琉ッ!!!」
名まえを呼ばれて、反射で振り返れば、そのまま抱き締められた。
「あ、に……さま……?」
茫然と呼べば、ひとつ大きく安堵の溜息を吐いて、そっと身体を離す。そのまま、壊れものに触れるように、そっと翠琉の両頬に手を添えて、額と額と合わせた。
「良かった……無事で……」
そして、緋岐が到着するのと同時に一歩後ろに下がった璃庵の方を見る。
「翠琉を見つけてくれてありがとう、璃庵……助かったよ」
そう言えば、薄っすらと笑みを浮かべて璃庵はそっと頭を下げた。
「滅相もございません」
契約者と式神は、精神感応での対話が可能だ。璃庵は、翠琉の姿を見つけて直ぐに緋岐へと連絡を送っていたのだ。
一歩遅れて将と蘭子も駆けつけた。
「良かった、翠琉ちゃん……心配したんだよ?帰ろう?」
将が優しく声を掛けるが、頭を横に振るばかり。
「翠琉……?……やっぱり、俺のこと、嫌いか?」
苦笑交じりに緋岐が言う。
「翠琉のこと、2回も見捨てた……こんなのが兄とか、嫌だよな……」
「そ、んなこと、ありませんッ……」
違うのだと、訴える。
嫌いなのは、厭うのは緋岐ではない……他でもない、自分自身なのだ。
(うん。判ってる……判ってて言うんだから……俺も大概、意地悪だよな)
でも、きっと今じゃないといけない気がした。
“今”、繋ぎ止めないと手遅れになる……そんな予感が胸を過る。
「俺は、決めたよ。翠琉……翠琉がどんなに嫌がっても、離れたがっても、俺が離れない。俺は、離れたくない……一緒にいたい……そのための力も、手に入れた……」
緋岐の声に呼応するようにその手のうちに現れたのは、霞真刹劫真具だ。
それを目に留めた瞬間、翠琉は目を見開いた。
「な、……んて、ことをッ……」
「翠琉……もう、俺も戦えるんだ。こちら側に居るって、覚悟を決めた」
「何故ッ!!!!」
―― ドン!!
と、緋岐の言葉が終わるか終わらないか……翠琉が力任せに緋岐の胸を叩く。緋岐は、それを甘んじて受け止めた。
「なんでッ……こちら側に来たのですかッ!!!力を手に取るなんて、馬鹿なことをッ!!!」
破魔とは無関係の生活を……
闇の存在と係わらない様に……
「その為なら、恨んでいい……ッ……恨んでいたではないですかッ!!!」
まだ、耳に残る兄の怒りに染まった声音。
『俺を兄だなんて呼ぶな!!俺から全部奪って、一人ぬくぬくと過ごしてきたくせにッ!! 俺から、何もかも奪っておいて、今更なんだよッ!!!お前みたいなバケモノが妹なわけな いだろう!!』
「貴方の言う通りです。私はバケモノです!!貴方の妹なんかじゃないッ!!!」
翠琉自身、泣いていることに気が付いていないのだろう。
泣きじゃくりながら、必死に叫ぶ。声は既に枯れてしまっているのに、堰を切ったように声を荒げる。
「放っておけばいい!!捨て置けばいいんだ!!!貴方には、何の関係もないッ!!!」
ふと、緋岐は正体を隠して、目の見えない翠琉と話していた時のことを思い出した。
『憎まれても、いいと思ったんだ……いっそのこと、私のことを憎んで、神羅のことなんて忘れて……普通の生活を送ってさえくれれば……』
(どんな、思いで……)
「力なんか、なかったクセに!!!呪力もない、弱者のくせにッ!!!そのまま、普通に生きればいいのに、なんで余計なことッ!!!」
『私のことなど、忘れてくれて構わない。憎んでくれたっていい』
(どんな、覚悟で……)
「こんな、穢いッ……奪うことしか出来ないッ……バケモノなんて、放っておけばいい!!!どこで野垂れ死のうと関係ないッ!!!!!」」
『平穏な日々を送ってほしい……。望むのは、それだけだ』
―― パンッ……
乾いた音が、その場に静寂を落とした。
緋岐以外の全員が驚きのあまり息を止めた。泣き叫んでいた翠琉も驚いたように茫然としている。
緋岐が、翠琉の頬を叩いたのだ。
「いい加減にしろ」
そこには、静かな怒りがあって。
「翠琉は、誰が、何と言おうと俺の……“鴻儒 緋岐”の大切な家族だ。妹だ……」
それは、誰に対する怒りなのだろうか。
少なくとも、翠琉に向けられたものではないことは明らかで。
「だから、誰にも奪わせない……誰にも、傷つけさせない……」
そっと、抱き締めて背中を優しく、あやすように撫でる。
「翠琉は、バケモノじゃない……もう、独りじゃないんだ……」
「でっ、も……真耶も、白銀も……水比奈もッ……いなくなってッ……もしかしたら、父様も私がッ……兄様だってッ……」
「翠琉のせいじゃない」
しゃくり上げながら言い募る翠琉の言葉を遮るように、きっぱりと緋岐は断言する。
「それに、翠琉がバケモノだっていうんなら、俺はそれを凌ぐバケモノだぞ?」
冗談めかして言う緋岐の言葉に、だけど、翠琉は首を横に振るばかり。
「遅くなって、ごめんな?……もう、絶対に独りにしない」
この手を、拒めと頭の中で警鐘が鳴る。
奪うことになっていいのかと、苛む声が奥底から聞こえる。
―― だけど、それでも……
「いいんだ、翠琉……もう、いいんだよ。俺は、絶対に死なない……翠琉を守る……翠琉が守ってくれた“日常”だって捨てるつもりはない」
―― でも……
と、続けながら翠琉の頭を撫でる。
「その“日常”には、翠琉も必要なんだ……だから、俺は、絶対に手放さない……」
―― 俺は、案外欲深いんだ……
そう、苦笑混じりに続ければ、恐る恐る緋岐の背に翠琉の手が回った。応えるように、緋岐が抱き締める腕に力を込めれば、翠琉は声を上げて泣きじゃくる。
「ごめんな?翠琉……おかえり……」
いつの間にか、雨が上がって優しい陽の光が曇天の隙間から射し込んでいた。
<唯一無二の・了>




