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黄昏の精霊剣士  作者: えびみそまる
第一章『渇望の国』
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第8話 下水道

 ギルドに着くと、入り口前に見覚えのある後ろ姿。あれは……。


「セリカ!」

「あっ、イチタ」


 間違いない。立っていたのは彼女だった。


「今戻ったのか」

「うん。痕跡が残ってそうなところを念入り探してみたんだけど、結局あの場所以外見当たらなくて……イチタはどう?」

「まぁ、ゼロではないんだけど……あんま役には」

「そう。でも、もう少ししたら向こうの動きにも何か変化があるかもしれないし……今のところは様子見ってことで」

「お互い苦労するな……」


 この事実を知っているのがこの街に何人いるのかは不明。今現在、はっきりしているのはイチタとセリカの二人だけだ。彼らだけで調査を進めていくのにも限界がある。もっとも、現状を街の人々に伝え、少しでも協力者を募れば頭数的には事足りる。が、それはなるべく控えたい。あれほどの騒ぎが起こった後だ。下手に公言して混乱を招く恐れもある。


 魔物に対する知識があり、かつこの手の話に理解を示してくれる人じゃないと……。


 幸い、それに当てはまるであろう面々をイチタは知っている。まずは彼らへ相談してみるとしよう。


「もうリュドさんも戻っている頃だろうし、ひとまず報告しに行こう」

「うん」

「あっ、いたいた!」


 その時、背後から声がした。振り返ると、立っていたのは一人の青年。肩で息をし、何やら少し急いだ様子で二人を窺っている。


「いや~探したよ。見つかって良かった」


 イチタとセリカは顔を見合わせる。当然、二人とも彼のことは顔見知りという訳でもなく特に知っている訳でもない。風のごとくこの場に現れた青年は息を整えるとこう言い放った。


「あの……」

「あんたら、新生討伐団の人だろ。あちこち聞いて回って、ここだって分かったんだ」

「俺達に何か用ですか?」


 男は打って変わり落ち着いた声色で話し始める。


「ああ。今朝方、街に現れた魔物を見事退治したって話を耳にしてな。その力を見込んで頼みがある」

「頼み?」

「ともかく、一緒に僕の住む地区まで来てほしい。詳しいことはそれからだ」


 男はここより南に進んだ王都第八番区域から来たらしい。話によると、ここ最近彼の住む地区で夜な夜な奇妙な金切り音が鳴り響くという。金属を引っ掻いたようにキリキリと鳴り、さらにその周辺では追い打ちをかけるかのように、謎の異臭騒ぎが起こっていた。衛兵の調べでは、その異臭は近くにあった薬草店から漏れ出したと言われ一度落ち着きを見せたが、彼の直観では本当の原因は別にあると踏んでいた。


「つまり、その異臭騒ぎと今回の件には何らかの因果関係があると?」

「そうさ」

「でも、発生元はその薬草店って……」

「あいつらの調査なんて適当なもんさ。そもそもでっち上げられた店は主に傷を治す癒霊薬を扱っているところだ。爆薬や禁薬ならまだしも、ごく一般的な癒薬を扱う店にそんな危険性はない。住民だって誰一人信じちゃいないしな。落ち着いたというよりは半ば諦めに近い形で収束したようなものだ」

「そうですか……」

「マトモに取り合ってくれる奴らもいるが、まぁあまり当てにはできんな」


 男はここ数日間での出来事を赤裸々に語ってくれた。話を聞く限り、事はそう単純ではなさそうだ。そう簡単に解決するとは思えない。



 歩き始めて小一時間。イチタとセリカは彼の住む第八区域へとやってきた。人の流れとしては、中央広場よりだいぶ落ち着いている。周囲を見回しても、特に何か問題があるようには見えない。至って普通の街だ。


「あそこが、今話した薬草店。問題の出来事は、丁度向こうの区域の手前まで報告があったらしいけど、特に色濃く出たのがこの場所なんだ」

「見たところ、至って普通な感じですけど……どこか、魔物が潜んでいそうな場所に心当たりは」

「君たちに頼み込む前に、それらしき場所をいくつか見て回ったけど、あいにく影も形も掴めていないよ。全くの手詰まりさ」

「そう……ですか」


 早々に八方ふさがり。そもそも、ここに本当に魔物が来ているのかどうかは定かではない。彼の単なる思い込みかもしれない。そういう点で見れば、これ以上の模索は不毛か。だとすると、その金切り声や異臭騒ぎの説明がつかない。原因が魔物であってもなんら不思議ではない異変。こんな時、セリカならどうするだろうか。ここは一つ、専門家である彼女の意見も聞くべきだろう。


「セリカは、どう思う?」


 セリカはイチタと目を合わせず、ある一点を見つめていた。


「……セリカ?」


 セリカは急にスタスタと歩き始めると、広場の隅の方で足を止めた。イチタと依頼人の男は彼女の後を追う。



 三人が足を止めた先にあるもの。そこは、何の変哲もない普通の井戸。イチタはおもむろにその中を覗き込む。底はうっすらと見える程度で内側には縄梯子がかけられている。

「その、もしかして……」

「この井戸はもう何十年も使われていなくてな。向こうに新しく水汲み場が設置されて以降

すっかり寂れちまったのさ。こんな広場にありながら、街の住民だってもうほとんどが忘れちまってる」


 セリカはなぜ、この寂れた井戸の前で立ち止まったのか。この場所に何が……いや、そんなのは言わずもがな。言葉にせずともイチタはなんとなく察していた。


「……間違いない。この下」

「え?」


 依頼人の男は疑問の声を上げる。


「感じる。この下から……微かに魔物の気配」

「そ、そんな……」


 男は信じられないといった様子を見せたが、瞬時にハッとした仕草で語りだした。


「そういえば、ここの井戸は町の下水道と繋がっていたはずだ。いや、だとしてもまさか……」


 彼からすれば、それは当然の反応。よもや自分が毎日暮らしている街のすぐ下は魔物の棲み処になっているだなんて誰だって思いたくない。薄々そう感じていたとしても、無意識のうちに、知るのを避けたくなるものだ。


 地上で分かっていることがほぼ皆無である以上、一度この下を探ってみるほかはない。今の街の平穏は仮初めに近い物と言っていいだろう。見えぬ敵は潜んでいる。放っておけば、あちらの気まぐれ一つで容易く破綻する。


 男はイチタ達に律義に向き直ると、深々と頭を下げた。


「頼む。どうか、この問題を解決してほしい。もちろんタダでとは言わない。相応の報酬はきっちりと弾むつもりさ」


 報酬の有無はともかく、ここまで来て身を引くのもスッキリしない。当然ながら、それはセリカも同じ気持ちのようだ。


「分かりました。二人でちょっと見てきます」

「恩に着るよ」


 男は笑顔を見せながらも、井戸の底に向かう二人を心配そうに見守る。


 イチタ達は早速縄梯子を使って井戸から下水道へと向かう。先にセリカが降り、その後にイチタが続く。


 底に着くと、地面には小さな水たまりができている。そして、目の前にある大きな通路。ここから下水道へと繋がることができる。二人はさっそく奥へと進む。


 薄暗いが、幸いまだ日中ということもあり、天井の隙間から陽の光が差し込んでいる。足場もそんなに悪くない。これなら問題なさそうだ。


 下水道には板切れや金属の破片、ロープなどガラクタが所々に散乱している。今のところ、違和感は感じない。


「ん?」


 進んでいくと、道が三方向に分かれている。そのどれもが鉄格子にに阻まれいる。前方の道はしっかりと施錠がされ進むことは不可能だ。左側の鉄格子は扉が破壊され通れるようにはなっているが道が途切れているのが分かる。二人は消去法で右のルートを選択した。


 通路を進みながら、異常がないか探る。今のところ特に変わった様子はない。通路はさらに奥へと続いている。


 歩いていると、また広い場所。ここまで来ると、異変らしきものが徐々に見えてきた。


「何だ……この臭い……」


 まるで薬品と生ごみを混ぜ合わせたかのような強烈な臭い。手で口元を覆ったくらいではとても防げない。


「これを見て」


 そんな中、セリカがこの場の中央に立つ日本の柱を指差す。よく見ると、柱の上部になにやら緑色の粘液が付着している。一部は付着してから時間が経っているのかやや黒ずんでいる。


「これは……」

「自然にできたものじゃないね」


 粘液はまるで生きているかのように謎の収縮を繰り返している。周囲の悪臭と相まって見ているだけで吐きそうだ。


「早速調べたいところだけど……」


 セリカが視線を変える。


ーーキュルル


 「!?」


 鼓膜を取り囲む異音。小刻みに動かす脚はまるでダンスを興じるかのように湿った地面を叩く。ああこの音、このシルエットにはもうそれが何であるかを見定める必要はない。


「ま、魔物……」

「そう簡単には行かせてくれなさそうだね」


 大通りで出たのと同じ類。全部で五体。正門に衛兵が待機している以上、神出鬼没に街中へ現れたことを見るに、どうやらここを根城にしているようで間違いない。


ーーキキィ。


「うおっ!」

「ふんっ」


 見合う間もなく飛び込んできた一体にセリカが剣を合わせる。魔物は真っ二つに割れ、絶命する。仲間の無残な死を見てもなお、まるで恐れることなく残りの四体が一斉に飛びかかってくる。


 セリカは腰を入れ、一歩踏み込むと、目にも止まらぬ速さで斬りつけていく。彼女の鋭い剣撃によって魔物は四体とも木端微塵となり、下水道のガラクタに混じっていく。セリカの戦闘を見ていたイチタはふと思った。


 大通りで相対した時よりもわずかに動きが良くなっている気がする。それは本当にわずかな差であり、もしかしたら気のせいかもしれない。



 この粘液の正体が何なのか、気になるところではあるが今は先を急ごう。右奥にこの先へ続く通路がある。魔物の存在がはっきりとした今、駆除が最優先だ。これ以上、街に溢れさせるわけにはいかない。


 異臭の原因はあれで間違いないはず……不明なのはもう一つの異変、謎の金切り声。それと思わしき音は今の段階では聞こえてこない。もっと奥に進めば、何か分かるだろうか。


 イチタ達はさらに奥へと進む。途中に見た謎の粘液はあの場で尽きることはなく、その先の通路にも所々確認できる。ここは間違いなく下水道の中。それは間違いない。なのにどうしてだろうか。その環境を見るに、ここはまるで何かの棲み処。あちこちに付着した粘液が、その事実を主張しているかのようだ。


 冷えた空気とは別に訪れる寒気。できることならば、このまま何も現われて欲しくない。そう願いながらも、イチタは歩みを進めた。


「うぅ……」

「え?」


 通路脇に誰かがいる。二人はおそるおそる近づく。


 座り込んでいたのは一人の兵士。片膝を立て、壁にもたれながら、小さくうめき声をあげている。何があったというのか、着ている甲冑はボロボロ。額からは血を流している。


「あ、あの……大丈夫……ですか?」


 イチタは負傷した兵士の前でしゃがみ込み、声をかける。吐息は荒く、まともに受け答えできるかは分からないが、今は少しでも状況を把握したい。一体ここで何があったのか。イチタは負傷した兵士に尋ねた。


「や、奴が……」

「え?」

「あいつが……あの化け物せいで……ぐっ」

「あっ、無理に動かないでください」


 兵士の男は悔しさと苦痛に満ちた声を漏らす。やはりというか、この場所に何かが潜んでいることは間違いないようだ。


「少し、奥を見てきます」


 兵士を落ち着かせた後、イチタは立ち上がるとセリカと一緒に通路の先を目指した。


 歩きながら、一旦現状を整理する。不気味な金切り音、謎の異臭、道中で見つかった緑色の粘液……そして、負傷した兵士。分かっていることを並べてみても、とても一筋縄で済む相手ではなさそうだ。


 通路を進むと、壁や地面におびただしい量の粘液が道をふさいでいた。あまり気乗りはしないが、ジャンプで越えられない距離ではない。


「待って」


 無視してこのまま進もうとした時、突如粘液の中から何かがうごめきだす。


ーーピギギィ。


「な、なんだ!?」


  粘液から現れたなんとも不気味な生物。ミミズのようなうねうねと太長い体。先端からはイソギンチャクのような職種を伸ばし、その内側には無数の細かい歯のようなものが生えている。目らしきものはなく、視力は良くないと思われるが、間違っても近寄りたくはない。


壁に天上、そして地面。四方に付着した粘液からそれぞれ顔を出し、通路の先をふさぐ。


「どうすれば……」

「一度、試してみようか」 

「試す?」

「そ」


 セリカは腰のポーチから謎の黒い塊を取り出した。


「なにだそれ?」

「まぁ見てて。それっ!」


 彼女は手に持った黒い塊を奴らの足元にある粘液に向かって投げつけた。投げた塊が粘液に付着すると、じんわりと色を変えボウッと音を立てて発火した。火は粘液の海を渡って見る見るうちに燃え広がり、通路にひしめく異形の生物ごと包み込んだ。


ーーギィ。


 短い断末魔の末、あっという間に全てを燃やし尽くした。


「さ、進もう」


 イチタはその光景に面喰い、しばらく呆然としていた。そのせいか、さっき投げたものが何だったのかを聞く暇もなく、セリカはさっさと奥へ向かっていった。



 この先に、何かがいる。不穏と共に、イチタの脳内でまだ見ぬ敵のイメージが増幅していく。そうこうしていると、また次の場所に出る。


 そこはこれまでで一段と広い空間だ。円形の壁に囲われ、所々崩れた天井の隙間から僅かに外の光が漏れている。この場所からもいくつか枝分かれした通路が別のルートへと通じている。いや、ここから先に続いている筒状のそれは通路というより巨大な下水管に見える。

およそ、人が移動するために作られたものとは思えない。


 なんとなく、この場所が数ある異常の大元となっていることを、イチタは薄々感じていた。その証拠に、周囲の地面や壁にはもれなく例の粘液がこびりついている。井戸に入ったときはほのかに漂ってきていた異臭も、ここが一番強烈だ。


 ここに、何かがいる。場の空気感も相まって、イチタはより周囲を警戒する。



「殺風景ではあるけど、とりあえず調べてみようぜ。決定的な何かが見つかるかもだしさ」

「そうだね」


 少しでも多くの情報をと、意気込んだイチタは通路を出てすぐ目の前にある段差を飛び下りた。


ーーカラン……。


「カラン?」


 着地した拍子に、何かを蹴飛ばした。薄暗い中、僅かに漏れた明かりに照らされて蹴飛ばしたものの正体が露となる。


「これって……骨?」


 ゴロゴロと地面を転がり外の光でライトアップされた白く丸い形状の物体。それは間違いなく人間の頭骨そのものだった。


 いや、それだけではない。よく見ると、辺り一帯何らかの生物の残骸がひしめいている。まるでここが、事件の発端となった怪物の巣であることを証明しているかのようだ。


 後から降りてきたセリカが入念にこの場を観察する。


「きっとここにいる……」


 その言葉を皮切りに、状況が一変する。


ーーズズッ。


「っ!?」


 何かを這いずる音。音は下水道内を共鳴して場に響き渡る。それは丁度、イチタ達の目の前、巨大な排水管の奥。光届かぬ道の先からカサカサと着実に近づいてくる。


 管の影からぬらりと露出する漆黒の外殻。平たく長い体躯を波打つように這わせ、流れるように姿を現した。全長は約10メートルくらいだろうか。上体を起こせば天井にまで届くほどになり、対峙する者の強大さを実感する。



 イチタの脳内で、あるものと繋がった。大きさは違えど姿かたちだけ当てはめれば、ほとんど合致する。


 それはまだイチタが子供の頃、夏休みにカブトムシを求め近くの林へ駆け込んだ時の出来事。おもむろに地面に横たわっていた朽ち木をひっくり返した時、そこに奴がいた。鋭い大あごに真っ黒な見た目。カサコソと朽ち木の裏を我が物顔で這いずり周り、相対する者に強烈な存在感をアピールする。


 それを類似する生物が今、目の前にいる。いや、厳密に言えば所々違っている部分はおおい。触覚は蝶の口のようにくるりと上側に丸まり、大あごは縦に長く根元から先端にかけてギザギザの刃が付いており、大あごというよりはもはや肉切り包丁のようだ。そんな凶悪な代物が上から順に3対並んでいる。


 百の足を持つとは言われているが、粋な事にどうやらこちら産のは大あごの数までサービスしてあるみたいだ。


 討伐団としての初仕事がまさかこんな大物とやりあうことになるとは……。無論、こんな怪物相手とあり合う術をイチタは持ち合わせていない。


「あの~セリカさん……ちょっとご相談が」

「イチタは下がってて、あいつはあたしがやるから」

「助かる」


 今のイチタの実力では彼女の補佐すらままならない。ここは全面的に任せるのが最良だ。とはいえ、あの大ムカデ。サイズ感もさることながら、フォルムの凶悪さといい、通りで戦った魔物とはケタ違いだ。だが、それでもセリカの表情は依然として変わらず自信に溢れた目をしている。彼女はやる気だ。セリカを信じ、イチタは壁際まで下がる。


 満を持して現れた下水道の魔物。おおよそ、コイツが全ての元凶と言って間違いないだろう……。


「よーし、やっちゃおうか」


 セリカはゆっくりと剣を抜く。剣先を下に向けて、軽く前傾姿勢となり、例の構えを見せた。その優に満ちた一連の所作には彼女が踏んできた場数と持ち前の冷静さが見て取れる。


 大ムカデは大あごをカチカチと鳴らし威嚇している。ゆっくりとした挙動で剣を構えたセリカを見ながら、強襲のタイミングを窺っているようだ。


 これまでに二度、セリカはイチタにその力量を見せてくれた。今回もきっと方を付けてくれる……ただ、そうは思いつつも、目の前の敵の強大さ。さすがの彼女でも、今回ばかりは苦戦するのではないかという思い。もちろん、一度や二度の見物で彼女の力を全て知ったわけではない。セリカならばきっと……。


 あれこれ考え込んでいると、大ムカデが動きを見せた。上体を軽く揺らせると首付近が小さく膨らんだ。


「プシャッ」


 大ムカデの口から何かが発射された。それは迷うことなくセリカの方へと飛んでいく。セリカはそれをしっかりと目で捉え、冷静に上空へと跳躍し飛んできたものを回避する。大ムカデの口から出た物体は勢いのまま地面に付着した。それはここに来るまでに幾度と見た、あの緑色の粘液だった。


「セリカッ!」


 イチタは思わず声を投げかける。セリカは丁度向かって右側の通路前に片膝をついて降り立つと、ニヤっと笑って言ってのけた。


「大丈夫だよ。ふぅ……でも、思ったよりは速いね」


 セリカは落ち着いて剣を構えなし、素早く駆け出す。大ムカデは間髪入れず突っ込んでくる彼女に向かって再度粘液を連発する。セリカは飛んできた粘液をジグザグに避けながら、あっという間に距離を詰める。


 体を一回転させ、大ムカデの腹部に剣を打ち込む。


ーーガキンッ!


 音で伝わる硬さ。もはや語るに及ばずと、その身が告げる。あいさつ代わりと薙いだくらいでは、かの鎧に傷一つつけられない。大ムカデは反撃にその自慢の体を使い、体当たりを繰り出す。セリカは剣身を盾に攻撃を防ぐが、如何せんあの巨体。受けた反動で、身体は壁際まで後退する。まともにくらえば、軽く小突かれた程度でも致命傷は免れない。とはいえ、セリカはまだまだ余裕そうだ。


 大ムカデは体勢を変え、上体を地面に近づけると、大あごを開き蛇のごとく突進する。セリカはギリギリまで引き付けてから突進を回避する。すると、大ムカデは勢い余って壁に激突した。


 瓦礫がパラパラと崩れ落ち土煙が舞う。大ムカデが当たる直前、セリカは壁を使ってうまく身を翻し距離をとって地面に着地した。


  

 静寂が場を包む。セリカの見事な一策が功を奏し、この一撃で以て勝負は決したかと思われた。だが、束の間の安堵も一瞬。セリカの眉がピクリと動く。


 崩壊した壁に視線を向けたまま、再度剣を構える。その挙動でイチタはすぐさま理解した。


 奴はまだ死んでいない。


 案の定、煙舞うその奥から黒い影がぬうっと浮かび上がる。無論、この程度でくたばるような相手ではないことは奴の頑強な体躯を見ても明らか。問題は、ここからどう奴の動きを突き崩すかだ。


 

 ……どうすれば。


 導きようのない問題を頭の中でかき回していると、セリカがイチタの方へ戻ってくる。


「セリカ」

「イチタ、一つお願いがあるの」

「お願い?」


 戻って来るや、イチタにある提案を申し込むセリカ。


「さっき、魔物が突進してきたときに気づいたことがあってね」

「気づいたこと?」


 魔物を倒すための糸口となるもの。セリカはイチタにその内容を告げる。


「そんなことが……」

「確証があるわけじゃない。でも、やってみる価値はある。そのために、イチタはできるだけ奴を引き付けてほしい」


 引き付けるだけとはいえ、イチタの技量を考えれば、相当なリスクであることは明白。ただ、イチタはやる気でいた。危険であることは重々承知。けれど、セリカには、彼女にはそれ相応の恩がある。ある意味では好機。まさに今、その意思を表明する時だと。


「分かった。やってみるよ」


 イチタの返答に、セリカは静かにうなずく。そして、腰のポーチから小さな玉を取り出し、それをイチタに渡した。


「これは?」

「ギリギリまで引き付けたら、それをあいつの足元に投げて。合図は私が出す」

「……了解した」


 例の作戦が上手いことハマるかは分からない。けれど、やってみる価値はある。


 立ち込めた土煙が消え、大ムカデの堂々たる姿が露出する。あわよくば傷の一つや二つでもと過ったが、その光沢を帯びた外殻は無傷のまま健在だ。ただ、勢いよく壁に激突したことで多少の効果はあったのか、衝撃の影響で若干動きが鈍い。


「いくよ」

「おう」


 セリカの一声を合図に、二人は壁に沿いながらそれぞれ別方向に走り出す。大ムカデは散り散りとなった両者を見て、どちらに狙いを定めるかキョロキョロしている。そんな中、イチタは地面に落ちていた瓦礫の一部を拾い上げると、大ムカデの頭部に向かって投げつけた。


「こっちだ!」


 投げた石ころは、狙い通り大ムカデの頭に命中する。コツンと情けない音が響く。致命傷にはほど遠い一打だが、その役目は十分に果たしてくれた。


 どちらから葬り去るか悩んでいた奴に対し、手っ取り早く判断材料となるものをイチタは渡した。結果、うまいこと奴を焚きつけるのに成功する。


 大ムカデはフシューっと口から蒸気を吹きながらイチタの方へと前進する。イチタは大ムカデを反対側の壁まで誘導する。


 壁を背に、イチタは大ムカデをさらに引き付ける。



 まだ……まだだ。


 大ムカデとの距離は、まさに目と鼻の先。はたから見ればただ不毛に追い詰められただけに思えるこの状況。しかし、イチタは機をうかがっていた。奴が次に体を振るわせ、さらに近づいた瞬間、セリカの合図が届く。


「イチタ、今!」


 イチタは作戦開始前にセリカから受け取った小さな球を大ムカデの足元に叩きつける。


「おらぁ!」


 球は地面に着弾すると、一瞬にして四散し、ボフンと真っ白な煙幕を空気中に漂わせ、視界が白に覆われる。


 ほどなくして煙幕は薄くなり、再び視界が元に戻る。一見、なんの意味もなくして消えた単なるこけおどし。実際、状況はさして変わらず、大ムカデも突然のことに少しの間硬直していたが、すぐさまイチタに狙いを定める。いや、むしろ直前に当てた瓦礫に上乗せして、さらに怒りを買ってしまったようだ。さっきよりもずっと興奮している。


 やることはやった。後はただ信じるのみだ。


大ムカデはその巨大な大あごを数回カチカチと素早く鳴らした後、グイっと上体をのけ反らせ、大あごを開いたまま、喉元を膨らませた……その時だった。



「もらった!」


 

大あごを開いたタイミングで、上空からセリカが奇襲を仕掛ける。イチタの綿密な誘導、そして機を見計らいながら放った煙幕玉が見事に功を奏した結果、大ムカデは背後から近づく彼女に気づけなかった。



ーーズシャッ。


 セリカは大ムカデの開いた口に剣を突き立てる。



「キキィッ!」

 

 大ムカデは甲高い声を上げながら上体を激しく振りのたうち回る。その様はまるで空気が抜けていく風船のよう激しく、やがて力尽きドスンと大きな音と共に地面に倒れた。



「倒……した」


 セリカは伏した大ムカデの口から剣を引き抜いて鞘に納め、軽く服についたほこりをぱっぱと払ってイチタと向き直る。


「終わったね」

「あ、ああ……」

「立てる?」

「うん。なんとか」


 自分でも分からないうちに、イチタは地面に座り込んでいた。憔悴仕切った心身を癒そうと、意識するよりも先に体が動いていた。


 兎にも角にも、これで騒ぎの大元は断つことができた。残った問題もじきに解決するだろう。


 大ムカデの後始末をどうするか考えていると、何やら外の方が騒がしい。そこから間もなくして大勢の衛兵達がぞろぞろとこの場にやってきた。あれだけ立て続けに大きな音を出していたのだから仕方ない。


 詰められるのを覚悟でイチタは頭の中でぐるぐると言い訳を巡らせていたが、意外にも状況は向こうで把握されていたらしく、その点は特に追及されることもなかった。おそらく、依頼人の彼が色々と説明してくれたのだろう。二人は早々にこの場から立ち去るよう促された。

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