第1話 転移
真夏の昼下がり。カタカタとキーボードを叩く音が七帖半の部屋に鳴り響く。壁際に設置された二台のモニターだけが、暗闇に包まれた室内を照らしていた。
閉め切ったカーテンも開けず、PCの前にあぐらをかいて座し、虚ろな目で画面と向き合う一人の少年、杠葉一千汰。彼女なしの友達少数。趣味はプランター菜園と、最近はコンビニついでにその辺を寄り道するという、ちょっとした深夜徘徊にハマっている。それ以外では基本的にインドア派閥のため、少しでも体を動かそうと衝動的に買い込んだ腹筋ローラーを試してみるが、日頃の運動不足が影響もあってかあっさりと腰をやられ、以来部屋の隅の置物と化している。
高校二年の夏。残り少ない青春の日々を海や花火大会といった定番イベントに消費することもなく、今日も彼はSNSに飛び交うネットニュースを横目に、ただひたすらキーボードを打ち続ける。
指先を動かし続ける傍ら、何か面白いことはないかと目線をチラチラ隣のモニターに移すが、最近よく流れてくるのは芸能人の不祥事や出処も不明なしょうもない都市伝説ばかり。変わり映えのない日々に彼は退屈していた。
「流石に暑すぎだろ……ちゃんと効いてんのかこれ?」
執拗にまとわりつく蒸し蒸しとしたこの熱気。それもそのはず、先ほどからエアコンの調子が悪く、グォングォンと謎の異音がしている。ふと目にしたデジタル温度計には31℃と表示されていた。
「嘘だろ……」
じっとりと噴き出た汗が額や腕を伝って流れ出る。すっかりぬるくなってしまった机上のコーラを飲み干し、席を立つ。
何か冷たいものでも飲もうと冷蔵庫を開けたが、中にはミネラルウォーターすら一本もなく、入っているのは隅でしなびているにんじんだけ。
「げっ、なんにもねぇ……」
かといってぬるい水道水を口にしたところでこの渇きは到底満たされない。
「しゃーない。コンビニ行くか」
このいかれた暑さの中、一歩たりとも外には出たくなかったが、このまま何も飲まずに部屋に入り浸れば、間違いなく生命の危機に直面する。一千汰は渋々外へ出た。
「うぅ……外もやっぱあちぃ……」
気温は三十度を超えるまさに炎天下。容赦なく照りつける日差しに加え、靴底から伝わってくるアスファルトの熱。耳元でガンガン聞こえてくる蝉の鳴き声。路面にポタポタと汗が滴り落ちる。風通しの良い夏用長ズボンとはいえ、そろそろ限界が近い。用を済ませたら、迷わず帰還することを念頭に、イチタは煮えたぎった歩道を踏みしめる。
「さっさと買って帰ろう」
そう思いながら、足早にコンビニへと向かう。数分後、じりじりと熱気の煽りを受けながらも、なんとか最寄りのコンビニへ到着した。
開いた自動ドアを潜り抜けた瞬間、心地よい冷気がお出迎え。ありがたいことに店内の冷房はこれでもかとフル稼働。退いていく体のほてりとともに、体力が徐々に回復してくる。改めて、文明の利器の素晴らしさに感動したところで、テキパキと必要なものをカゴに放り込んでいく。
「752円になりまーす」
店員の覇気のない声を聞いては、財布からチャリチャリと小銭を取り出す。会計を済ませた後、重い足取りで店の外に出る。できれば今日一日ずっとここで過ごしていたい気分だ。
「うっ」
案の定、カンカンとした日差しと全身にねっとりとした空気が全身にまとわりつく。そうたいした時間もしないうちに、また汗が吹き出てくる。
早く帰ろう……と言っても、イチタはあまり気乗りしなかった。というのも、いくら足早に帰宅して涼を求めたところで、当のエアコン様は不機嫌のままだ。それに、この暑さじゃ帰るまでに買ったアイスが溶けてしまう。
さて、どうしたものか……。
その途中、一千汰は近所の公園の前で足を止めた。イチタの中で、ある選択肢が生まれる。
いっそここで一休みしていくか。
一千汰は、木陰の下にあるベンチに座った。ここなら日差しも防げて、風が吹く分部屋より多少マシだ。
コンビニで買った炭酸飲料のフタを開け、中身を一気に飲み干す。乾き切っていた体に炭酸の刺激が駆け巡る。
「プハァッ……」
続けてビニール袋の中を漁り、棒アイスを取り出す。アイスをかじりながら片手でスマホをいじる。思いのほか、ここは快適だ。ベンチ横にある大きな木が直射を遮ってくれているおかげか、割と長いこと居座れそうだ。少なくともエアコンのない密室で蒸されるよりはよっぽどいい。
腕を背もたれにかけ、遊具で遊ぶ子供達を眺める。空を見上げていると、なんだかウトウトしてきた。ここ最近夜更かしが続いたせいだろうか。
「ん~」
………
……
…
「ハッ!」
気が付くと、もう既に日が暮れていた。
「寝ちゃったのか?」
遊具ではしゃいでいた子供達の姿はどこにもない。夕陽の差す公園はどこかもの寂しく、昼間とは打って変わって閑散としている。
一千汰は眠気覚ましに自販機でもう一本ジュースを買い、再びベンチに腰かけた。飲み干したジュースの空き缶をベンチ横のゴミ箱に投げ入れる。
「ふぅ……帰るか」
そう呟き、立ち上がろうとした……その時だった。
「っ!?」
突然、今までにないほどの強烈な眠気が彼を襲う。体を動かそうにも、全身に力が入らない。
なん……だ、これ……
段々と、視界がぼやけてくる。
どうし……て……
イチタはそのまま意識を失った。
◆
「ん……」
背中にふかふかとした感触。下を見ると、草の絨毯が敷かれている。体を起こして、ぼやけた意識の中、ゆっくりと辺りを見回す。
「えっ......?」
目覚めると、イチタはどこか分からぬ木々の生い茂った森の中にいた。
「どこだ? ここ......」
周囲には見たこともないまだら模様の植物や、自分の背丈ほどあるキノコ。
上を見れば、 高さ二十メートルはあろう巨大な樹。
何から何まで、さっきまでいた場所とは違っていた。
「何が......どうなってんだ?」
そこまで言いかけた時、直前に起こった出来事が脳裏に蘇る。夢でも見ているのかと、 突然の出来事に呆然と立ち尽くす。だが、これが夢ではないという事実が今まさに自分の身にこれでもかと押し寄せてくる。
踏みしめる草の感触。
吹き抜ける風の匂い。
耳にこだまする聞き馴染みのない野鳥の鳴き声。
五感に伝う現実味のあるその感覚が、はっきりと、これが夢ではないことを伝えた。
「と、とにかく、いつまでもここにいるわけには……早く、出口を探さねぇと」
イチタは出口を探して歩き始めた。
葉と葉の隙間から薄っすらと明かりは差しているものの、青々と茂った樹木に覆われた森の中はどんよりとしていて常に薄暗く、少しばかり肌寒い。さっきまで感じていたあの暑さが嘘のように。
道は所々岩や木の根が突き出ているため歩きづらい。意識して歩かないと根っこにつまづいて転びそうになる。
「明かりでもあればいいんだけど......あっそうだ!」
ポケットからスマホを取り出してライトを点ける。正直明かりを必要とするまでもないが、それとは別に、何でもいいから安心できるものが欲しかった。獣避けになるかもしれないし、もし自分以外に人がいたらこの明かりで見つけてもらえるかもしれない。紙のように薄い確率でも、とにかく今は何かにすがりたくてしょうがない。あるものは利用する。それが今、イチタにできる全てだ。
足元を照らしながらゆっくりと進む。日頃あまり運動していないせいか、足場の悪い道は地味に体力を消耗する。普段何気なく歩いている舗装された道とは大違いだ。
ーーグガァ、ガァ!
「ひっ」
歩き続けていると、近くで不気味な鳴き声が響いた。直後、何かが木々を揺らしながらバタバタと頭上を飛び去っていく。けたたましい嘶きは深閑した森の中を一瞬にしてかき乱した。
「な、なんだよもう……うわっ!」
追い打ちをかけるように、無数の虫がぶんぶんと自分の周りを飛び交う。飛んできた羽虫を見る。青と黒の縞模様に細長い体。尻の先がくるんと丸まっていていかにも毒々しい見た目をしている。
イチタは逃げるようにその場を去り、一刻も早くここから出ようと出口を求めて走り出した。
「クソッどこだ?」
ライトをあちこち照らして、外へ通じる道がないか、必死に目を凝らす。
「どわっ!」
探すのに夢中になってしまい、目の前が急な傾斜であることに気づかず、そのまま踏み込んでしまい、盛大に滑り落ちる。
ーーズザザザッ
「ぐっいてて......」
仰向けになった体をゆっくりと起こす。なんとか無事に済んだものの、体のあちこちが擦り傷だらけだ。
「たっ......助かった......あれ?スマホは?」
気が付けば、手に持っていたスマホがない。手探りで近くを探してみる。
「お、あった......うっ」
手に取ったスマホを見ると、画面がひび割れていた。電源を押してみるが、当然つかない。
まじかよ......。
壊れたスマホを仕方なくポッケにしまい、仕方なく痛む足を気にしながら薄暗い道をとぼとぼと歩く。辺りはもう真っ暗だ。気温もさらに下がる。半袖には応える寒さだ。さっきまであれほど涼を求めていたのに、今ではこの冷たい風が憎らしい。
思いもよらぬ寒暖差に心身をやられながら、それでも前を行く。
「はぁ、腹減ったなぁ……」
そう意気込んではみたが、既に体力は尽きかけていた。出口も見つからないまま、木の根元にへたり込む。
「ん?」
ふと、付近に目をやると、変わった形状の植物が生えていた。先端がぐるんと丸まっていて、まるで山菜のゼンマイのようである。
そんなことを考えていた結果、空腹がさらに速度を増す。それを口にしたい。腹を満たしたいという欲が芽生える。
イチタはその植物を摘み取りおもむろに口へと近づける。だが、口の中へ放り込む直前に生じる葛藤が彼を制した。
本当に食べてしまってもよいのか? そんな疑問が浮かび上がる。医者も薬もないこの環境下の中で、食欲に身をゆだねるまま軽率な行動をしてしまえば後々どうなるか分からない。ただ、食べないなら食べないで、エネルギー不足でぶっ倒れるのも時間の問題だ。
「……ええい、ままよ!」
勢いに任せて、イチタはそれを口へと運んだ。噛みしめると、シャクっという音が鳴る。歯切れは悪くない。
「お、結構悪くな……ぶほぇっ!」
最初の一噛みから間もなくして訪れる強烈な渋みと青臭さ。後からじわじわと出てきた苦みも舌の上に残る。
今までにないほどの拒絶感。自分の意思とは無関係に、反射的にそれを吐き出してしまった。
「な、なんじゃこりゃ……うぇ、ペッ」
それからどれくらい経っただろうか。既に体力も限界に近い中、舌に残るしびれと違和感に耐えつつ、ひたすら出口を探していた。探すと言っても、光源をなくした今、暗闇の中を歩き回るのは一味違う。景色もよく見えず、景色がおぼろげ映るその光景は、時にこの森がどこまでも延々と続いているかのような感覚に陥る。
目印となりそうなものもつかめないまま、果てしない道を彷徨い続け。 そして、心臓を鷲掴みにでもされるかのように、徐々に焦りが募る。募りに募った焦燥は、疲弊した心をこれでもかと煽る。次第に足早になり、気が付けば走り出していた。
無我夢中で走っていると、開けた場所に出た。
「ここは......」
走り出した先に見えたもの。
そこには真っ白な花が辺り一面に咲きほこっていた。
どことなく安心感に包まれる。何も考えず、ただじっと風に揺れる花を見つめる。
だが、その時だった。束の間の安息地に心癒されたと思いきや、突如空模様が暗転し、辺りが一瞬暗みを増す。直後、前方から強い風が吹き抜け、何かの予兆を示すかのように風に揺れた木々がざわめきだす。そして、自身の足元に滞留するこの何とも言えない生暖かい空気。まるで誰かに吐息を吹きかけられているかのよう。
ーーガサッ。
「!?」
その安らかなひとときも、あっという間に打ち破られる。耳を澄ませると、周囲の木々の間からキィキィと甲高い金切り声か聞こえてくる。 警戒しながら周囲に目を凝らしていると、草木の間から無数の赤い点が光り出した。
「うっ」
草木を掻き分けて、奥からその影が姿を現す。
生い茂った草木の間から、這い出てくるずんぐりとした黒い物体。 その姿に、イチタは目を疑った。
現れたのは、巨大な蜘蛛だ。猪ほどの体格を持ち、黒褐色で背中には大きなトゲがいくつもあり、口には鋭い鋏角とその上には無数の赤い眼がこちらを睨んでいる。
蜘蛛は口元で耳障りな音を鳴らしながら、かなり興奮している。
ーーミツケタ、オンケイヲウケシモノ。
その時、どこからか声が聞こえてくる。まるで耳元でそっと囁かれているように、吐息交じりにかすれるようなその声は自分へと語り掛けてくる。
これはまずい。
瞬時にそう感じたイチタは、一秒でも早くここから立ち去ろうとした。
逃げようとした途端、奥から一体、さらにもう一体と次々に出現する。その数全部でおよそ三十体。それを目の当たりにした俺は、恐怖のあまり声にならない声が喉奥から小さく漏れ出す。
蜘蛛は一瞬にして俺の周りを取り囲む。遠巻きでじっとこちらを窺いながら、獲物を食らうその瞬間を今か今かと狙っている。
「に……逃げ……」
つま先に力を入れる。だが、肝心の足そのものが動かない。恐怖で硬直したまま、膝だけがガクガクと震えている。
言うことを聞かぬ足をなんとか動かそうとする。だが、足は一向に動く気配を見せない。
そんな必死の行為も虚しく、そうこうしているうちに奥から一体、左右からさらにもう一体と、その後も次々に出現する。
「おいおいおいおい……嘘だろ?」
集いに集い、最終的には巨大蜘蛛の大群がこの場に集結した。その数全部でおよそ三十体。
「いや、これ……流石にやばくないですか?」
状況は絶望的。打開策もないまま、棒立ちすることしかできなかった。頭が真っ白になり、額から冷ややか汗と乾いた笑い声が出る。
目の前に立ち塞がった大蜘蛛の群れは、狙いを定めるかのようにジリジリとこちらに詰め寄る。
「いや、待って。ちょっと待て、話せば分かる!」
大蜘蛛はある程度まで距離を詰めると、ぐいっと体を後方に揺らし、反動をつけて勢いよくジャンプした。
重量感のある巨体がこちらに襲い掛かってくる。
もうだめだ……死ぬ。
そう思った瞬間、茂みの奥から何かが飛んできた。
ーーザシュッ!
「なっ、なんだ……?」
気が付くと、飛びかかってきた大蜘蛛の体に一本のナイフが刺さっていた。傷口から赤黒い体液が漏れ出ている。巨大蜘蛛はしばらく手足をピクピクさせていたが、やがて絶命した。
木々の向こうから、誰かがやってくる。俺はじっと目を凝らしてその姿を確認する。
「あれは……」
「見つけた!」
現れたのは、一人の少女だ。透き通るような白髪のロングヘアに翡翠の瞳。風になびく深緑色のマント。藍色を基調としたノースリーブに革鎧。ベルトを巻いたショートパンツと足には太ももまであるロングブーツを履いている。
少女は鋭い眼差しで敵を睨むと、一瞬ニヤリと笑みを浮かべる。その片手には白銀に輝く剣を持っている。剣を構え直すと、姿勢を低くし大蜘蛛へ向かってダッシュした。駆け出した際に力強く踏み込んだことで、地面が少しえぐれる。
得物を突き出し、急接近してくる彼女を即座に敵とみなしたのか、大蜘蛛は少女にめがけて緑色の粘液を吐き出す。少女は身をひるがえしてその粘液をかわすとそのまま間合いを詰め、 剣を薙ぎ払う。剣先は弧を描いて蜘蛛の体を斬り裂いた。
すると、近くにいた二体の蜘蛛がスキを見て彼女に飛びかかる。少女は剣を地面に突き立てると、それを軸として体を回転させ、二体の蜘蛛に強烈な回し蹴りをお見舞いする。その華麗 な身のこなしは、まるで花畑に舞う蝶のようだ。
「なっ……なんだありゃ……」
アクロバティックな動きに思わず見入ってしまう。
そこからは、彼女の独壇場だ。再び剣を構えた彼女は、蜘蛛の大群に斬りかかっていく。
一体、さらにもう一体と、蜘蛛を斬り倒していく。興奮した蜘蛛は糸の束を出して反撃する。
糸は少女の足に絡まるが彼女は顔色ひとつ変えずにそれを剣で斬り裂き、突進してきたもう 一体の攻撃をよけると、すかさずサイドに回り込み、隙だらけの胴体に剣を突き刺した。
貫かれた蜘蛛は痙攣しながら地面に倒れる。
追い詰められた残りの蜘蛛は、身を寄せ合うと少女に向かって一斉に攻撃を仕掛ける。前衛の蜘蛛が粘液を連続で吐いて先手を打ってくるが、少女は蜘蛛の攻撃を全てかわして距離を詰める。間合いに入るや、少女は剣を両手に持ち、大きく腕を横に振るった。
それは文字通り一瞬の出来事だった。
少女が剣を振りかざしたと思った次の瞬間、複数の蜘蛛は体液をまき散らしながら激しく後方へ吹き飛び、息絶えた。
そして、何事もなかったかのように、彼女は涼しい表情のまま「ふぅ」と息を漏らすと背中の鞘に剣を静かに収めた。戦いが終わった少女の服には埃一つついていない。風になびく長い髪が、彼女の気高さをより一層際立たせる。
「す、すげぇ」
白い花の咲き誇る場に凛とたたずむその美しい姿を、イチタはただ見つめていた。
◆
突如、目の前に現れた謎の少女。その華麗な舞いに目を奪われ、イチタは地面に尻もちをついたまましばらく呆然自失となってしまった。
少女の視線がこちらに向く。淡々と、曇りのない精悍な眼差しで。イチタはふと我に帰り、お礼を言うためすぐさま彼女のところへ歩み寄る。
「あ、あの、助けてくれてありが……」
「……気を付けて」
「え?」
「ここはもう、安全じゃない」
「あの……」
「もう、すぐそこまで来ている……」
「それってどういう……」
ーーキキィ!
そう言いかけたタイミングで、倒れ伏していた巨大蜘蛛の一体が起き上がった。傷が浅かったのか、まだ息がある。ただ、もう襲いかかれるほどの力は残っていないようだ。
手負いの巨大蜘蛛はこちらに見向きもせず、そのまま茂みの中へ逃げ去って行った。それを見た少女はすかさず剣を構えた。
「……逃がさない」
「あ、ちょっと」
そう小さく呟くと、少女は巨大蜘蛛の後を追って走り出した。
「行っちゃった……」
お礼を言う間もなく、一人この場に取り残される。
「何だったんだ……今の」
何はともあれ、彼女のおかげで命拾いした。また変なのに遭遇する前に早いこと出口を見つけちまおう。
イチタは早々に、巨大蜘蛛の亡骸散らばるこの場を後にした。
謎の少女の活躍により、運よく危機から逃れることができた。この勢いに乗じて、出口が見つかるといいんだけど。
だが、現実はそうもいかない。歩き始めてもう小一時間ほど経つというのに、周りに見えるのは未だに木、木、木。
相変わらずの進展の無さに、もはや虚無感すら感じてきた。追い打ちをかけるように、風に乗って新たな不穏がやってくる。
ーーブオー。
「こ、今度は何だ?」
あきらかな異音。音は次第に近づく。ガサガサと近くの茂みが揺れ動いた。
かつてないほど警戒を示し、いつでも逃げられるように重心を落として身構えていたのだが、茂みから現れた存在にやや拍子抜けした。
ーーブオー。
「な、なんだ牛か……」
茂みから姿を見せたその牛は「ブオー」と鼻息を鳴らし、のそのそとこっちに近づいてくる。見慣れたそのフォルムにほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。すぐに横から突いてくる違和感。
ん? いや、待てよ。こんな森の中に、牛?
よく見ると、色合いはどこかどんよりしていて体表の模様も何だか気味が悪い。
でも、そんなの種によって様々だろう。ちょっと変わっていても牛は牛だ。
ほら、よく見ると結構かわいいじゃ……。
ーーギョロ。
「ヒッ!」
牛の頭を撫でようとした次の瞬間。突然、牛の額に巨大な目玉がぎょろりと出現し、こちらを覗き込んできた。
ーーブモオオオオオオオオオオオオオッッッッ。
脳がそのおぞましさを処理し終える前に、牛もどきの怪物は大きく口を開け咆哮した。口の中には鋭い牙が等間隔で内側にびっしりと生え、喉奥までずっと続いている。歯の先端からぬちゃりと垂れる唾液。鼻の奥をつんざく悪臭。それはまるで地獄の奥底まで通じているような、恐ろしさであった。
「あああああああああああああああああああっっっっ」
イチタは一目散に逃げだした。
「うわっ!」
既に疲弊しきった体。気力だけで無理やり動かし続けた結果、わずかな地面の段差で足がもつれ、またも地面に転ぶ。
「いつつ……」
ーーズシン
「!?」
ーーズシン
響く地鳴り。小鳥がパタパタと散って行く。何か近づいてくる。パキパキと木々をなぎ倒しながら、もうすぐそこまで来ている。
ーーズゥゥゥゥンン。
後ろにいる。振りむけばすぐそこだ。恐怖にまみれながらも、イチタはその震えた体をなんとか動かして確認する。
「ゴルル……」
「あ……あ……」
ああ、これは夢だ。そうに違いない。
彼の背後の覆う巨大な壁……。ゴツゴツとした岩山のような巨体。幾重にも大樽を積み上げて作られたようなその剛腕。岩の外殻から張りつめたようにむき出たその筋肉。でかいゴリラの一言でくくるには生易しすぎる。頭は虎や猪とも形容しがたい野生の恐ろしさをこれでもかと詰め込んだような見た目。口は耳元まで裂け、シューっと白い吐息を噴き出している。
「は……はは……」
恐怖のあまり、かすれた笑い声がでる。足はガクガクと小刻みに揺れるばかりで動く気配がない。
剛腕の獣はその巨大な腕をゆっくりと振りかざす。よほど強く地面と密着していたためか、腕を振り上げる際、拳に付着していた土や小石がパラパラとこぼれ落ちる。
「うっ……」
ーーブォン。
獣は振り上げた腕を何の躊躇もなしに振り下ろす。
「うわっ!」
ズドンと大きな音がなる。イチタはギリギリのところでそれをかわした。勢いあまってごろごろと地面を転がる。間一髪とはいえ、イチタの体にはまだ動ける余裕があった。自分でも不思議に思うくらい、先ほどよりずっと軽い。しかし、状況は最悪。このままでは力尽きるのも時間の問題だ。
どうする……。
ーーズズ。
「シャァーッ!」
「こんどはなんだ?」
突如、茂みから這いずる音。何の前振りもなく飛び出してきたかと思えば、目の前の岩猿に飛びかかる。太くムチのような胴体をしならせシュルシュルとその太い腕、そして首元に絡みつく。
なんとも奇妙な外観だ。ニシキヘビなんてかわいいもの。体表には蛾の模様をふんだんに貼り付けた見るから毒々しい模様。背中にはうっすらと半透明の背びれが連なり、目は魚のようにギョロついている。
大蛇は岩猿の首に食らいつく。岩猿は蛇の胴体をわし掴みにし、なんとか引っぺがそうとしている。暴れ狂う両者。壮絶な取っ組み合いが繰り広げられる中、イチタはこれを好機と捉えていた。
お互いが縄張り争いに勤しんでいる隙に、イチタは休めていた足をここぞとばかりに立たせ、地面を踏みしめる。
体を奮い起こし、脇目も振らずに走る。
イチタは走った。
走って……走って……目の前が段々と光りに包まれる。
どれほど走り続けただろう。振り返ると、そこに怪物の姿は見えなかった。どうやらさっきので上手く撒いたようだ。
「ハァ……ハァ……ここまで来れば」
膝に手をつき、肩で息をするほど必死になっていた。久々の猛ダッシュに体が悲鳴を上げている。
呼吸を整えた後、顔を上げる。目の前に広がる光景に、イチタは思わず声を漏らした。
見渡す限りの広大な草原。風に揺られて青々とした深緑の海原が波打つ。
丘の上から見る美しい景色に心を奪われ、再び我に返るまでの間、しばらくその場で立ち尽くしてしまった。
外だ……出られたんだ。
「よっっっしゃああああああああああ!!!!!」
両手を腕いっぱいに広げ、喜びを噛みしめる。長かった苦渋辛酸に耐え抜き、ついにたどり着くことのできた境地。嬉しさのあまり、そのまま原っぱの上に大の字で寝ころんだ。
広がる晴天の空を眺めながら、解放感に浸る。思い返してみれば、前日の苦労は一体何だったのかと思うくらい、拍子抜けするほどあっさりと出られた。もしかしたら、昨日の時点でだいぶ出口付近まで足を運んでいたのかもしれない。
とまぁ……無事に出られたのはよしとして、問題なのはここからだ。
ひとまず、ここが現代日本ではないということだけは分かった。それは眼前に広がっている光景からしっかり読み取ることができる。
遠くに見える巨大な街並み。自然豊かなこの場所に一際目立つ無数の建物。特に気になるのは、こちら側から見て、後方にそびえる大きな城。
まるでゲームや映画、果てはおとぎ話の世界にでも出てくるような誰もがイメージするであろう立派な城だ。ここへ来て、初めて見る人工物にテンションが上がる。あそこへ行けば、この世界について何かしら分かるかもしれない。
期待を胸に、イチタは遠くに見える街並みを目指して歩き出した。