6話 【先手1】なんということでしょう…
アウロラは杖も僧衣も持ってこなかったことを後悔する。
聖女の装備には聖句や防御術式が縫い込まれており、魔物に対する防御力がある。
それを身に着けていない彼女は、服を着ていたとて裸に等しい。
息を切らせ、海を目指しひた走る。
さほど近づくまでもなく、湾内に高く聳える大きな三つの巨影が見えた。
「あれは海竜……あんなに大きな個体が三体も!」
竜はアウロラの知る魔物の中でも上位種族だ。
深海に潜む海竜は、海棲生物や漁師などを捕食し陸には滅多に姿を見せないが、個体によっては陸の獲物を狙うこともある。
その食欲は旺盛で、一体につき人間数十名は軽く捕食できる。
三体も現れたとなると、百名以上の人間が胃袋の中におさまるだろう。
海の魔物に対しては、港町の結界はどうしても手薄になる。
港に着くと、堤防の上で海竜の迎撃をしていた聖女や修道女たちが無惨な姿で倒れていた。
アウロラの所属する世界的宗教団体『神聖なる光の集会(Divinae Lucis Conventus:ディウィナエ・ルキス・コンウェントゥス)』の聖職者には6つの階級がある。
アウロラは最上位の階級6、「至聖(Sanctissimus:サンクティッシムス)」の階級を所持し大都市ノーウムのアエテル神殿に所属していた。
この港町のような地方神殿に所属する聖女に上位階級の者はなく、駆り出されたのは階級3(Sancta Virgo:サンクタ・ウィルゴ)までの、比較的低位の聖女や修道女たちだ。
瀕死の者。
事切れた者。
手足のない者。
苦痛に満ちた彼女たちのうめき声が辺りに聞こえている。
こんな時、治癒法術が使えたらとアウロラは自らを不甲斐なく思う。
うつ伏せに倒れていた聖女の一人がアウロラに気付いた。
聖女イリア。
彼女とアウロラは同期で、階級は3。
戦闘法術以外は全てがポンコツなアウロラと違い、彼女は何をやらせても完璧だった。
ただ一つ欠点があるとすれば、彼女は並外れた不運の持ち主だった。
強運を持つアウロラとならばイリアの不運もプラマイゼロになるのではないかと踏んだ上層部に暫くコンビを組まされていたこともあるが、アウロラがイリアの不運を上回るほどのポンコツなので上層部にコンビを解消させられた。
そんな経緯がありつつも、二人は親友だった。
「アウロラ……どうしてここに?」
「イリア、よく耐えたね。休んでてね、私が仕留めるから。ついでに杖を貸して」
アウロラは息も絶え絶えのイリアの手から聖杖をするりと抜き取る。
「また杖を忘れたのね……私が知る限りあなたが装備を忘れるのはほぼ毎回。相変わらずのあなたで逆に安心……うっ。私、もうだめかも」
「喋らないで。仇はうつから!」
アウロラはかっぱらったばかりのイリアの聖杖「不死鳥の杖」を海竜に掲げる。
何度も借りたことがあるので、その性質は熟知している。
三体の海竜は身を陸に乗り出して民家を蹂躙し、家々から人々を引きずり出しては捕食している。
助けを求める人々の悲鳴が絶叫に変わり、途絶えてゆく。
アウロラは怒りと恐怖にわなわなと震えた。
【炎をもて闇をはらえ、浄化の力を授け給え。神の威光を地に示せ!】
余力を残して勝てる相手ではない。一発でやらなければ、次はない。
アウロラは体の隅々から全法力を絞り出して仕掛ける。
【天の獄炎!】
詠唱を終え、極大の威力で火炎法術を放った。
不死鳥の杖は熱線と法力を凝縮した火焔を吐く。
その一撃で、三体の海竜を業火の渦に包み込む。
熱風がアウロラの頬をやく。
炎の渦に押し込め、骨も残らず焼き尽くす。
これ以上誰かの命が消える前に、一刻も早く消えてなくなれ。
そう念じても、年を経た巨大な竜の抵抗は凄まじく、法術の威力は拮抗している。
(お願い……効いて!)
アウロラの体から凄まじい量の法力が消費されてゆく。
膝がガクガクと震え、立っていることも儘ならない。
「アウロラ様の援護を!」
援護を始めた者もいるが、階級の低い聖女の操る火焔は花火のようなもの、法力の威力が足りない。
海竜を屠るには最大の炎属性法術しかないのに、海中に半身を沈める海竜を焼き尽くすのは至難のわざだ。
遂にはアウロラの法術は三体の竜に押し切られ、破られようとしていた。
(だめ……私がここにいちゃ!)
アウロラは咄嗟に体を翻して防波堤を踏み越え、海へと飛び込む。
【遍くものを凍てつかせよ】
炎属性の“不死鳥の杖”に無理やり氷結法術をねじ込みながら、海上に杖を引きずるようにして氷盤の足場を作る。
(倒せない。かくなるうえは氷結で封印……)
自らが的になるよう仕向けながら海上を凍らせ、海上で海竜たちの攻撃を引き付ける。
杖を空へ投げ、空中で詠唱を放って杖を加速させ、死角に回り込んで杖を手にする。
アウロラは海竜を囲む法術陣を立ち上げようとしていた。
【天の氷縛……】
氷の陣形を描きながら海上を疾走していた彼女だが、海竜の尾で横薙ぎに弾かれた。
大質量での殴打の衝撃に、華奢な十二歳の少女の体は耐えられない。
内臓が潰され骨が砕け、破壊されてゆく。
彼女は鮮血を吐き出す。
アウロラの軽い体は放物線を描き、港町の路地にしたたかに叩きつけられる。
咄嗟に法力を脚部に流し受け身をとったが、大腿をやられた。ダメージは深い。
治癒法術を使えない彼女は死を悟った。
薄れゆく意識の中、アウロラの炎を消し去った海竜がその大顎を開き、報復のために港町全域に古代魔術を撃ち込もうとしている。
魔術の黒々とした光に魅入られ、アウロラの視界が奪われる。
もうだめか。
体が動かない。
避けきれない。
そう思った瞬間。
アウロラの前に何者かが立ちふさがった。
満身創痍となり地に伏せているほかになかったアウロラは、荒い息を吐きながら彼女をかばうように立った者の姿を見上げる。
(邪神さん……?)
それは、パンの袋を両手に抱えた邪神だった。
彼は億劫そうにパン袋を左手にまとめて抱え、右手をあける。
人差し指を立て、流れるような動きで真横に宙を撫でる。
それは青い炎の一閃と化した。
空間を引き裂いて、禍々しい青黒い輝きを放つ漆黒の大剣をずるりと取り出し、軽やかに手に取る。
予備動作もなく空気を薙げば、天を割くかと錯覚するほどの巨大なドーム状の闇の防壁が現れ港町と海岸線を明瞭に分かった。
邪神の神術を目の当たりにした三体の海竜は、邪神の築いた闇の防壁に向けて古代魔術による熱線を連撃で打ち込んでくる。
邪神は剣の切先を海竜に向け、三体を余さず囲むよう環を描く。
環は闇の帯となり、帯は分裂し無限に増殖を繰り返し、海竜を繭のように包み込んでその場に縫い留めた。
竜の古代魔術は魔力場を塗りつぶされて無効化され、竜の首は闇の環で拘束され、全ての個体が金縛りにかけられ行動を封じている。
『爾後、この地へ立ち入るを禁ずる』
海竜たちは無傷で拘束を解かれても、暫く硬直していた。
根源的な存在と対峙し畏怖したか、海竜たちは硬直がとれると振り返りもせず大きな波しぶきをあげて沖へと逃避してゆく。
アウロラは誇り高き海竜が遁走するなど、今日の光景を見るまでは信じられなかった。
黒い剣を空中に放り投げて消し、海竜を見守るような邪神の身は光に満ちて、凛とした佇まいをしていた。
邪神は海竜を傷つけず、ただ追い返した。
(まぶし……)
大きなパンの袋を持ってさえいなければ、この光景はきっと神話の一幕となったに違いない。
邪神は彼の靴を汚す血溜まりに視線を落とし、「治すか……」と小さなため息をつく。
『安息のうちに再生せよ』
邪神は天に片手をかざし、緻密な光のレースで編まれた広域修復陣を港町全体に展開する。
彼は天を開いて、秘密裏に神の秘跡を示そうとしている。
『爾らを祝福す』
事切れた人々の死を天命により否定し、冥界より引き戻す。
負傷者を全回復し、破壊された民家も塵芥の一片まで元通りにする。
姿を消したままの邪神がそんな奇跡をアウロラの隣で次々と披露したものだから、人々の視線はアウロラに集まっていた。
「え、え? アウロラ様?」
「奇跡が起きた……!」
ある者は涙を流し、ある者は喜びのあまり絶叫している。
「今のはまさか神術ですか? 人間には不可能だという神の秘術……?」
「さすがアウロラ様だ。幼くして至聖の称号を授かっただけあります」
「ついに神秘の領域に至ったのですか!」
「なんと恐れ多いことでございます……!」
邪神の姿が見えない町人たちは、アウロラの功績を最大級の賛辞で褒め称える。
彼女は完全無欠の聖女として祭り上げられ、大変な熱狂の渦に包まれていた。
「え、これはちが……」
何が何だかわからず、アウロラは血の気も引き頭の中が真っ白になる。
「アウロラ、本当にありがとう!」
すっかり回復した聖女イリアがアウロラに抱きついてくる。
彼女の後ろから、他の聖女や町の人々からの感謝の言葉がたえない。
聖女の力で人々を救い、大勢に感謝される!
アウロラが聖女をやっていてよかったと思えるひとときだが、今日は何だか罪悪感がある。
「治癒術はお得意ではないと仰っていたのに……謙遜もすぎれば嫌味ですよ」
「ま……まあ……はい」
それは本当に私ではないと言いたいところだが、奇跡を成した張本人が出てこないのでアウロラに功績を擦り付けられている。
「アウロラ様、これからぜひ祝勝会をさせてください」
「いえ、今日は用があるの。ごめんなさい」
アウロラは人がきを避けてパンを抱えながらやりとりが終わるのを待っている邪神に、ちらりと視線をくれる。
随分待たせてしまったが、まだ待ってくれるようだ。
そうしている間にも、聖女たちからアウロラへの質問攻めが止まらない。
「あなたは今、夢のお告げの邪神を追っているのですよね。お忙しいのでしょう」
「邪神の手がかりは得られましたか」
「ううん……まだ。今探してるとこ?」
再び退屈そうにしている邪神と目が合う。
今、彼が認識阻害を解いたら聖女たちは失神してしまうに違いない。
「ご無理をなさらずに。あなたは根を詰めすぎです。邪神を見つけたら必ず私達も駆けつけますから!」
「メッタメタのギッタギタにしてやりましょう」
「きっと下賤で卑劣な邪神ですよ。何をされるか分かったものではありません! 気をつけてくださいね!」
「あなたには及ばずとも、私達も修行しておきますから! 肉盾として使ってください!」
「う、うん……見つけたら言うから」
挑んでも全く相手にされなかったから今こうなってるんだけど、とは言えない。
あの時は分からなかったが、今なら分かる。
何故彼がアウロラを相手にしなかったのか。
彼はあまりに強すぎて、アウロラに蚊ほどの脅威も感じていなかった。
その権能の凄まじさたるや、指先一本で国が滅ぶ勢いだ。
アウロラの隣で、邪神は聖女たちの邪神討伐計画の一部始終を興味なさそうに聞いていた。
まったく取るに足らない、そう思っているのだろう。
「アウロラ様、おやすみなさいませ」
「またお会いする日まで」
「アウロラ、杖はいつも持ち歩くのよ!? もう借りないで!?」
アウロラは惜しまれつつ、一部叱咤激励もされながら聖女たちに見送られる。
愛想笑いをしつつ手を振りながら路地を曲がり、アウロラはやっと邪神と二人きりになった。
「……おまたせしました」
「別に待ってない。夜風に当たっていただけだ」
「ふふ、そうですね」
「あっちに合流しなくてよかったのか?」
邪神のさりげない一言にも、思いやりがこもっている。
「邪神さん……私はあなたの側がいいんです」
アウロラははっきりと伝わるように意思表示をする。
「……酔狂なことだ」
「改めて、助けていただいてありがとうございました!」
「俺とあんたは契約神の枷で繋がった。あんたが傷つけば俺にも多少痛みがくる。俺は自分に降りかかる火の粉を払っただけだ。図に乗るなよ」
助けた口実はそんなところだ。
邪神は頑なに助けたことを認めようとしなかった。
追い払っただけなので、他の地で人間の捕食をするかもしれない。
だから人間を助けたことにはならない、とか何とかごちゃごちゃ屁理屈を吐き出していた。
それは邪神の理屈として正しいのかもしれないが、とにかく今日はアウロラが助かった。
それは助けてくれたことに他ならない。
「皆のことも治してくれましたね」
「一人治すのも複数治すのも大して違いがない。範囲を絞らなかっただけだ」
憎まれ口を叩く割にそういうところがお人好しだと、アウロラは思うのだ。
アウロラはしんなりしたパンの袋を見る。
三体の海竜を目の前にしてもパンを手放さなかったあたり、邪神は相当に戦い慣れている。
「パンが飛沫をかぶってしまいました。ごめんなさい」
「大したことじゃない。焼き直せばいい」
「ではそのときに追いチーズと追いバターをしましょう!」
アウロラは服についた汚れを払い落としながら、幸せそうに注文をつけた。
きっとその味は格別だろう、そんな期待を胸に懐きながら。