ゲームセット 4
何を言っているんだ。ついさっきまで、満と一緒にいたじゃないか。
エイプリルフールにはまだ早い。
「寝ぼけているのか、満里?」
「修二……、いい加減目を覚まして。兄さんは納骨殿に居るのよ」
頬が、冷たい両手に包み込まれる。
満里の目は、真実を語っていた。
「兄さんと修二は、ここで一緒に働く予定だった。良く聞いて。聞いてちょうだい。あれは、どうしようもなかった事故なのよ。兄さんは、うちの神社の石段から落ちて死んだの」
両手を血に染めた男が、泣き叫んでいる。聞きなれた声。
あのとき夜空に向かって吼えていたのは--自分だ。
泥水のようにふつふつと記憶が湧き出してきた。
情報でしかない点の集合体が一本の筋となり、修二の脳を貫く。
思い出した。
頭部死球を受け入院していた満が退院してしばらく経ったころ、神梅神社の従業員を集めて歓迎会が開かれた。主賓は、修二と満。
早めに席を外した満を、修二が神梅神社まで送ることになった。宮司も満里も、まだ飲み足りなそうだったからだ。
修二は石段を避けて遠回りをしようとしたが、満が嫌がった。「病人扱いするなよ」と笑っていた。
修二は、満の後ろを歩いた。錆びた手すりしかない石段である。めまいを起こしたら、大変だ。
試合で怪我をさせておいて言う資格はないが、満がまた頭を強打することは避けたかった。医師にも気をつけるようにと言われていたはずだ。
そのまま後ろを歩いていれば、満は死なずに済んだのだろう。
満は言った。
「お前が前を歩け」
「は? なんでだよ」
「歩かせてやるって言っているんだから、有難く俺の前を歩いていけよ。付いていってやるから」
聞こえないふりをすれば良かった。無視をすれば良かった。
大胆不敵という言葉がお似合いの満がそんな台詞を吐いたら、明日は大雨になる。
からかってやろうと思ったが、満の表情を見て辞めた。
灯篭に照らされた満の目元は垂れ、花が咲いたような微笑みが唇を彩っている。
(満足そうに笑いやがって。怪我して入院したせいで、すっかり丸くなっちまった)
調子が狂った俺は、満に言われるがまま前を歩いた。
「なぁ、満」
やけに静かだなと思って振り返ると、そこに満はいなかった。
付いていくのは俺で良かったんだ。
顔も頭も運動も性格も、何から何まで満には敵わない。
打ちどころが悪かったですね、と医師は言った。
二回目ですからね、その言葉が剣となり心に深く突き刺さる。
あの後、逃げるように神道の勉強に打ち込んだ。
満が死んだという事実に蓋をして。
声が枯れるまで、満里を抱きしめて泣いた。二人でひとしきり泣いたころ、宮司が納骨殿の鍵を渡してくれる。
満は、本当に納骨殿に居た。遺骨は何も言わなかった。
「しばらく休ませて欲しい」と頼むと、宮司はすぐに答える。「その方がいい。待っているから」
宮司の優しさに甘えて、二週間近くも休んでいる。何をするということもない。布団にくるまって泥のように眠るだけで、日々が過ぎていく。
夢の中で何度か満の声を聞いた気がするが、目を覚ますとすっかり忘れてしまっていた。
神梅神社の従業員はみんな、修二が、満の幻覚や妄想に苛まれていることを知っていた。何度か精神科にも連れていかれたようだが、様子を見るしかないと言われたらしい。
修二が混乱しないように、満里が、幻覚や妄想の相手をすることになった。
思い返してみれば、満と喋っているときに飛び込んでくるのは、いつだって満里だったのだ。
従業員は事情を分かっているので良いとしても、参拝客の目がある。修二が誰もいない場所に向かって会話をしていれば、どうにかして止めるしかなかったのだ。気性が荒くなったように感じていたが、満里には満里の事情があったのだ。
満里だって、満を亡くして傷ついていたはずだ。拷問のような日々だっただろう。
満里に、満はごく潰しだと何度も言ったことを思い出し、胸が痛んだ。
生きて、ごく潰しでいてくれた方がずっと良かった。
石段が小学生の間で心霊スポットとして話題になってしまっているのは、きっとそこで満が死んだからなのだろう。
たとえ幽霊でも、一緒に居てくれた方がずっと良かった。
頭まですっぽりと毛布に包まったまま、テレビのスイッチを入れた。コタツ机には、食べ終えたカップラーメンの容器がいくつも並んでいる。ミノムシの格好で寝ているだけでも、食べないと生きていけない。
テレビが映し出したのは、春の選抜高校野球の開会式だった。
「宣誓! 僕たちの春は、選抜高校野球から始まります」
雰囲気が満に似ている。早くも、県内の女子生徒たちを泣かしているのかもしれない。
修二は、布団からの脱皮を決める。
大きく背伸びをしてから、生暖かい抜け殻をベランダに干した。