ゲームセット 3
神梅神社には長い石段がある。
朝と夜で石段の数が変わるという噂があり、地元の小学生たちの間ではちょっとした心霊スポットになっている。
石段の数が変わったことに気が付いたら、幽霊に突き落とされて死んでしまうそうだ。
そんな怪談話は、修二が子どもの頃にはなかった。
長い石段の中腹を左に曲がったところに、芳梅庵と呼ばれる茶室はある。
安価でお茶が楽しめるので、存在を知っている参拝客は立ち寄る。
ただ宣伝をしないので、客足は少ない。
誰かが来たら、手の空いた巫女がお茶をたてる。声を掛けても誰も出て来なかったり、待たされたりすることもある。それでも良い客だけが訪れる、穴場のような場所だ。
商売っ気はないが、緑豊かな庭園の四季の移ろいは美しい。
拝観終了時刻が迫っているので、もう客は居なかった。
巫女が、お抹茶とお菓子を出してくれる。少し話した後、頭を下げて退室していった。一度社務所に戻ってから、退勤するのだろう。
茶室の障子を開けると、冷たい風が流れ込んでくる。
もう三月なのに、木々はまだ冬眠中のようだ。そういえば巫女たちが、今年は寒春らしい、と昼食の時間に話していた。
お抹茶を飲んでから、茶室の掃除をしなければならない。
体を回転させると、予想外の人物がそこにいた。炉の前の貴人畳に、あぐらをかいて座っている。
「おう、お前歩けたのか?」
嫌味だ。
修二の投げた死球が頭に当たって右手に軽度の麻痺は残ったが、満は歩ける。
それどころか、日常生活を送る分には支障はない。
拝殿の廊下の隅に根を生やしていたが、とうとう動く気になったらしい。
「時間がないから来てやった」
退勤時間が迫っていた。満は毎日、退勤時間に修二の機嫌を損ねてから帰る。満の唯一の仕事かもしれない。
一日くらい見逃してくれても良いだろうに。
しぶしぶ、満と向き合うように座る。
仕事をしない人間にお菓子をくれてやるつもりはないので、ひちぎりを口に放り込んだ。平たいよもぎ餅に、桃色の餡が絞ってあった。
「もう投げる気はないのかよ」
満の突然の言葉に、餅が喉に詰まった。慌てて抹茶茶碗を手に取ろうとするが、両手が震えて上手く掴めない。
宮司に、町内の草野球大会に出るよう説得しろとでも言われたのだろうか。
満は呟く、
「情けない奴に成り下がったな」
手のひらの震えが上腕にまで伝染してきた。両手の手のひらを組み、発作が収まるまでじっと耐えるしかない。
「うるせー。……野球の話はするなって、……何度も言っただろう!」
豪快に咳込むと、詰まった餅はなんとか胃へと落ちて行く。
「草野球で投げるくらい出来るだろ。適当に投げてくればいいじゃないか」
「こんな手で投げられるわけがないだろうが。そこまで言うなら、お前がやれよ!」
満は顔を曇らせて、首を横に振った。
野球はもう出来ない、満は医師にそう告げられている。
「修二、良く聞け。聞いてくれ。あれはどうしようもなかった事故なんだよ」
満の後ろの掛け軸には<和敬静寂>と書いてあった。互いに心を開いて敬い合うという意味らしいが、満が野球の話を持ち出すうちは無理そうだ。
「……それでも俺は、もう二度と投げないって決めたんだ」
「出来るのにやらない奴を見ると、……腹が立つ」
二本の線は平行面を突っ走り、決して交わることがない。
数年前のあの日まで、こんなことはなかった。喧嘩をしてもどちらからともなく近づいて、気が付けばいつも一緒にキャッチボールをしていた。
野球の切れ目が縁の切れ目だったのかもしれない。
「神道をろくに学んでもないのに、おやじに推薦書を発行してもらって。一番楽な方法で神主になりやがった」
満に麻痺が残ると聞いた後、修二は仕事を辞めて実家に引きこもった。
数か月もしないうちに、宮司と満里が訪ねてくる。満里がいつまでも泣くので、神梅神社の神主になることに決めたのだ。
満に怪我をさせた罪滅ぼしの気持ちもあった。
「そりゃ偏見だ。大変だったぞ」
「神主なんて、ほんとはなりたくもなかっただろ? ただの罪悪感から仕事してるんだろ?」
「そんなことない。……この仕事、気に入っているんだ」
嘘ではない。朝は早いし掃除ばかりをさせられるが、不思議と辞めたいという気持ちになったことはなかった。満は腕を組んでから、じっと修二の目を見つめている。
「満里のことはどうなったんだ?」
「満里がろくに口利いてくれなくなったんだから、仕方ないじゃないか」
「それは、修二が悪い」
「なんでそうなるんだ? 巫女長の仕事でピリピリしているんだろ。満里が嫁に行き遅れても、俺のせいじゃないからな。大体、なんであんなに気性が荒くなったんだ?」
襖の開く音がした。満里だ。
「失礼ね。修二に結婚の心配なんかされたくないわ」
「満里を怒らせないでくれよ」
そう言った満の口元は、への字に結ばれている。
満里は、ずかずかと茶室に侵入してきた。
「満里、怒るなら満に言ってやってくれ。相変わらず、仕事もしないのに偉そうなことばかり言うんだ」
「兄さんはいいの」
「修二、辞めておけ。満里に言っても無駄だ」
満里の抜けるほど白い肌は、軽く紅潮していた。口紅を桃色に変えたらしい。よく似合っている。
味方をするように、満里は満の隣に正座をした。
「みんな満を庇うんだな。満を怪我させた腹いせに、俺を神梅神社で一生いじめ倒すつもりか」
「…………」
「修二、その辺にしとけよ」
満の胸倉を掴んだ。野球を辞めて筋肉が落ちたのか、満は驚くほど軽い。
されるがままになっている満を見ていたら、目の縁に水分が湧いてきた。
殴り返して互角に喧嘩をする力もなくなったくせに、満は射抜くような目で見据えてくる。
「なんでもっと上手く……、あのボールをかわせなかったんだよ!」
「…………」
「なんでよ。どうして、どうしてこんなことになるのよ!」
満里に肩を掴まれ、押し倒された。
抹茶茶碗がひっくり返り、修二の水色の袴に大きな染みが広がっていく。
「私たち三人、ずっと仲良しだったのに」
「修二! 満里を泣かすな」
満が狼狽している。その視線の先で、涙が満里の頬を濡らしていた。
得も言えぬ焦燥が、胸を掻きむしる。涙を拭ってやろうと差し伸べた指は、宙で静止した。
いつからだろう。満里は修二の前で泣かなくなった。もう何年も触れていない肌は、修二の指先を拒むかもしれない。拒まれて立ち直れなくなるのが怖くて、拳を握りしめてから膝の上に置いた。
「修二のバカ! 腰抜け!」
袖を涙で濡らしながら、満里は茶室を出て行ってしまう。襖が力任せに閉められて、反動でまた少し開いた。追ってくるなということだろうか。
満が立ち上がろうとしたがよろめいた。
具合が悪いのかもしれない。
「石段が危ないから、満はここにいろ。めまいでも起こしたら大変だ」
「満里を、もっと大事にしてやってくれ」
畳に崩れ落ちるように座り込んでから、満は頷いた。
何かが引っかかった。
テレビCMで流れた曲を知っているのだけどタイトルが思い出せないもどかしさや、朝ご飯の内容をすぐに思い出せない気持ち悪さに似ている。
一段飛ばしながら、石段を駆け上がった。
梅林の奥まったところで、緋袴がちらついている。もう少し見つけやすい場所で泣いてくれたらよいのだが、満里は隠れて泣くので見つけるのに手間取る。
「満里」
白梅がちらほらとほころんでいる。甘酸っぱい香りが、そこはかとなく漂っていた。
「満が心配してたぞ」
「辞めて」
梅の木の根元にしゃがみこんでいる満里の肩を、両手で押さえた。
ゆっくりと振り向かせると、満里の顔は苦痛に歪みぐしゃぐしゃに濡れている。
満と口喧嘩をするのは、いつものことだ。こんなに泣くことはないだろうに。
「もう私、耐えられない……」
「満里?」
「兄さんはね、兄さんは……、死んだのよ! もういないのよ!」