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寂光院にて

作者: 胡姫

「こんな世界は嫌いです」

聞き間違いかと思いましたがそれはまぎれもなく建礼門院様その人のお言葉でございました。いつになく強い語気には並々ならぬ思いが溢れ、傍近く仕える私でさえ聞いたことのないものでございました。

京のはずれ大原、ここ寂光院は人の訪れもなくまことに静かなものでございます。栄華を誇った平家一門の権勢も今は昔、寂光院には身の回りのお世話をする数人の女衆が暮らすのみ。壇ノ浦にて一門ことごとくを失われた後の建礼門院様はお身は現世におられるものの、心は既に黄泉の世界におられるようでございました。それも無理からぬことでございます。大事な安徳帝、御年わずか八才の我が子を失われた母のお気持ちはいかばかりか。それでもこれまでただの一度もお心の内を漏らさなかった建礼門院様が今になってこのような言葉を出されたのはどうしたことでしょうか。

御簾の間から透かし見ますと、建礼門院様のお言葉は、向かい合われた後白河院様その人に向けられたものでございました。院の突然のご来訪を建礼門院様は当初かたく拒まれましたが、この国の最高権力者のたっての願いを拒み通すことなどできることではなく、庵の一室にて対面してからはや数刻、お二人の対面をただ見守る私どもには長い時間でありました。

耳をそばだてておりますと、建礼門院様の六道のことなど語るお声が漏れ聞こえてきます。どの世界にも身の置き所のない恨みが淡々と語られていくのは建礼門院様のお声が静かなだけに鬼気迫るものを感じました。対峙する後白河院様はどのようなお気持ちで女院様のお声をお聞きでございましょうか。元はといえばすべての元凶はこの後白河院様その人でございます。常人ならばとても平静で聞けるものではありますまいが、日本一の大天狗と言われた後白河院様は動じた様子もございませんでした。

ところが静かな時間は不意に破られました。

「こんな世界は嫌いです」

常になく鋭いお言葉を発するやいなや、やにわに建礼門院様がお立ちになり、目にもとまらぬ速さで後白河院様に突進していきました。その手にきらりと光るものがありました。次の瞬間、お二人の姿はまるで睦み合う男女の如く床にもつれ合っておりました。よく見ると、建礼門院様が後白河院様に馬乗りになり、懐剣を突き付けているのでありました。切っ先は院の頸の柔らかいところに当てられ、今にも切り裂きそうに震えております。

あっ、と声を立てそうになったところ、仰向けに倒れられた後白河院様と私の目が合いました。

「声を立ててはいけない。阿波内侍」

ざくっ、と刃が院の喉を裂き、赤い血潮が流れ出しましたが、院はやはり動じる風もありませんでした。

ふっと憑き物が落ちたように建礼門院様は懐剣から手を離されました。懐剣が落ちる音が静かな庵に響くのを、私は夢のように聞いておりました。そして次に私が目にしたものは、何事もなかったかのように装束を整えて庵を出られる後白河院様のお姿でございました。

「全部嘘だよ」

建礼門院様も何事もなかったかのように端座しておられました。だからこれは私が見た白昼夢、建礼門院様のためにこうであってほしいと願う幻想だったのかもしれません。ですが私にはそれこそが建礼門院様の本当の叫びであったように思えてなりません。それこそが、それまでまるで生ける人形の如く、父清盛さまのご意向通りの生き方をされ一門の運命に翻弄され続けた一人の女人の、最後にして最大の叫びではなかったかと。そしてその想いを誰よりもお分かりになったのが後白河院様であったのではなかったかと。何とも皮肉なことでございます。

いえいえこれは後白河院の言われた通り全部嘘、今となってはとても現実のこととは思われませぬ。ですからどうぞ耄碌した老女の戯言と聞き流して下さりませ。


           (了)

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