カールロット公爵令嬢は魔女である、らしい
朝起きると、私はまず井戸へ水を汲みにいく。小声で歌を口ずさみながら。
「それでね……あらおはようエリちゃん」
「エリちゃんももうすっかりこの村に慣れたわねぇ」
おはようございます、おかげさまで、と返しながら、桶のついた縄を手繰る。すると、おばさん方は井戸のへりに寄りかかって「そういえば」と噂話に戻っていった。
「グラニエルで魔女が出たって噂よ」
「魔女ぉ? どうせどっかのお貴族さまの愛人を、奥方様が魔女だ悪女だ騒いで言ってるんじゃないのぉ?」
いやいやとひとりが首を降り、ずいと身を乗り出して声を潜めた。潜めても私に丸聞こえなんだけど。
「本当の魔女らしいのよ。魔法で大きな蛇を出したり、炎を出したり、男の心を操ったり。グラニエルから逃げ出したのを、教会があちこち探しまわってるって噂よ」
「へぇ?」
「しかもその魔女、カールロット家って大貴族様の娘なんだって! そのせいもあってか、捜索に王家は全然協力的じゃないらしいんだけど、教会は面子に関わるからそりゃもう血眼になって探してるとか」
聞き手ははーやらふーんやら、気のない返事をしている。台車の上の水瓶がいっぱいになったところで、私はそのおばさん方から離れた。
カールロット公爵の娘が魔女で、教会のお尋ね者。
「なーんか大変ね」
道のど真ん中で立ち止まった私は朝日を浴びて伸びをした。すれ違う村の人に挨拶して、また歩きだす。
途中、広場の噴水に映った自分の金髪がきれいに結えているかを確認する。水面に映った青い目が、逆に私を見返していた。
今日は何をしようかなぁ。
噴水をのぞきこみながらそんなことを考える。一人暮らしだから、やらなきゃいけないことはたくさんあるのだけど。
「自分に見惚れて落っこちんなよ」
聞きなれた、若い男性の声に振り向く。私の住む借家の近所で食堂を営むルカートさんだ。早朝の市場に行ってきたのか、手に野菜がたくさんつまれた籠を抱えている。
「いやぁだ、そのときはルカートさんが助けてくれるわよね」
「あんたがジャガイモだったら必死こいて拾うよ。……ちょーどいい、これ借りるぜ」
そう言うと、蓋をした水瓶の上に野菜籠が置かれた。そのままルカートさんは台車の取っ手を私から奪い、ごろごろと押していく。
「わーい、ありがとう!」と言うと、私は彼と並んで手ぶらで歩いた。
「お礼に、仕込み手伝うわ!」
「別に礼されることじゃねえし、仕込みは妹と分担してっから手は足りてる。あんたはいつも通り配膳係りでいんだよ」
にこりともしないでそう言われてしまった。
「そんなこと言わずに、もっと手伝わせてよ」
私はこの人が妹さんと営む食堂に、配膳係りとして雇ってもらっている。お給料は高くないそうだが(何せ私は相場がわからない)、賄いつきでお弁当も持たせてもらえるから、生活のほとんどを支えてもらっている状態だ。せめて、もっと役に立ちたかった。
そもそもルカートさんは、身一つで村の教会の入り口に横たわっていた私に、生きるのに必要なものをたくさん与えてくれた恩人なのだから。
が。
「お前、自分がめちゃめちゃ料理へただって自覚はあるんだよな?」
「……」
紅茶もうまく淹れられないだろと言われてしまえば、おとなしくお皿を運ぶしかないのだ。
私は思わずうつむいて、こめかみを指で押していた。悩むときの癖になっていた。
「記憶が戻ったら、料理のしかたも思い出すのかしら……」
思っていただけのはずのことが、はっと気づくと口から駄々漏れていた。やば、と思うと、予想通りルカートさんの複雑そうな横顔が目に入った。
「る、ルカートさんが気に病むことじゃないわよ?」
そう言っても彼の表情は晴れない。元から無愛想だったけど。
――私は、二ヶ月前に教会の入り口で意識なく倒れているところを、ルカートさんに発見された。そして目覚める前のことは、何ひとつ、自分の名前すら覚えていなかった。
怪我もして、全身かなり汚れていたらしい。ぼんやりしていた意識がはっきりしたのは、ルカートさんの妹さんに全身を拭かれて怪我も手当てしてもらい、着替えまでやってもらった後だ。
発見されたときに着ていた服を後で見せてもらったが、血や土がこびりついて茶褐色になり、もともと何色だったのかよくわからなくなっていた。あちこち破けてもいて、どうするかと聞かれてすぐ「捨ててください」と答えてしまったほどぼろぼろだった。
思い返せば、あれは何も思い出せない私にとって、記憶を取り戻す重要な手がかりだったはずなのだ。けれど、そのときはすごくどうでもいい物のように思えたのだ。
軽率だったかしら。
「……朝飯、うちで食うか」
黙って考え込んでいたら、ルカートさんがぼそっと提案してきた。私は思わず「あら、いいのかしら」と声を弾ませてしまった。我ながら現金だったが、店を構えて儲けを出すだけあって、ご兄妹の手料理はすごくおいしいのだ。
「ついでに茶の淹れ方も教えてやる」
「本当に! じゃあ村長夫人からいただいた、とっておきのお茶っ葉を持ってくるわ!」
借りている部屋はもうすぐそこだった。私はルカートさんを置いて走り、共同玄関を通って二階の自室へと駆け上がった。
「えーとたしか、ここの棚に……あっ」
壁に作りつけられた戸棚に向かう最中、ベッドわきの小さなチェストに腕が当たり、上に置かれていた物が揺れた。あわてて花瓶などをおさえて一息ついたとき、窓の外からルカートさんの「はぁ、それで?」と呆れたような声が聞こえてきた。
「やだ、窓閉め忘れて外に出てたんだ……」
私は窓に寄ろうとした。開け放たれていたそこから、風にのって声が聞こえてくる。ルカートさんと、ほかに二人、男性の話す声が。
――それで、じゃない。我々は魔女ルゼ・カールロットを探してグラニエルからはるばるここまで来たのだ。
――はあ、それはそれはお疲れさんなことで。昼前になったら店が開くんで、うちで飯でも食っていきますか。
――茶化すな。良いから答えろ。金髪に青い目、年は……。
ゴトッ。
「あ!」
窓に寄ろうとした瞬間、私は背後から響いた固い音に気をとられ、そっちを振り向いた。見ると、さっき腕が当たったチェストに置いていた水晶のピアノが、床に横倒しになっている。
「わぁ、危ない。割れてなくて良かった……」
意識のなかった私が握りしめていたという、水晶細工のピアノを拾い上げ、ヒビが入っていないかを確認する。底に名前が彫ってあって、きっと職人の名前だろうと思えた。
本当に水晶かどうかは私にはわからないけど、ルカートさんは『大事そうに抱え込んでた』と言っていた。
「せっかく作ってくれたのに、ごめんなさいデライラさん。私そそっかしくて」
きらきらと陽光を反射するそれが、いいよ別に、と笑って返してくれた気がした。絶対気のせいなんだけど。
置物をチェストに戻し、私は今度はしっかり窓も戸締まりして部屋を出た。
「おまたせ……あら、一人?」
急いで階段を降りていくと、台車から水瓶を下ろしたらしいルカートさんは一人で腕を組み、むすっと私を待っていた。
「さっき、誰かと話してなかった?」
「グラニエルからわざわざ人探しにきたやつらだとよ、ほら」
彼が指差す方向に、馬に乗る男性の影が三つあった。かなりのスピードで、どんどん小さくなっていく。
「話してる最中で三人目が来て、港でそれらしい人の目撃情報が出たんだと、こっちに挨拶もなく去ってったよ」
「ふぅん。グラニエルからなんて大変。港なんてここから丸一日くらいかかるでしょうし、探してる人、見つかるといいわよね」
「さてね。おまえ運がいいぜ。もう少し戻るのが早かったら、金髪だからってんで難癖つけられて足止めくわされたかもしんねぇ」
ルカートさんは、あまり教会が好きではないらしい。というか、この村全体が神様に対して懐疑的だ。
数年前まですごく貧乏な村だったせいもあるようだ。質問しなくても、世間話をなんとなく聞いていると、貧困ゆえに子どもを手放さなければいけなかった夫婦もかなりいたことがわかった。
神様は助けてくれない。そう思っているんだろう。
けど。
「……あの、ルカートさん。私を助けてくれた日、なんで教会にいたんですか?」
なんとなく聞いていなかったことを、私はさりげなさを装って聞いてみた。
「……あの日は、妹の誕生日だったから。ただの気休めだけどな、お祈りなんて」
「レイシアさんの?」
レイシア、は一緒に食堂を営む妹さんの名前だ。美人でスタイルもいいけど、すごく気が強い人だ。ただ基本的に世話好きな人で、私のこともすごく気にかけてくれる。
あの人、本当に姉だったら、頼もしいだろうなぁ。
「……いや、一番下の妹」
心なしか、固い声に聞こえた。
言葉につまった私に、ルカートさんは抑揚のない声で「珍しい話じゃねぇよ」と語り始めた。
「この村、数年前から庁舎に送られる寄付額がぐんと増えたおかげで、ここまで持ち直したんだよ。道も整備できたから、田舎だけど、外から人が来やすくなって、商売も成り立つようになったけど……それまでは、悲惨だった。毎年、今度の冬は越せないかもしれないって思って、怖かったし、心も荒んでた。……親も、俺もレイシアも、一番小さかった妹には優しくする余裕がなかった。それこそあんたが持ってた置物みたいな、キラキラしたものが好きだった、けど、……何にも、買ってやれなかった」
声は、だんだん小さく、途切れがちになった。私は彼の方を見ず、歩きながらじっと続きを待った。
「寄付は、誰から来てるかわからねぇんだけどさ、おかげで教会や庁舎が炊き出したり配給したりできるようになって、飯がどうにかなって、仕事が生まれて。……おかげで、もう子どもを手放す親はいないし、あんたの世話も見られた。良かったよ」
だんだんと、台車の進みが遅くなる。お店は、もう少し先だけど、私の歩みもゆっくりになる。
「末っ子も、今ならと思うんだけど、……どんだけ探しても、見つかんねぇんだ」
台車が止まって、私の足も止まった。うつむくルカートさんの足元を見つめる。
「大人になってりゃ、年はあんたの少し上くらいだと思うけど……大人になれたのかな……」
にゃあ。
「……」
彼の足元に、毛並みのいい黒猫が来ていた。ルカートさんはしゃがみ、「あれ、久しぶりだな。おまえは悩みなさそうでいいなぁ」とくぐもった声をかけながらその額を撫でた。
――ぱさついた銀色の髪を見下ろしていた、私の口は、ひとりでに動いた。
「立派になったわよ、あのひと」
「……え?」
言ってから我にかえった。
「えっ、あ、えっと……」
私は青ざめ、焦り、自分のことを殴りたくなった。何を、知ったようなことを言っているのだ私は。
驚いたようにこちらを見るルカートさんから手で顔を隠す。今すぐ消えたい。
「……ごめんなさい」
「いや、こっちこそ。……なんか、断言されると救われるな。そうだといいなって思える」
それきり、私たちはたいして長くない距離を、黙って歩いた。振り向くと、黒猫はもういなかった。
歩いているとたまに見かける猫だけど、この辺の誰かが世話をしているのだろうか。すごく毛並みがいいのだ。きっといっぱいご飯を貰っていて、ブラッシングも毎日欠かさずされているに違いない。
それこそ、お城の王子さまに可愛がられているんじゃないかな。
そんな妄想と共にお店につくと、ピンクブロンドを後頭部でまとめたレイシアさんが野菜を刻んで待っていた。
「お帰り兄さ、あら、なーに二人で仲良く帰ってきちゃって、あたしお邪魔?」
「……んなわけあるかよ。こいつの分も飯用意してくれ」
何よその言い方、と口を尖らせるレイシアさんを宥めながら、私は野菜籠をルカートさんから取り上げて寄っていく。
「エリちゃん、こいつにこき使われる必要ないのよあんたは。ほら籠貸して。この店はさ、あんたが元気よくお客を迎えてくれるおかげで客の人数も儲けも上がってるんだよ。でかい顔して、どーんとふんぞりがえってな!」
レイシアさんがぱーんと自分の胸を叩く。おっきな胸。いい音したけど、あの厚みは筋肉なのかしら。
ややあって、ルカートさんが少し遅れて、のそのそと厨房に入ってくる。……もう、さっきの沈んだ気配は感じられない。
けど、家族を失う悲しみって、そう簡単にはぬぐえない。私は親のことも姉妹のことももちろん覚えてないけど、誰だって多分そう。
……姉妹?
「さて、待っててね。朝ごはんちゃっちゃと作っちゃうから!」
「レイシアおまえ、まだ作ってねえのかよ」
「誰かさんが仕入れに時間かかってたから、仕込みが終わらなかったんでねぇ」
いつもの喧嘩が勃発しかけて、私はそっちに気をとられた。
「なら朝ごはん、私がシチューを作りましょうか? お仕事の活力になるよう、たらいにたっぷり!」
まずくなるとわかってるのに、私は思わずそんな提案をしていた。レイシアさんは固まったが、少し目の赤いルカートさんは、いいなそれ、と言って少しだけ笑った。
「ありがとな、エリセ」
自分のことすら思い出せない私に、ルカートさんがつけてくれた名前を呼ばれて、私は「いいえ!」と笑って返した。
気合いを入れて立った厨房の窓ごしに、また黒猫が見えた。目があったと思った瞬間、背中を向けて去っていく。
一瞬だったけど、さっきの猫かしら。そう思いながら包丁を握る手元を見る。
――あら、あんたフラウリッツのところの。こんな村で何してんの。
旅行者だろうか、見知らぬ女性の声が、猫のいた通りから聞こえた。
さて。
朝ごはんが終わったら、仕事までの時間、何をしようかな。
花を集めてドライフラワー作ろうかな。布の染色とかもいいな。
楽しいことを考えていると、また無意識に鼻歌を口ずさんでいた。
ルカートさんに、お店の前に花壇を作らないかって相談してみようかな。一緒にやってくれないかな。
銀色の髪の、ぶっきらぼうで優しい人に、そんな期待をしながら、取り出した鶏肉を切っていく。なぜだか鶏の扱いだけは記憶もないのに心得ていた。
不思議なものだ。私はもともと肉屋の娘だったのかな。
過去のことは何もわからない。
けれど、なぜだかあまり気にならなかった。冷たいだろうか。
でもそれより、今日と明日と明後日と、これからやりたいことを考えるのに忙しいのだ。
地獄で待ち合わせる前に、やりたいことはたくさんあるから。いっぱい叱られる前に、なるべく楽しんでおきたいから。反省知らずでごめんね先生、お姉さま。
「……先生?」
一瞬何かが頭をよぎったような気がして首をかしげたところで、「エリセあんた鍋焦がしてない!?」とレイシアさんの悲鳴が響いた。
「わー!」
慌ててレードルでかき混ぜる。誰かのため息と、忍び笑いが伝わってきて、考え事は霧散した。
カールロット公爵令嬢は魔女である、らしい。
けど。
私の日常には、関係のないことである。
なお、シチューはやっぱりまずかったので、二人の分を別にしてから、私が責任もってかっこんだ。