64 聖女の式典
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急遽決まったので、宮殿の中庭で聖女降臨の記念式典をする。
殿下の侍従にそう言われたのは、昨晩のこと。
そして、私は朝から侍女たちに身支度を任せ、いつかのような真っ白なドレスを着せられていた。私以外の誰かのために作られたような、可憐なレースが揺れるデザイン。
会場は宮殿の奥、私達が暴れた中庭だった。ほとんどがきれいに直されているが、よりによってルゼが壁に大きな穴を開けた旧礼拝堂はそのままだった。
なんでわざわざここで。
列席者は主宰が並ぶ壇の前でぎゅうぎゅう詰めだし、旧礼拝堂はもとから古びていたとはいえ、もはや取り壊さないと危なげというところまで来ていた。
屋外式典なら、王宮正面の広い庭で行うのが慣例だったのに。
そう思う私は別に設けられた関係者用の天幕にいた。死んだはずのレダリカ・カールロットが突然現れて、妹である王太子妃候補が消えたとあって、探るような恐れるようなひそひそ声が横から漏れ聞こえている。
私は聞こえていないふりをして陛下の話に耳を傾けた。聖女降臨に関する講話だ。
「あの運命の日、この旧礼拝堂にこそ、聖女が舞い降りて――」
……なるほど。
壊さないのも、わざわざこんなところで開催しているのも、私が転移魔法で出てきた場所が、ここだからか。
そうか、ここは聖地になるのか。
処刑した魔女が弟子を育てていた場所なのだが。
「――日柄がいいだの王家と教会の先々の予定だの、ぐちぐち言ってましたけどいっくらなんでも急すぎですよねぇ? もっと早く言っておいてくれなきゃ、こっちも色々準備したいのに。勝手なんだから」
後ろに立っていたクラリスが不満げに耳打ちしてくる。彼女も私とデザイン違いの白いドレスを着せられていた。耳の横に白い羽飾りまでつけている。
「しかもこんな真っ白、赤ちゃんか死者かって話ですよ、センスない。これならまだ、クリーム色の方が似合うのに。ほら、私って顔立ちはかわいいけど髪の色が濃いじゃないですか」
きっちり巻いた赤毛を弄びながらクラリスはそうこぼした。……正直、私も白は自分に似合わないと思って生きてきたけど、二度とそれは口に出さないと今心に決めた。
そもそも殿下はなんでこの女まで列席させているのだろう。もしかして、この女も聖女認定されるのだろうか。
「……聖女は聖職のひとつだから、公式の場では天からの光を表す白を着るの。わかったらちょっと静かにしてなさい」
「ふーん。ならレダリカさんだけ白でいいんじゃないですか」
やっぱり聖女認定じゃなかった。つまり部外者だ。ここ関係者用天幕なのに。
「……あなたの服装をいちいち気にする必要ないわ。召喚された使い魔は挨拶しなくていいんだから」
「使い魔じゃありませんけど!?」
喚いたクラリスに、控えていた護衛が困り顔で声を抑えるよう注意した。クラリスはころりと態度を変え「あ、すみませぇん」と媚びるような声を出した。
「はぁ、つくづく素敵ですねぇ、王族近衛の制服って。この世にはこんなにたくさん格好いい男の人がいただなんて、やっぱり魔女になんかなるもんじゃないですよねぇ。人生もったいないことしてましたね、私たち」
「……」
式典前にクラリスが持ってこさせたワゴンには焼き菓子や果物が乗っている。国王の話の最中だというのに、クラリスはそれを遠慮なく摘まみ、さらに耳打ちをやめる気配がなかった。
「私の護衛の騎士様も、ちょっとたれ目で彫りが深くてすーっごいハンサムなんですよぉ。新婚なんですって。人のものって燃えますねぇ、どうやったら離婚させられるかしら?」
「……」
「でもやっぱりなにが一番いいかって、どんなに格好いい人でもみーんな私より魔法が使えないってことですよねっ、下に見られないっていい気分。おばーさんの下で苦労したかいがちょっとはあるってものです。寂しがりやのフラウリッツさんなんかに気ぃ使わないで、私もっと早く自立すれば良かったんですよねぇ」
「そうね、そしてさくっとのたれ死んでいたでしょうね」
「はっ? 今何て?」
身一つで家から出されてさくっとのたれ死にかけた私は、顔を陛下たちに向けたまま、クラリスの方を見ないようにした。
見つめる陛下の隣には王妃様、神官長、王太子殿下が並んでいる。
彼らと向き合って並ぶ貴族たちに視線を向ける。無実の罪で投獄された人たちは元の地位に戻ってきていた。が、叩かれて本当の埃が出た者も多くいたようで、見覚えのない顔ぶれもかなりいた。彼らは不慣れを示すようにそわそわしている。
そんな彼らの中で泰然としている古参は目立った。そう、最近出歩けるようになったお父様、とかだ。
私たちは、あの夜から、まだ一度も話していない。けれど心身ともに落ち着きを取り戻したことだけは遠目にも確認できた。そのことに、安心している私がいる。
ほぼ真横にいるのだから、目が合わないのは当たり前だった。私は顔を正面に戻した。
このあとは民衆へのお披露目で、私を含めた関係者は宮殿の二階にある、『式典の間』に移る予定だ。そこのバルコニーから、宮殿前の広場につめかけた一般民衆に顔を見せる。
気候の良さも相まって大勢の人々がつめかけているらしく、時折、ここまで歓声が聞こえていた。
暖かく高揚した空気に、少し昔を思い出す。
こんな状況、婚約が決まったとき以来だ。
数えてみれば、そんな過去からも、まだ一年経っていない。
嬉しくはない記憶。けれど、もう憎しみも湧いてはこなくて、ただ静かに思い出すだけだ。
なにせ私には、ここがお似合いらしいから。
当然のように言われて、私もそんな気がしてきていた。
なんだかんだいって、師の言うことに歯向かえないのは根っからの気性だった。
目の前の華やかな王宮を前に、記憶の中の城を思い浮かべる。森の奥。真っ暗な広間。誰もいない部屋。割れた鏡。
私の帰りを待つ人なんていない。私に帰りを待っていてほしいと思う人だっていない。
胸の奥が焼かれるような感覚を、息を吐いてやり過ごす。ふと、壇上からこちらを見ている殿下に気がついた。
目が合って、私は視線で小さく会釈をした。私の反応に満足したのか、殿下はかすかに頷いてその視線を正面に戻した。
忍び笑いが漏れる。幸運なことに、この王宮にとどまることを望んでくれている人はいるのだ。考えてみれば、あのだだっ広い古城にこだわるのもばかげている。
望まれるのは、贅沢なこと。
そのとおりだ。
「レダリカさんは、護衛つけられてないですよね? 何でですかぁ?」
ねばっこい質問に、人生で初めて舌打ちしそうになった。この年になって、ロザロニアやダリエルがしていたのを見て覚えてしまった。
「馬鹿なの。いるわよ、あなたに見習わせたいぐらい控えめな騎士が」
今もこの天幕のすぐ外に控えている。
クラリスはここにくるなり菓子や飲み物がない不満を周囲にぶつけ、図々しく指示しているうちに式典が始まったから、気づかなかったのだろう。
「え、いましたっけ? どんな人?」
「食器と一緒にその目も磨いてもらいなさい。紺色のマントでいつも私のそばに……」
苛立ちを滲ませた声とともに、私はようやくクラリスに視線を向けた。赤毛の魔女は本当に覚えがなさそうな顔で首を捻っていた。
「私、すれ違う男の人の顔は割としっかり確認してるはずなんですけど……。その人、この前お茶しにいったとき、どこにいました?」
答える前に、私は天幕に人影が近づいてきたのに気がついた。その相手が誰か分かるやいなや、私は反射的に膝を曲げ頭を下げた。周囲の騎士や侍女もほとんど同時にだ。
そうしてから、魔女は王族に尊敬の礼を取らないことを思い出した。
でも、聖女は?
一瞬考えてから、私はそのまま礼の姿勢を保った。
おかげで、天幕でクラリスだけがぽかんと棒立ちのままだった。
「レダリカ、出番の前に話しておきたいことがある。……クラリス殿、悪いが彼女を少し借りる」
クラリスは低い声で「はあ、勝手にどうぞ」と、私を追い払うように手を振った。かちんときたが、さすがにここでクラリスの髪を燃やすわけにもいかない。
私たちは列席者から離れるように静かに天幕の裏へ回った。
*
「……クラリス殿は気難しいのだな」
殿下の呟きに、私の胸にはしみじみと同情心が湧き起こった。
執務の合間に報告される、客人の遠慮のない振るまいや要求が蓄積されて負担となっているのだろう。あいつ、早く出ていかせなきゃ。
「すまない、レダリカ。貴女に聞かせることじゃなかった」
「いいえ、心中お察しいたします」
殿下はごくかすかに口角を上げた。この鉄面皮に苦笑させるんだから、あの女ほんとうに恐ろしい。まさしく魔女。
「……滅多なことを言うものでもないな、瀕死のときに付き添っていてくれた女性だ。目が覚めたときは編み物をしていたように見えて混乱したが、あれは私への治癒の魔法のひとつだったらしいではないか。魔法とは、私が思うよりずっと奥が深い」
「おいたわしや殿下。あれは内職です」
「え?」
「……殿下、お話とは?」
だれも幸せにならない話を打ち切って、私たちは天幕の裏の生け垣を回り、そこにあったベンチに座った。朗々とした陛下の声は聞こえるが、抑えた私たちの声は向こうに聞こえないだろう。
「以前言ったことを、まだ覚えているか」
どくん、と胸が奇妙な高鳴りを訴えた。
「……はい」
そうか、と返してきた殿下は表情を緩めない。もとよりあまり笑みを見せない人だ。
「あのときは、私の個人的な感情に基づいて先走った提案をしかけた。……無責任だった」
左様で、と受け答えながら、私はまっすぐに向かってくる殿下の視線の、そのさきの容貌をしげしげと見つめた。
彫刻のような顔。
整っていて、あまり動かない。離れてからは、冷たい顔だと思い直したこともある。
一対一で対峙してみて、やっぱり美しい顔だと思った。好きな顔だ。
それなのに、どうしてか、胸騒ぎが収まらない。
「けれどやはり、改めて考え直しても結論は変わらなかった。――レダリカ。今一度、私の妃となってほしい」
左様で。
とは、今度は言えなかった。耳の奥で心音が警鐘みたいに鳴り響いた。
口を閉じたまま、私たちはじっと互いの顔を見交わしていた。胸の内とは対照的な沈黙に、背に汗が伝った。
私は静かに焦っていた。それを知ってか知らずか、殿下は組んでいた両手を組み直した。
「あの後、父上とも、そして目覚めたカールロット公爵とも相談した。父上は早く前の婚約者のイメージを払拭したいらしく、すぐに承諾してくれた。公爵はさすがに思うところがあるようだったが、最終的には我々の意向に従うと言ってくれた」
私は、膝の上で拳を固く握りしめていた。
ひどく緊張しているのだ。かつてのように。
「以前も言ったが、やはり貴女が誰よりふさわしい。……今のグラニエルで力を保っている大貴族自体、カールロット家しか残されていないのも、貴女ならわかるだろう」
“ふさわしい”。
それは、今はほかにちょうどいい相手がいないということか。
それは、確かにそうだろう。理解できる。
できるけど、なんだか心に黒い染みが滲んだ。
「……」
私がなにか言う前に、殿下の目は壇上へと移った。
「……時間のようだ。侍従が説明しただろうが、貴女は神官長からの祝福を受けたあと、父の言葉に応じて皆に顔を見せてやってくれ。できれば、笑って」
立ち上がった殿下にいざなわれて、私も腰を上げた。そうだ、とりあえず、今日やるべきことは片付けなければならない。
理性がそう急かした。けれど、足は重く、差し出された手に自分のそれを重ねることを躊躇っていた。
宙をさまよっていたその手を、殿下に掴まれるまでは。
「レダリカ」
強引ではなかった。優しく、ゆっくりと引かれる。――進む方向を誘導するように。
私の足は、操られるように前へと進んだ。
待って、と喉から出かけた私の声を制するように、今度はそっと囁かれる。
「今日はお披露目だけだ、何も緊張することなどない」
お披露目『だけ』。
そう言われてようやく、そして一気に理解した。さっきの話は求婚じゃない。私への提案じゃない。
決定事項の説明だ。この式典は、“王太子の新しい婚約者が聖女である”ことを諸侯と民衆に知らしめるために開かれたのだ。
耳の奥でどくんどくんと波打つ心臓の音に思考をかき乱される。
私、王太子妃になるの?
一度は取り上げられた地位に、返り咲くの?
魔女なのに? 聖女を名乗るから?
待って、と言おうとした喉を塞いだのは、真っ暗な城の記憶と、師の言葉。
望まれるのは贅沢。
もう待たなくていい。
その言葉が、今の私の進むべき道を示しているような気がした。――まさかあの人、このことを予感していた?
混乱しているうちにも足は進んだ。気がつけば、私たちは天幕の横をすり抜けて、横にいたはずの列席者を正面にとらえる位置に立っていた。目の前には、こちらを待つ国王と神官長が立つ儀式壇がある。
宮殿の表から聞こえるのは、何も知らない民衆の歓声。
――私は、もう一度生まれ変わるのだろうか?
思考を遮ったのは、頭上で羽ばたいた鳥の羽音だった。