61 言付け
「この時間、執務中では。父にご用でしたら、あいにく……」
「よい。貴女が馬車に乗っていくのが窓から見えて、気になっただけだ」
意識のないお父様を一瞥した殿下は、そこでハッとしたように目を見開いて「あとをつけてきたわけではないぞ」とやや強めに言い切った。
「貴女が向かいそうなところに、見当をつけただけで」
「左様で」と答えながら、どこか必死な殿下に少し笑ってしまった。笑ったあとで、口元を隠す扇も何も持っていなかったことに気がついた。
気がついたが、今さらだと思い直してすぐにどうでもよくなった。お互い血まみれ泥まみれを見せ合っている。
「……はじめてだな、そのように笑ったのは」
「……え?」
「いや、よい。……公は、まだ魔法が解けていないと聞いたが」
戻ってきた懸念に、つい俯いてしまった。
そういえば、もしお父様が魔法で操られていたわけではないとなれば、やはり宮廷を乱したとして罰を受けるのだろうか。
それもまた復讐になりそうだが、正直それを望んでいるかと問われると、どうも頷きがたかった。
「……あの、フラウリッツという魔法使いには解けないのか。強力な魔法使いと身受けられたが」
どきっとして相手の横顔を見た。まさか、この人からその名前を聞くとは思いもよらなかった。
ヴァンフリート殿下は首もとを擦りながら、なぜか少し複雑そうな顔をしていた。
「ゆ、行方がわからなくて」
言葉にすると、自分が一層惨めだった。捨て置かれていると認めるようで。
フラウリッツの“ヤギ”に宛てて手紙を送ったりもした。公爵邸のルゼの部屋には、彼女の“ヤギ”があったから。
けれど、手紙はいつまでも白い木箱に残り続けた。――まるで送り先が存在しないかのように。
城が気にかかったが、どうなっているのかまだ直接確認できていない。万が一にも、ヴィエリタの店と森が洞窟で繋がっていることを、王宮の人間に知られてはいけないから。転移魔法をするにも遠すぎる。
「レダリカ」
「っ、はい?」
物思いに耽っていたが、呼ばれて再び殿下の方を向いた。相手の視線はまだ、まぶたを閉じたお父様に向いていた。
「あの銀髪の魔法使いの言付けだ。自分の行方が気になるなら、魔導書の二〇九九ページを見ろ、と」
「え?」
殿下はこちらを見ないまま、いつものように淡々と続けた。
「よくわからなかったが、あの男、結果的に無事なようだから伝言は必要ないかと、今まで言わなかった。……何のことか、わかるか?」
何のこと、と言うか、そのままだ。魔導書がわからない王太子殿下には意味不明だろうが。
「魔導書……」
数日前、彼の誕生日を祝った日のことを、遠い昔のように記憶から手繰り寄せる。
あれは、共同物にしたはずだけど――。
「レダリカ、あの魔法使いのことが好きか」
弾かれたように顔を上げると、ヴァンフリート殿下の目がこちらにまっすぐ向けられていた。いつも仏頂面に近い顔をしている人だが、今は心なしか、いつにも増して表情が固い。
「な、何を急に」
「レダリカ、考えていたんだ。私と貴女の絡まった関係性を、もとの形に近いように直せないかと」
その真剣な眼差しに私は眉を寄せたが、はたと三日前の言葉が頭によぎる。
“何年も前から今に至るまで、妃にふさわしいのは貴女だけだった”
あれは、あくまでも過去形で、もう終わった話のはず。
だって地下牢で言われた通り、魔女を王族に入れるなんて世間が許すはずがない。
――“魔女”は。
“聖女”なら?
「……もとに、って」
「レダリカ、私は」
そのとき、部屋の扉が外から強く、ドンドンドンドンと叩かれた。
「ご用うかがいに参りましたっ、公爵閣下っ、おいでですかっ!」
殴るような音の合間に響いた声には聞き覚えがあった。私は驚いてドアノブへ飛び付いた。
「ベ――」
「おぉやおやおや初めまして! ジャクロス・フェルマイナーと申します、レダリカお嬢様にそっくりな名も知らぬお嬢様!」
客人は、うっかり魔女の名前を呼びかけた私の声をかき消すように名乗った。部屋の前で、私の護衛騎士に阻まれながらかろうじてノックしたらしい。ノックが荒々しかったわけだ。
ベネスこと仕立て屋フェルマイナーは騎士を肘で押し退けると、居ずまいを正しつつ、「いくらレダリカ様でも、父親の寝室で男といちゃつくのは感心しないわ」と囁いてきた。
頬かカッと熱くなった。別にそんなのじゃない。
「仕立て屋、殿下の前で無礼であるぞ」
力負けした騎士が、マントを整えながら低い声で小さく叱責したが、フェルマイナーはそれを遮るように笑顔で扉を閉めた。
「……そなた、ジャクロス・フェルマイナーと言ったか? 王族からの注文には一切応じないとかいう」
殿下の若干冷たい物言いに、フェルマイナーは優雅に腰を折り「初めてお目にかかります。つい最近、ようやく王室の方々のお目通りに敵う物を作れるようになったと自負しておりますので、今後はどうぞなんなりと」としゃあしゃあと言ってのけた。
*
その夜、私は意を決して王宮を抜け出した。
変身魔法は服装や髪型にしか使えない私だが、王宮の下働きや衛兵などの格好で堂々としていると、存外ばれなかった。皆忙しいようだし、少し前まで人の入れ替わりが激しかったこともあるのだろう。
男の格好で大通りを抜けてしまえば、難なくヴィエリタの店の扉を叩くことができた。
「まぁ、一体いつ産んだ息子が来たのかと思えば。こんな遅くになんです、誰かに見られていないでしょうね」
暗い店内に入れてもらえたが、冗談に付き合っている暇はない。
「誰にもつけられてないわ。それより、急いで森に行かせて欲しくて」
早口で用件を伝えると、寝巻きに小花柄のガウンを羽織ったヴィエリタは呆れた。
「ここは基本的に、お店に用がある方のための抜け道なんですけどね。……ちょっと待ってらっしゃい」とぼやくと、手に持った燭台の炎を丸テーブルのランプに移してから奥へと引っ込んでいった。
そわそわしながら商品を見渡して待っていると、準備ができたと眠そうな声がした。店の裏口を抜けて、中庭へと出る。
「早めに帰ってらっしゃい。……朝になって、王宮にあなたがいないとわかれば誰かしらが罰を受けるのですよ」
「ええ、ありがとう。……こんばんは、岩窟の貴婦人。魔女レダリカが通りますこと――」
あくび混じりに見送ってくれたヴィエリタに感謝しつつ、私は暗い洞窟へと踏み出した。
店内で感じた違和感について、尋ねる時間も惜しかった。