52 喧嘩の手本
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「ロザロニアさんまで来ちゃって……これ完全にフラウリッツ一門の内輪揉めじゃないですか。私、なんの関係もないのに巻き込まれてこき使われてるじゃないですかぁ……」
無惨な姿となった旧礼拝堂の壁の残骸から、そっと同胞たちを窺い見る、赤毛の女――クラリスは、げんなりと零した。
さらに憂鬱なのは、自分の背後である。瓦礫を避けた床の上で横たわる、治癒呪符で止血されただけの瀕死の“王太子”の存在。
よく見ると実にいい男だが、死んだ師匠いわく、『魔法のひとつも使えないくせに、人に命令して偉そうにふんぞりがえる害虫ども』の、親玉、の息子だ。
――なーんでこんなことになっちゃったんだろ……。
数日前、押し掛けてきたレダリカを、「と、ととととにかく明日、返事しますから……!」と追い出したあと。
ようやく玄関前からレダリカの気配が消えたと安堵して、虫除けを取り替えようと扉を開けたそこに、フラウリッツが立っていた。
率直に、殺されると思った、が。
『よう久しぶり。ちょっと頼まれてくんない』
『……ひ、一晩、待って』
『悪いね、ありがと。これが召喚の呪符。使い方わかる? わかんないか。紙とペンある? すぐメモして』
あ、話、通じないんですね。
――人の話聞けって言ってきた人間たちの当惑が、そのときようやく少しわかった。人の話を聞かないやつって、怖い。
少し前まで『うちの師匠に恩があるなら、私にも恩があるのとほぼ同義でしょ?』と便りにしていた昔馴染みは、ならず者みたいな図々しさで一方的に指示して去っていった。
その去り際、『鏡で見守ってて良かった』と呟いていたが、見守る、という言葉からして相手はレダリカだろうか。なんだ、喧嘩でもしたのか。
「……フラウリッツさんてば、レダリカさんに対してめっちゃ過保護だったです。意外とおばーさんみたいに口煩かったりして」
『クラリス、あんたフラウリッツくらいとは言わないから、せめて人並みになれないのかい』
思い起こされた故人の記憶に顔をしかめて、男の首を覆う治癒呪符を取り替える。
「人並みになれない親から生まれたから、魔女に売られるはめになったんですけどねー」
ぼやきながら血まみれの呪符を破り捨てると、今度は全く異なる図柄の呪符を胸元から取り出す。
レダリカに引き寄せられたときに握りしめてしまったせいで、くしゃくしゃだ。それを、床に押し付けてしわを伸ばしてやる。
気乗りしないが、やることをやらないと解放されない。急がないと、床に転がる色男を死なせてしまいそうだ。
やれやれ、魔女に助けられるなんて、一般人の最高権力者たる王族にはかえって屈辱でしょうに。
「あーあ、私も、魔法なんてひとつも使えなくっていいから、偉そうな害虫の一人になりたいもんです。次に生まれてくるときは、こういうきらびやかな王宮で、人にかしずかれて、ぬくぬく暮らしたいですねぇ」
――あ、でも、フラウリッツさんもレダリカさんも、そういう身分に生まれたのに、結局魔女になっちゃったんだっけ。
床に置いた呪符に手のひらを向ける。やるとなったら意識を集中させないといけないのに、頭のすみでは『やっぱナシ』と別のことを考えてしまう。
それがだめなんだって、何度も師匠に言われたのに。
『あんたは大物になる、なんて、私の直感は外れたがね。それでもこの大魔法を使えるのは、世界でただ一人、あんただけになるんだ。……くれぐれも、長生きするんだよ、クラリス』
大きなお世話ですよ、ベルティナおばーさん。
「『魔女クラリスから、古き精霊へ送る』……なんでしたっけ、次」
このあと、クラリスは着実に死に近づいていく王太子の横で、三回ほど召喚呪文を間違えた。
*
「おっと勘違いするなよ、僕は末っ子に肩入れしに来たんじゃない」
そう言うフラウリッツは、一転してそっけない口調だった。えっ、と戸惑った私に、笑顔を消して手を伸ばす。
まさか、弟子入り半年にして、とうとう叩かれるのか。いや仕方ない、ずいぶん勝手をしたのだから。
ぐっと覚悟を決めた直後、私の両頬は、大きな片手でむにっと中央に寄せられた。
「な!」
「僕には僕の目的があんだよ。君に召喚してもらったわけじゃない以上、好きにやらせてもらうから。……ロザロニアのことだけ、頼むよ」
ぱ、と彼の手から顔が解放される。離れていく手がついでのように、頬の涙を拭っていった。
……何よ、どっちにしろ来るなら、私が召喚したって良かったんじゃないの。
立ち上がったフラウリッツは、恨みがましい私の視線に気がついたらしかった。ぼそ、と低く、ともすれば聞き逃しそうな声で呟いた。
「自分で僕を手引きしてたら、目的を達成したあとの君は、罪悪感で後悔したと思うぜ」
「なんで、そんなこと」
「ここに僕がきたことも、あとで恨むよ、多分ね」
「だから、……え?」
聞き返したが、フラウリッツは、もう私の言葉には興味がないかのようだった。
「課外授業だ、しばらくじっとしてな。魔女同士の喧嘩の手本見せてやる。……片方魔法使いでも、あんま変わんないから」
そう言うと、肩で息をするロザロニアを労るように、その背中に手を置いたのも一瞬、そのまま振り返ってルゼと相対した。
「……ねぇ、ロザロニア?」
膝でにじりよって声をかけてみるが、彼女はぺたんと座り込んで放心したように俯いている。彼女の肩を抱くが、反応はない。
息をしているのに、まるで死んでしまったかのよう。涙のあとが痛ましかった。
「デライラ、おまえの気持ちはわからないわけじゃない。……なるべく味方でいてやりたかったよ」
フラウリッツの声で釣られるように、私もルゼの方に視線を向けると、彼女は棒立ちになって、無表情で私たちを見ていた。
「……でも、なってくれませんのね」
フラウリッツの言葉に答えるルゼは静かだ。右手はもとの白い手に戻っていた。
「私のためには森からでない。けど、レダリカ・カールロットのためなら王宮にもくる。そういうこと」
一言一言、話すたびに不穏な気配を滲ませるルゼの回りでぱちぱちと音がし始めた。青白い火花が、輪となって弾けている。
「何かをするのも、諦めるのも、その女次第。先生こそ、親の刷り込みを受けた雛鳥そのものですわね」
フラウリッツは何も言い返さず、両手を顔の前で球状に合わせて、その中に向かって小さく何かを呟いた。
対して、ルゼを取り巻く火花は急速に大きく、激しくなっていく。ルゼの回りで雷の輪ができていく。
見ているだけで肌が粟立つのに、ルゼはさらに両手の指をぱちっと同時に鳴らした。
嫌な予感がする。
あの子は、玉座の間でも同じ動きを――。
「情けない人」
冷たく言い捨てた瞬間、庭園の芝生に巨大な魔法陣が浮かび上がる。玉座の間で見たものと、同じ大きさ、色、図柄のものが。
「気をつけてフラウリッツ、これ……!」
ぶり返す恐怖をどうすることもできないまま、二回目の指鳴らし。地面の赤い線から、つむじ風が巻き起きる。
離れる暇がなかったから、私は無我夢中でロザロニアを抱き締めて息を詰めるしかなかった。
――が、転移魔法のつむじ風は、フラウリッツが爪先をとんと一回芝生に当てると、私たちの回りだけすん、と、やんだ。
「……苦手克服への工夫は結構。とはいえ、このやり方は推奨しないっつったろ」
顔を上げると、フラウリッツの背中と、その向こうに琥珀色の巨大な蛇。金色の目は、まっすぐ私たちに向いている。
「……問題ありません。目的が達成できるなら」
そう言ったルゼの頭上に、雷の輪が上昇した。それは強すぎる光を撒き散らしながら球状に収縮したかと思うと、ぐんと細くのび、先端が鋭い楔の形に変わった。
大きな、いかずちの槍だ。
まるで、宗教画でいくつも見た、天の精霊が下す神罰のような。
なんて皮肉。魔女が魔女を襲う武器が、世に神様と呼ばれる存在の一撃と同じ形になるなんて。
けれど、フラウリッツは動じていなかった。
「できないから言ってんだよ」
開いた両手から、黒い翅に金色の筋が入った、美しい蝶が飛び出した。それはフラウリッツの額の先で二度三度、円を描くように飛んだあと、空に向かって飛んでいった。
術者がそれを見送った直後、フラウリッツを含めた私たちを狙う蛇の頭が間近に迫ってきた。
視界を覆う大きな口の奥の、毒々しい薄紅色。見るのは二度目なのに、初めて見たときと同じように恐ろしい。
とっさに盾を作ろうとする、けれど。
「盾はきりがない。体力気力、ジリ貧になるよ」
見もせずにそう言うと、フラウリッツは両手を下から上へ掬い上げるように動かした。落としたペンを拾うように、軽く。
その手の動きに合わせて、ぼこ、ぼこぼこ、と、地面が盛り上がっていく。フラウリッツの足元から蛇に向かって、二本の盛り土の線ができる。
ルゼが舌打ちをした、ような気がした。
構わず、フラウリッツがぱち、と指を鳴らすと、盛り上がった地面の下から二本の巨大な土の腕が飛び出してきた。
「えっ、土の魔法!?」
これ、クラリスがベルティナから受け継いだ門外不出の魔法なんじゃ。
「……これにね、二十四時間完全自動護衛、兼暗殺、それから家政婦機能がついたのが、ベルティナのオリジナル魔法」
フラウリッツの言葉に、それまでとは違う意味で目を剥く。やだ、改めて言うけど魔法って便利ね。
……え、クラリス全然扱えてないじゃない、ほんとに。
固まった私の目の前で、どこまでも長く延びそうな土の腕の一本が蛇にしがみつき、もう一本は動けなくなった蛇が大きく開けた口にためらいなく入っていき。
喉を塞がれた蛇がのたうち回る。が、腕に抑えられて満足に暴れることすらままならず、やがて轟音とともに地面に倒れ付した。その衝撃で、私とロザロニアまで振動に震える。
立ち上る土埃。私は息を止めて、動かないロザロニアとその土煙の間にしゃがみこんで原始的な盾になった。
「……死んだの?」
私の言葉にはフラウリッツではなく、蛇の尻尾が答えた。怒ったようにどしん、と地面を叩いて。
「“大蛇”は不死身なんだよ。死の概念がない。そうなると、おさえつけて、“下”に押し込むしかない」
そう言ったフラウリッツが、かつて美しい芝生に覆われていた庭の地面を、人差し指で三回叩く。
すると、土と砂利と芝だけのはずの地面は、水面のように波紋を生みながら、横たわる怪物を土の腕ごと飲み込み始めた。
私たちのいる地面は固いままなのに、蛇から広がる波紋だけが私たちの体の下を通っていく。
「……」
私が目を白黒させているうちに、庭のほとんどを埋め尽くしていた琥珀色の柱のような胴体が、跡形もなく消えた。
私が呆然としていると、フラウリッツは涼しい顔で、雷の槍に人差し指を向けていた。
ルゼが同様に槍を見上げ、なぜか忌々しげに目をすがめる。
次の瞬間、槍に金色の鎖が巻き付いた。
鎖の両端につけられた重りが、槍の回りを縦横無尽に動く。鎖は槍全体にきつく、幾重にも巻き付き、引き絞っていく。
切っ先が揺れる。
柄が軋む。
そして二秒後、雷を集めて固めた槍は、締め付けに耐えかねて、粉々に砕けた――かのように、光の塵となって霧散した。
「“魔騎士の槍”は放たれたら死ぬまで追いかけてくる呪いの雷。けど、放つまでに時間が必要だから、必ず時間稼ぎできる魔法と併用してくるし、とにかく短期決着が鉄則」
……そうか。ルゼは、時間が足りなかったから、あの顔を。
……。
いや、そうなんだろうけど。
「……はい」
それ以外、私は他に何も言えなかった。
大魔法使いフラウリッツ。
その呼び名のゆえんを、私は、今、はじめて目の当たりにしている。
*
「……なんか今、誰か私の悪口言いました?」
クラリスは、フラウリッツに解毒と傷口の処置を施された王太子の横で、内職の編み物を手に苦い顔をした。