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5 カラス


 しかし、豆にも靴擦れにも耐えた足はすぐに止まった。


「車輪の跡が、消えているわ……」


 草を倒して跡を作っていた小さな一頭立て馬車の車輪跡が、途中でぷっつりと消えていた。それだけなら、さっきの不吉な物音の現場がここだったというだけのことだ。

 戸惑ったのは、そこに何もないからだ。馬車も、人影も、馬も。なんなら馬のひづめの跡も消えている。


「まさか、獣が馬車ごと丸のみに……?」

「ぶはっ」


 ひとりごとに答えるように声が降ってきて、心臓が飛び上がった。

 反射的に頭上へと顔を向ける。空を遮る枝のひとつから確かに声がしたのだが、そこに誰が隠れているわけでもなかった。ただカラスが一羽とまっているだけ。


「いやごめんごめん、あんまり突飛なことを言うもんだから」


 そのカラスのくちばしが動くと同時に、若い男の声がした。


 カラスが、喋っていた。


「……ぎ、」

「あっ、ちょ、まってレダリカ」

「ぎゃーーーーっ!!」


 人語を話すカラスは、私の絶叫に弾かれたように枝から離れた。そしてあろうことか、ばっさぁ、と黒い翼をはためかせて降りてきた。近づいてくる大きなくちばしに、私のパニックが加速する。


「あ、悪魔ーーーーっ!!!」


 スカートをたくしあげ、全力でめちゃくちゃに走る背後から羽ばたきが聞こえる。嫌だ、怖い、追ってきてる。「まってー!」と言われて、待てるわけがない。


 右も左も分からないままひたすら走ってしばらくのち、終わりは突然もたらされた。


 大きな木の根に足をひっかけて地面に膝をついた私は、爆発しそうな心臓と込み上げる恐怖で本当に吐きそうになっていた。ドクドクという自分の鼓動とゼェゼェという呼吸の合間に、遠くから翼の音がする。どうしよう。


「なんなの、この森は一体どうなって……なんで、私の名前を……」


 そういえば、教会の教えでは黒い動物は魔女のしもべとされていたような。

 まさか、あのカラスが。

 まさか、この森に魔女が。


 ――ガサ。


 草を踏み分ける音。

 普通の鳥は草を踏まない、はず。

 私は視線を上げた。


「……」


 ほんの三ヤードほど先の木の陰から現れた、黒い目。けれどその周りは茶色い毛並みに覆われている。黒い鼻。丸い耳。毛並み。大きな爪。だらだら垂れるよだれ。毛並み。大きな四つん這いの体。毛並み。


「グルルルル……」


 お父様よりずっと大きいだろう、獣。


『熊よ、お姉様。よかった、カラスじゃないわ』


「……ルゼ、何も、何も良くないわ」


 脳内の妹に静かに突っ込んだのが、何か刺激になってしまったのか。木の陰から現れた巨熊は、ぎり、と歯を剥きだしにした。こちらへ前足を踏み出してきた。

 逃げなきゃ、と焦るが、既に限界を迎えていた足は、意思の力だけではどうにもできない。


 ああ、もうだめだ。こうする間にも爪が、牙が、どんどん距離を詰めてくる。

 迫る恐怖に、咄嗟に目を閉じ、頭を抱えて伏せた。


 ああ神様、幸せだったなんて嘘です。本当はもっと遊びたかった。声を上げて笑いたかった。泣きたかった。お母様に、お父様に、褒めて欲しかった。認めます、ルゼが羨ましかった。ヴァンフリート様にだって、もっと優しい言葉をたくさんかけてもらいたかった。

 駄目ならせめて、小さいころの、たった一人の友達と、もう一度会いたかった。


 ここで、生きたまま獣の餌になるだけの人生だなんて、あんまりです。


「だから、まってと言っただろうレダリカ」


 ……ああ最悪だ。また悪魔の声がする。


「そら、眠れ眠れ。悪いけど、夕餉は他でありつきな」


 眠れって、永眠なんて、言われなくても不可抗力で――。

 

「あほかい。君が寝てどうする。ほら起きて起きて、顔上げて」


 なんで、誰、私の肩を掴むのは、顎を掴むのは――


「……ヴァンフリート、さま……?」


 ああ、殿下、あなたは、いまわの際の幻覚でも、そんな渋い顔をなさるのですね。






 身を丸めて眠る熊の傍らに、濃紺のトラウザーズの膝を曲げて、男がしゃがんでいた。銀色の髪が冷たい空気にさらりとゆれる。


 その膝先には、半端にくくられていた黒い髪をまだらに地面に散らして気を失った貴族の娘。豪奢だったであろう翡翠色のドレスは金糸もほつれ、あちこちに泥汚れが付いている。


 その汚れを指先でこすっていた男の足元へ、小さな黒猫が寄ってくる。


「フラウリッツ、あの馬車の男はさっき意識を取り戻して、ちゃんと町の方に走っていったよ。……うわ、なんだい、ここにも侵入者がいたのか。熊で見えなかったよ」


 女の声で流暢に人語を話し始めた猫に、男が驚く様子はなく、指についた汚れを払う。と、娘のドレスの汚れもぱたぱたと払った。

 もちろん、それですべて落ちるわけでもない。

 猫はそんな男と倒れた娘を交互に見て、うんざりと言った風に首を振る。

 

「貴族の娘だね。さっきの御者の主人かな。……もしかして、フラウリッツを迎えに来たのかな」

「まーさか。だったら森に来る前から薄汚れてるなんておかしいだろ。この泥、結構前に服についたもんだよ」

 

 不安げな猫の言葉を一蹴し、男は娘の背中と膝の下に手を入れ、「よっと」と抱え上げた。


「じゃあこんなとこに何しに……、フラウリッツ?」

「ロザロニア、今夜のご飯、一人分増やしてくんない?」

「へっ?」


 次の瞬間、ブーツに覆われた足元から小さなつむじ風が巻き起こり、男をあっと言う間につつみこんだ。


 ものの数秒で風はやんだが、巻き上げられた木の葉がひらひらと舞うそこに、もう男の姿はなかった。



 

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