45 帰還、または襲来
*
「なぜ、こんなことになったのだ……」
男はバルコニーの手すりによりかかり、整然と刈り込まれた王宮の中庭を見ながら独り言ちた。
その目は焦燥に落ち窪み、目の下には濃いくまが浮き、白髪が力なく風に揺られては、額に落ちかかっている。
その後ろで気をつけして立つ文官も、暗い表情で俯いていた。
男が法務大臣に任じられたのは昨秋のこと。田舎の小さな領地のことで手一杯だった貧弱貴族には、寝耳に水の任命だった。
わけが分からないながらも、高給職に抜擢されて心躍らせた。
王都に着き、時の権力者と言えばカールロット公爵だろうと、贈り物を物色して華やかな店をはしごした。
家の経済状況をかんがみて質素な暮らしに甘んじる娘に、小耳に挟んだフェルマイナーのドレスとやらを作ってやろうと仕立て屋にも立ち寄った。
足の長い軽薄な色男から生地や流行の説明を聞きながら、娘に会わせたくはないな、等と考えた。
――浮かれていられたのも、初出仕する日までのことだった。
与えられた仕事は、王太子の言う通りに書類にサインしていくこと。法律書の読み込みも裁判記録の確認も不要だと、王太子本人に切って捨てられた。
それから毎日のように、玉座の間で貴族や聖職者が有罪を言い渡されている。が、男には彼らがどんな罪を犯して裁かれているのか、半分も分からなかった。
風に揺れる葉先を男は泣きそうな目で見つめた。ここ最近ろくに眠れていなかった。
広い広い玉座の間に響き渡る、冤罪だと叫ぶ人々の声が頭から離れないからだ。
でも、連日別の人間が裁かれるから、夢で泣き叫んでいるのが誰なのかはわからない。
王都の広場では役人や身分の高くない聖職者が同様に裁かれているのだという。
最近では、罪人を運ぶ護送馬車の御者が行方不明だとも聞いた。
「ヴァンフリート殿下はいったい何を考えておられるのだ? この国から貴族や坊主どもを駆逐するつもりか? 外交だってろくに事情を知らないものが新大臣に就いたというし、内も外も問題が山積みではないか。……陛下は、ご無事だろうか」
王太子を『いい加減にしろっ』と一喝した王と王妃が、その翌日から幽閉されてもう一ヶ月。
もしやすでに。
そんな自分の想像に、男は震えあがった。
どうしてこんなことになったのだろう。領地の麦穂の生育状況や、牧場の牛の出産状況を心配していればよかった日々が懐かしい。
次は、自分かもしれない。なにも悪いことはしてないけれど、なんだかそんな気がした。
疑心暗鬼が止まらない。誰も悪くないけど、誰も助けてくれない気がした。
王都が、地獄に引きずり込まれているような気がした。
いつから、こんなことになったのだろう。
「……殿下の婚約者が、かわってからだ」
王太子妃候補がカールロット公爵家の長女から、次女に変わってから、この国はおかしくなっていった。
亡くなった長女レダリカ・カールロットは、きつい見た目で完璧主義だったと聞いた。次女で現王太子妃候補のルゼが可憐で天真爛漫なのとは逆に。
でも、前の方が平和だったなぁ。
「カールロット公爵も先が長くないというし。――ああ、神よ、なぜこの国はこんなことに」
男は背中を丸めて中庭に降りると、あてもなく歩いた。もうじき、今日の“断罪のお時間”だ。朝は何も食べていないのに吐きそうなくらい、気が重い。
ふと、男は視線の先の、生け垣の奥に、古い礼拝堂が建っていることに気がついた。
もう使われていないのか、王宮内の施設だというのに至る所が劣化している。外装の神の像も無惨に朽ちていて、およそ神が宿るとは思えない様子だった。
しかしこれも何かの導きかと、男はその礼拝堂に向かって両手を組み、静かに目を閉じた。
「神よ、グラニエルをお救いくだされ。殿下、目をお覚まし下され。陛下、そして政治経済外交のわかる方々、どうかこの宮廷にお戻りくだされ。そしてどうか、わしを早急に田舎に帰してくだされ。リリーの子どもを取り上げてやらねばならんのです……この際、もう悪魔でもなんでもいいから、誰か何とかしてくだされ……」
領地の牧場の、母牛の出産を案じる法務大臣の後ろで、控えていた文官も手を組んで祈りを捧げた。
王宮の美しい庭に佇む、忘れられた礼拝堂。そこに春先の淡い午前の光が静かに降り注ぎ、ささやかな風が吹き抜けていく。
「……ん?」
祈りが泣きごとに変わっていた法務大臣は、ふと口をつぐみ、その小さな両目をぱちぱちと瞬かせた。
なんだか、風が変わったような。強く、激しくなってきているような。
すると突然、目の前の礼拝堂の中から物と物がぶつかるような、大きな音がした。木製の何かが盛大に壊れるような音も続いた。
「なっ!」
礼拝堂のくもった窓も、腐りかけた木の扉も、顔のはげた像も、すべてが大きく揺れた。周囲の木から、逃げるように鳥が飛び去っていく。
そして、その恐ろしい音と揺れは、始まったときと同様突然終わり。
「な、な……っ!」
目を白黒させる男二人の前で、朽ちかけた黒い扉が軋んだ音を立てて、開いた。
「な、な、な……っ!?」
――コツ。
礼拝堂の、ひび割れたタイルの床を打つ固い靴音。
ゆっくりと開いていく扉の向こうから溢れてきた、黒い布。
薄暗い礼拝堂から出てきたのは、背中を覆う黒い髪、理知的な黒い目、艶やかな黒いドレスの、若い女。
白皙の美貌から、冷ややかな視線を男に送ってくる。
「……な、なに、もの、だ……」
芝生にへたり込んだ大臣の喘ぐような呟きに、女は不愉快気に眉を寄せた。
「呼ばれたからわざわざ足を運んだのに、随分な物言いではありませんの。ジャンセン伯爵」
男、ジャンセン伯は目を丸くした。
見知らぬ女なのに、なぜ、自分を知っている?
呼ばれた? いつ、誰に? なぜ、明らかに無人だった礼拝堂から?
「っ、ま、まさか……」
そろって腰を抜かした男二人の横を、女はドレスの裾裁きも優雅に通り過ぎていく。
「……わし、ほんとに悪魔を、召喚してしまったのか?」
残された大臣の呆然としたつぶやきを、その胸につけられた、ジャンセン家の紋章のブローチが静かに聞いていた。
*
不自然なくらい静かな回廊を、私は早足で進んだ。
ヴィエリタのお店から転移魔法で出る場所に旧礼拝堂を選んだのは、そこが比較的魔女避けの力が弱い場所だと踏んだからだった。
でも、本当に魔女避けの魔法なんてかかっていたのだろうか。そう思うくらい、普通に歩ける。警鐘がなるわけでもない。誰にも邪魔されない。
「まあ、呼んだんだから、迎える準備くらいはするってわけね」
……扉を開けた先に、法務大臣服の田舎伯爵がいたのは予想外で固まってしまったけど、向こうも驚いててくれて助かった。
憎い前法務大臣は、今は孤島の要塞の地下牢にいるらしい。ご愁傷さまだ。
しばらくして、私は足を止めた。
目の前には、玉座の間につながる扉。
数ヵ月前、私はこの扉から罪人として連行された。
魔女として、追放された。
私は扉に向けて手を掲げる。触れずに少し力をこめると、両開きの扉はわずかな音をたてて、ひとりでに手前へと開いてきた。
「法務大臣、遅刻ですか、……な、何者だっ!」
扉が開いていくにつれ、中の空気が一変していくのを感じた。
部屋の奥に向かって花道を作るように、二列に立つ貴族たち。その先の玉座の前で、罪人のように跪く聖職者。誰もがこちらを振り返っている。
「何者だなんて、ずいぶんな仰りよう。こちらはれっきとした招かれし客だというのに、ここは両脇に兵士がついていないと入ることも出ることもできなくなったの?」
胸を張って朗々と皮肉を言うと、侵入者を睨んでいた面々のうちのいくつかの顔が驚愕に塗り替えられていった。それは、まさしく死人を見た顔というわけだ。
私は構わず、扉の先の玉座にまっすぐ視線を据えて足を踏み出す。
「新しい宮廷の作法に疎くてごめん遊ばせ。あいにく、わたくしめの時代のしきたりしか存じ上げなくて」
歩く私に押し出されるかのように、何人かが後ずさった。幽霊か、とどこかで誰かが呟く。失礼な。
玉座と私の間にいた、罪人を連行する二人の兵士が青ざめながら槍を向けてきた。私もそこで立ち止まる。
「――ごきげんようヴァンフリート殿下、ならびにお妃様。お招きに応じて馳せ参上いたしました、カールロット公爵家が長女レダリカ……」
頭は下げない。
胸元から引き出した青い封筒を人差し指と中指で挟み、前方に向かってぴっ、と飛ばしてやる。
手を離れた封筒が、空中で炎に包まれた。ヒイッと誰かの悲鳴が上がる。
「……あらため、カールロットの魔女レダリカ、と申します」
炎の塊は空中で青い鳥の姿になって、玉座へと向かっていった。王のようにそこに座る、ヴァンフリートに。――その横に侍る、ルゼに向かって。
「の、呪いだ! 悪魔の力だ!」
小さな手紙ひとつに青ざめて騒ぎだす貴族と兵士たち。べつにただの手紙だが、捕らえられていた聖職者も含めみんな散り散りに広間の端へと走っていった。兵士も逃げて、手紙はまっすぐヴァンフリートへと向かう。
けれど、ヴァンフリートは動じない。目の前に来た炎の鳥を、腰に下げていた剣でためらいなく両断した。
ルゼが送ってきた招待状が、黒い燃えカスとなって床に落ちるのを、私と王子はつまらないもののように見届けた。
「……まだ、結婚していませんから。前みたいに呼んでくださいな」
嵐のあとのように静まり返った玉座の間に、ルゼの声が白々しく響く。同時に、コツ、コツ、と、かすかな足音をたてて、壇上からも下りてきた。
魔女だ、カールロット公爵の娘が、と誰かの叫ぶ声が遠くに聞こえる。いつの間にか、玉座の間には私と、ルゼと、人形のように突っ立ったままのヴァンフリート王子だけが残されていた。
ルゼが片手を上げる。目撃者のいなくなった玉座の間の重い扉が、開いたとき同様ひとりでに閉まっていく。
「最後に会ったのは、夏でしたわね。お元気そうで嬉しいです」
懐かしむように目を細めて言われ、忌まわしい記憶が頭の中によみがえる。
あの日、魔法の鏡を通して見た光景に、私の帰りを待つ人間なんて誰もいないと嘆いたけれど。
「――ようこそ、お姉様」
『ルゼはこの宮廷で、お帰りをお待ちしております』
彼女の放った別れ際の言葉は、あながち嘘でもなかったようだ。
「お帰りを、お待ちしておりました」