40 暴政
私は小さく息をのんで、慎重に確認した。
「……カールロットの魔女、って」
「ルゼ・カールロットのことです!」
それはわかる。何せあの家には、もう父とルゼしかいないのだから。父じゃないだろう。
男の言葉で、フクロウを爪に引っ掻けようとしていたロザロニアが息を飲んでこちらを見たのがわかったが、本物の魔女のことではないと安心させるため「平気よ」と言って黙らせた。
魔女とは、きっと比喩だろう。ということは。
「あの子が、宮廷での政敵を排除し始めたということ?」
それなら、さもありなんというところだ。以前の私なら信じられなかっただろうが、今の自分の状況を考えれば、婚約者――そろそろ夫かもしれないが、ヴァンフリートの寵と立場を利用してやりたい放題しても別におかしくない。
「そ、それだけではありませ、んっ……」
咳き込んだ男に、私は大広間から水のはいったグラスを取り寄せて渡してやった。男は目の前の魔法に意識が向かなかったのか、一気に飲み干して、一息吐くようにその場に座り込んだ。
「……あのとき私は、魔物に森から追い出されたあと、何がなんだかわからないままグラニエルに戻りました」
*
――王都でルゼの婚約発表がされた夏の終わり頃から、それは始まった。
まず、国内の貴族たちの不祥事が明るみになり、逮捕され始めた。冤罪を訴える者もいたが、王太子が取り合わず、国の中枢を担う有力者のほとんどが沈痛な面持ちで宮廷を去った。
しばしば体調を崩しては休養をとる日が増えていたカールロット公爵を除いて、宮廷の顔ぶれが変わっていった。それくらいならよくあることだ。王家の面子が変われば、権力の拠り所も変わる。最初はみんなそう思っていた。
外戚となる公爵家の驕りだと眉をひそめつつも、ほとんどは特に疑問を抱かずに、他人の不幸にほくそ笑むだけだった。むしろ時間がたつにつれ、新しい婚約者ルゼの評価は上がっていった。
なぜなら、元から天真爛漫で謀略からは縁遠く思われていたルゼ・カールロットは、この逮捕劇の中で死罪を言い渡された者がいると、決まって王太子に助命嘆願をしたというからだ。
幸か不幸か刑死する者は出ないまま、秋には、ルゼ・カールロットは情け深い妃になるだろうと、身分の上下に関わらず誰もがそう思っていた。
端からは、王太子が冷酷な命令を発するとき、いつも傍らに寄り添う美女は、慈悲の女神に見えていたから。
――死罪以外の裁決に、彼女が慈悲を乞うことはなかったが。
そうするうちに、やがて逮捕者は大貴族や高位聖職者のみならず、市民上がりの役人や並の聖職者にまで及び。
冬、王太子は国王夫妻を王宮の奥に幽閉した。
こうなってようやく、宮廷に残った貴族たちは王太子の様子がおかしいことに気がついた。
しかし、小貴族出身の新米大臣たちの中に、常軌を逸したヴァンフリートに立ち向かえる者などいない。彼らに出来たのは、国王夫妻は息子に実権を渡して早隠居したのだと、市中に信じさせることだけであった。
それも結局、王太子の指示する通りに。
頼みの綱となるべきカールロット公爵は、この頃は屋敷に引きこもりがちで、たまに出仕すれば血の気のない青白い顔にげっそりと痩せこけた姿を見せていた。
ルゼ・カールロットは、そんな暗雲立ち込める宮廷に、満面の笑みを絶やさず君臨していた。
――あるとき、一介の役人に過ぎない御者が、いつものように王太子の命令で捕らえられた異端審問官を辺境の牢獄へ運ぼうと、護送馬車の馬に鞭をくれた。
そこへ、宮殿から出てきた王太子本人から声をかけられた。
『待て。……彼を、連れていくのは、なぜだ』
疲弊した心を誤魔化すように、機械的に使命を果たしていた御者は驚いた。捕らえた聖職者を東の端の、崖の上の牢に送れと、眉ひとつ動かさず命じた本人が何を、と。
自分の仕事に何か不備があったかと、御者は恐怖に震えさえした。
しかし、早足で近づいてきた王太子は額をおさえ、目の前の状況にひどく困惑しているように見えた。重い頭痛にでも悩まされているように眉間に深くしわを刻んだ険しい表情は、壇上から淡々と裁可を下すときよりかえって人間味が感じられた。
そこへ割って入ったのが、足音もなく近づいてきていたルゼだった。
『彼は魔女でないものを魔女と偽って街に触れ回った重罪人です。殿下、あなたがお命じになったのですよ』
髪を飾るリボンを揺らして馬車と王太子の間に立ったルゼは、その白い両手で婚約者の顔を包み込んだ。
『お忘れにならないで、ヴァンフリート殿下』
たおやかな指が、しっかりと男の顔を自分へと向けさせる。見つめ合う二人に、たまらずといったていで護送馬車の中の聖職者が『違います殿下、どうか話を聞いてください!』と鉄格子のはまった小窓から叫ぶ。すると、ルゼが、ルゼだけが振り返り。
『釈明は、遠い天の精霊へ存分に。――本当は、私がこの手で縊り殺してやりたいくらいなのに』
その顔は、慈悲の女神と言われた女とも、恐怖の宮廷で権力に愛された公爵令嬢とも違っていた。
垣間見えた、憎悪に燃える青い目に、御者の心臓が縮み上がった。
馬車の小窓へ向けて、地を這うような呪いの言葉を吐いたルゼはそれきり、王太子をもその場に置いて宮殿へと戻っていった。その背へ、囚人は震えながらなおも叫んだ。
『ルゼ様、なぜです、私は、あなたのお父上のお命じになる通りに……!』
『――何をしている。早く馬車を出せ』
哀れな嘆願を遮ったヴァンフリートは、ここ数ヶ月に渡って御者が見ていたのと寸分違わず、冷たい人形のような顔で命じた。
馬を走らせながら、御者は確信した。王太子は、ルゼ・カールロットの傀儡だと。
権力争いなど、一役人である自分は仕事が多少増えるか否かくらいしか気にしない。けれど、一人の女が王太子を操り、国王夫妻を閉じ込め、貴族たちが何も言えないこの現状が続けば、自分たち下々の暮らしもいずれは歪んでいくのは察するに難くない。
この馬車で運ばれるのが、明日には自分や同僚になるのかもしれない。何とかしなければ。あの女を、ルゼ・カールロットを止められる、公爵でも王家の人間でもない誰かに、この惨状を訴えなければ――。
*
「で、わざわざここまで、単身馬を駆ってきたと」
大広間のソファで眠る御者を囲む魔女のうちの、誰かがいった。
森で御者から聞いた話を、ダリエルが説明していた。御者本人の鬼気迫る様子を面白おかしく再現するダリエルや、それを笑う魔女たちに、真剣さは欠片も見当たらない。
「そんなこと言ったってねぇ」
また、別の誰かが言った。狐の毛皮を首に巻いた魔女だ。
「王都のことなんて、私ら魔女には関係のないことなのに」
ダリエルが引き継いだ。ねー、と、みんな明るく同調する。
そんな輪を、私はまた、少し離れた人魚像の足元で見つめていた。